対馬の闇Ⅳ

 ひろ子は、瑞恵に声をかけた。「お茶じゃなく、コーヒーがいいんだけど」瑞恵は、即座に返事した。「コーヒーですね。ブレンドしかありませんが、それでいいですか?」ひろ子は、うなずき、付け加えた。「コーヒーには、ケーキよね。ケーキってどんなの?」瑞恵は、笑顔で返事した。「レアチーズケーキです。すっごく、おいしいんです。これだったら、少しぐらい、いいんじゃないですか?」ヨダレをたらしそうになったが、ぐっとこらえて、冷静に返事した。「少しぐらいだったら、いいかもね。いただくわ」瑞恵は、フレッジからレアチーズケーキを取り出し、小皿に乗せて差し出した。「コーヒー淹れますから、もうちょっと待っていてください」今のひろ子にとって、レアチーズケーキは、ビーフステーキを目の前にして、マテを言われた犬の気持ちと同じだった。今にも、ヨダレがこぼれ落ちそうだった。我慢していると、気が変になりそうだった。

 

 瑞恵は、丁寧にお湯を注ぎ、ゆっくりとコーヒーを淹れた。ひろ子は、こんなに時間が遅く感じられたことはなかった。手に震えが起きていた。これは、ケーキ麻薬が切れた禁断症状の現れに違いないと感じた。コーヒーを差し出した瑞恵は、声をかけた。「コーヒーを淹れるの得意じゃないんです。イマイチ、センスがないんです。どうぞ」ひろ子は、コーヒーなど、どうでもよかった。一気にかぶりつきたかったが、グッと我慢して小さなフォークを手に取った。手の震えがますますひどくなっていた。ガタガタと小皿で音を立ててしまった。びっくりした瑞恵は、声をかけた。「ひろ子さん、大丈夫ですか?気分でも、悪いんですか?」ひろ子は固まっていた。なんと返事していいか、頭が混乱していた。「ハ、ア~、いや、別に。ほら、ダイエット中だから、ちょっと緊張しちゃって。ケーキ食べるの、半年ぶり」手の震えは、収まらなかった。

 

 ひろ子は、一度、フォークを小皿に置いた。そして、大きく深呼吸して、神に、心の中で懺悔した。「私は、意志の弱い、情けない、女です。ケーキ麻薬がやめられない、ゲスの女です。地獄に落とされてもいい、最低の女です。こんな女をお許しくださりますか?いや、神を侮辱するようなことを、シャ~シャ~とほざくとは、情けなくて、自殺したい思いです。でも、いましばらく、ご猶予をください。出口の仇を討った暁には、神に愚かな身をささげ申し上げます。お許しください、マリア様」自己満足の懺悔を終えたひろ子は、フォークを手にした。震えは止まっていた。ひろ子は、自分のことを最低のカトリック信者と思ったが、口からも目からもヨダレが出ていた。「いただきます」ひろ子は、麻薬患者が麻薬を手に入れたように、ケーキを口に放り込んでいった。

 

 

 無言でケーキをむさぼり食べるひろ子を見て、いったい何が起きたのだろうとじっと見つめていた。精魂込めて淹れたコーヒーを一口もすすらず、ひたすら口をモグモグさせていた。「ひろ子さん、おいしいですか?」もはや、ひろ子の耳に入る言葉はなかった。ひろ子は、ケーキでできた宇宙の中で、宇宙遊泳をしていた。食べ終わったひろ子は、我に返ったが、ケーキ麻薬の恍惚感に浸っていた。頭は、真っ白になっていた。瑞恵は、声をかけ続けた。「ひろ子さん、ひろ子さん」誰かが自分を呼んでいる声に気が付いた。「え、何か言った?」瑞恵は、コーヒーに目をやった。「コーヒー冷えますよ」ひろ子は、天を仰ぎ、神にお許しを乞うた。「愚かな迷える子羊をお許しください。また、神に背いてしまいました。地獄に落としてください」ひろ子は、コーヒーを手に取り、一口すすった。「もう、死んでもいい。すっごくおいしかった」

 

 瑞恵は、ダイエットで無理をして、拒食症になり、入院した人を知っていた。「ひろ子さん、あまり無理をしないほうがいいんじゃないですか?いいじゃないですか、ちょっと太ったぐらい。私は、もう、ダイエットやめました。食べすぎはよくないけど、我慢しすぎても体に悪いそうです。一緒に、太りましょうよ」太るという言葉を聞いて、真っ青になった。我慢しすぎは、体に良くないことは知っていたが、太りたくもなかった。「我慢しすぎは、よくないわね。でも、ダメな女。こんな女、地獄に落ちるわね」地獄と聞いて、ちょっと重病じゃないかと思えた。「ケーキを食べて、地獄に落ちるんだったら、この世の女性は、すべて、地獄行きじゃないですか。もっと、気楽にいきましょうよ」ひろ子のダイエットは、何回やっても失敗していた。でも、太る体質のひろ子にとって、甘いものは禁物だった。

 

 へこんでしまったひろ子は、小さな声で返事した。「やっぱし、ダメだったか。無理をして、体を壊してもよくないし。みずえさんの言葉に甘えて、気楽に行くとすっか」ワハハ~とひろ子は、笑い声をあげた。瑞恵もワハハ~と笑い声をあげた。「いいじゃないですか。一度の人生、能天気に行きましょうよ。ところで、ひろ子さんは、福岡じゃなかったんですか?いつから、対馬に?」ひろ子の場合、事情が複雑で説明に困った。とりあえず、適当に返事した。「何というか、知り合いの関係で、1年だけ、対馬に戻ることになったのよ。まあ、そんなとこ」1年だけと聞いて、がっかりしてしまった。「1年ですか。ということは、来春には、福岡ってことですね。本当は、私も、福岡が良かったんですが、そうもいかなくて。でも、ひろ子さんに会えて、元気が出てきました。兄の分まで、対馬で親孝行します」

 

 時刻は午後1時を過ぎていた。ひろ子は、立ち上がり挨拶した。「もう、こんな時間。ケーキ、ごちそうさまでした。帰らないと」瑞恵は、またもや、引き留めた。「お昼、まだでしょ。一緒に食べましょうよ。いつも、一人なんです。彼氏、いないし。いいでしょ。何か、急ぎの用でもあるんですか?」ひろ子は、即座に返事した。「別に、ないけど」瑞恵が、ポンと手を打って笑顔で返事した。「何、食べます。お寿司、取りましょうか?すぐ近くに、お寿司屋があるんです。よく、取るんです」ケーキの次は、お寿司じゃ、図々しいように思えたが、帰って一人で食べるのも味気ないと思い、この際、お言葉に甘えることにした。「そお、それじゃ、いただこうかしら」瑞恵は、即座に、出前の注文を取った。「30分くらいかかるそうです。そうだ、アルバム持ってきますね」瑞恵は、自分の部屋にかけていった。両手に分厚いアルバムをもって笑顔で戻ってくると、ひろ子の右横にポンと置いた。

 

 瑞恵は、アルバムをはさむように腰掛け、アルバムを開いた。そこには、マウンドに立っている出口巡査長のユニフォーム姿がった。瑞恵は、寂しそうに話し始めた。「これ、お兄ちゃん。かっこよかったな~。写真見てると、死んだのが嘘みたい。お兄ちゃんのつぶやきが聞こえてくるんです。”よし。抑えてやる。任せとけ”って。今でも、信じられない」ひろ子も写真を見ていると出口の死が嘘のように思えた。突然、オ~~、と叫んで、ドカ~~と開けたドアから、浅黒い出口の顔が現れるような思いがした。「そうね、エースだったな~。かっこよかった」ページを繰ると、ひろ子のユニフォーム姿が現れた。ひろ子は、叫んだ。「え、これって、私じゃない。なんで、こんなに」瑞恵も最初見た時、ひろ子のたくさんの写真にびっくりした。「お兄ちゃんたら、ひろ子さんのファンだったみたい。うわさに聞いたんだけど、ひろ子さんのペア、ビューティーペア、って言われていたんでしょ」

 

 ひろ子は、出口に盗撮の趣味があるとは夢にも思わなかった。男子は、見かけによらず、ドエッチだと思った。「ちょっと、これって、盗撮じゃない。いやね~。まったく」瑞恵は、クスクス笑い始めた。「男子って、こんなものよ。いいじゃないですか。男子に人気があって。お兄ちゃんは、ひろ子さんが好きだったのよ。こんなにたくさん、よく撮ったものね」瑞恵は、ハハハハハ~~と大声で笑った。ひろ子は、恥ずかしくなったが、部活の写真に改めて見入ってしまった。というのも、部活の写真は、部員の集合写真しか持っていなかったからだ。特に見入ったのは、県大会ベスト8の数枚の写真だった。その試合は、最終ゲームまでもつれて、ひろ子のスマッシュがアウトになり、ゲームセット。ベスト4進出はならなかった。さゆりと抱き合って泣いている姿の写真に見入っていると、あの県大会での大事件を思い出した。

 

 

 ひろ子は、泣き崩れている二人の写真を指差し、つぶやいた。「この試合の時、大事件が起きたの」大事件と聞いた瑞恵は、身を乗り出した。「え、大事件ですか?どんな?」大事件といっても噴き出すような事件だった。「聞きたい?まったく、バカげた事件よ。聞いたら、大笑いするから」そこまで言われたら聞かずにはいられなかった。「聞かせてくださいよ。もったいぶらなくても、いいじゃないですか?」ひろ子は、高校時代を思い出していた。「みずえさんは、中学生だったから、覚えてないかもね。出口君のズル休み」瑞恵は、思い出せなかった。「ズル休みなんか、してないと思うけど」ひろ子は、瑞恵の顔を見つめ話し始めた。「それが、大問題になったズル休みなのよ。話せば、ちょっと長くなるんだけど、いい思い出だから話すね」瑞恵は、目を輝かせてひろ子を見つめた。ひろ子は、脳裏のスクリーンにコートを駆け回る青春時代を映し出した。

 

 ひろ子は、一呼吸置くと話し始めた。「私のペアは、県大会に出たのよ。その会場は、佐世保市の総合グランドだったの。結果は、奇跡的にベスト8に入ってね。それは、うれしいことだったんだけど、この試合の応援に来ていた、とんでもない野球部の3人組がいたのよ。その中の一人が、出口よ。出口から後になって話を聞いたんだけど、そもそも、言い出しっぺは、長嶋っていう金持ちのヤンキーみたいなやつ。ビューティーペアの応援に行こうと言い出したんだって。出口は、旅費がかかるから、行かないと言ったらしいんだけど、お金の心配はしなくていい、俺のオヤジが出してくれるから、って言って、出口は誘いに乗ったらしいの。月曜の早朝、親には朝練があると言って家を出て、3人は、長嶋のオヤジのお抱え運転手に乗せてもらって、空港に行ったらしいの。そう、長嶋のオヤジは、市会議員の議長といってた」

 

 面白くなってきた話に何度もうなずき瑞恵は、聞き入っていた。「お兄ちゃんも、いい加減なやつね」ひろ子は、ニコッと笑顔を作って、話を続けた。「応援に来てくれたのはいいけど、ズル休みじゃない。それが、誰かにチクられて、ばれたのよ。それからが、大変よ。教頭は、カンカンになって、野球部は何をやってるんだ。3人は、停学処分にする、と武田監督に言い放ったのよ。監督も仮病を使ったのは、よくないと思ったらしいけど、応援に行ったことは、悪くはないと思ったらしいの。それで、監督は、停学処分はひどすぎると思い、嘘をついて、この場を切り抜けたの。なんと、監督自らが、応援に行くように指示した、って言ったらしいのよ。そうなれば、監督が責任を取らなければならないでしょ。監督は、自分が責任を取ります。監督をやめます、と言い放ったんだって。教頭は、嘘を言ってるとわかっていても、監督自ら、責任を取るといわれれば、教頭まで、責任問題になるじゃない。結局、停学処分は、取り消されたんだって」

 

春日信彦
作家:春日信彦
対馬の闇Ⅳ
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