対馬の闇Ⅳ

 ひろ子は、瑞恵が自分と同じことを考えていることに驚いた。誰が考えても、出口巡査長の死は、単なる不慮の事故死ではない。麻薬の運び屋をやってしまったという出口の懺悔から考えて、自殺の可能性はあるが、口封じとして、他殺の可能性も十分ある。なのに、警察は、単なる事故として、あっけなく処理した。この点も、納得がいかなかった。出口の仇をとるには、麻薬密輸の現行犯を逮捕する以外にない。そのためには、どうしても、内部情報が不可欠。「みずえさん、悲しんでばかりいてもしようがない。出口君は、何かの事件に巻き込まれたと思う。その何かを、突き止めなくては。そうでしょ。元気を出して。一緒に、仇を取ろう」仇と聞いた瑞恵は、涙を拭いた。目を吊り上げた瑞恵は、力強く返事した。「ひろ子さん、協力してくれるんですね。絶対、仇を取ってやる。仇をとるには、どうすればいいんですか?何ができるんですか?」

 

 ひろ子は、冷静さを保ち、返事した。「出口君の事件には、ヤクザがかかわっているかもしれない。そうなれば、軽はずみな聞き込みは危険。私に、考えがあるの。今は、私を信じて、じっと待っていて。単独行動は、絶対ダメよ。わかった」瑞恵は、伊達マスターと同じことを言われ、やはり、兄の死には、何か恐ろしい闇があるように感じられた。「はい。ひろ子さんを信じます。でも、何かお手伝いさせてください」ひろ子は、うなずいた。「ありがとう。大野巡査との面会後、やってもらいたいことがあれば、お願いする。とにかく、大野巡査と会うことが先決。連絡が取れたら、私に電話するように伝えてくれる」瑞恵は、敵討ちをあきらめていたが、神のご加護で、奇跡の逆襲の機会を与えていただいたような心持になった。「5時を過ぎたら、大野巡査に電話します。そして、そのように伝えます」

 

 ひろ子は、ひとまず帰って、連絡を待つことにした。「それじゃ、お願い。帰るわね」瑞恵は、もう帰るのかとがっかりした。対馬に戻ってきたばかりで、話し相手がいなくてさみしかった。「え、もう、帰っちゃうんですか。もうちょっと、いいじゃないですか。ケーキがあるんです。食べていってください」ケーキと聞いた途端、腰が動かなくなった。ダイエット中で甘いものを絶っていたが、もう、我慢の限界に来ていた。「ケーキ、食べたいけど、ダイエット中なのよね」瑞恵は、悪いことを言ったと気の毒そうに返事した。「ダイエット中でしたか。それじゃ、もう一杯、お茶を飲んで行ってください。対馬に戻ったばかりでしょ、話し相手がいないんです。いいでしょ、もう少し」ひろ子は、ケーキが頭から離れなくなっていた。「そうね、ちょっとぐらいなら」瑞恵は、お茶の準備を始めた。

 ひろ子は、瑞恵に声をかけた。「お茶じゃなく、コーヒーがいいんだけど」瑞恵は、即座に返事した。「コーヒーですね。ブレンドしかありませんが、それでいいですか?」ひろ子は、うなずき、付け加えた。「コーヒーには、ケーキよね。ケーキってどんなの?」瑞恵は、笑顔で返事した。「レアチーズケーキです。すっごく、おいしいんです。これだったら、少しぐらい、いいんじゃないですか?」ヨダレをたらしそうになったが、ぐっとこらえて、冷静に返事した。「少しぐらいだったら、いいかもね。いただくわ」瑞恵は、フレッジからレアチーズケーキを取り出し、小皿に乗せて差し出した。「コーヒー淹れますから、もうちょっと待っていてください」今のひろ子にとって、レアチーズケーキは、ビーフステーキを目の前にして、マテを言われた犬の気持ちと同じだった。今にも、ヨダレがこぼれ落ちそうだった。我慢していると、気が変になりそうだった。

 

 瑞恵は、丁寧にお湯を注ぎ、ゆっくりとコーヒーを淹れた。ひろ子は、こんなに時間が遅く感じられたことはなかった。手に震えが起きていた。これは、ケーキ麻薬が切れた禁断症状の現れに違いないと感じた。コーヒーを差し出した瑞恵は、声をかけた。「コーヒーを淹れるの得意じゃないんです。イマイチ、センスがないんです。どうぞ」ひろ子は、コーヒーなど、どうでもよかった。一気にかぶりつきたかったが、グッと我慢して小さなフォークを手に取った。手の震えがますますひどくなっていた。ガタガタと小皿で音を立ててしまった。びっくりした瑞恵は、声をかけた。「ひろ子さん、大丈夫ですか?気分でも、悪いんですか?」ひろ子は固まっていた。なんと返事していいか、頭が混乱していた。「ハ、ア~、いや、別に。ほら、ダイエット中だから、ちょっと緊張しちゃって。ケーキ食べるの、半年ぶり」手の震えは、収まらなかった。

 

 ひろ子は、一度、フォークを小皿に置いた。そして、大きく深呼吸して、神に、心の中で懺悔した。「私は、意志の弱い、情けない、女です。ケーキ麻薬がやめられない、ゲスの女です。地獄に落とされてもいい、最低の女です。こんな女をお許しくださりますか?いや、神を侮辱するようなことを、シャ~シャ~とほざくとは、情けなくて、自殺したい思いです。でも、いましばらく、ご猶予をください。出口の仇を討った暁には、神に愚かな身をささげ申し上げます。お許しください、マリア様」自己満足の懺悔を終えたひろ子は、フォークを手にした。震えは止まっていた。ひろ子は、自分のことを最低のカトリック信者と思ったが、口からも目からもヨダレが出ていた。「いただきます」ひろ子は、麻薬患者が麻薬を手に入れたように、ケーキを口に放り込んでいった。

 

 

 無言でケーキをむさぼり食べるひろ子を見て、いったい何が起きたのだろうとじっと見つめていた。精魂込めて淹れたコーヒーを一口もすすらず、ひたすら口をモグモグさせていた。「ひろ子さん、おいしいですか?」もはや、ひろ子の耳に入る言葉はなかった。ひろ子は、ケーキでできた宇宙の中で、宇宙遊泳をしていた。食べ終わったひろ子は、我に返ったが、ケーキ麻薬の恍惚感に浸っていた。頭は、真っ白になっていた。瑞恵は、声をかけ続けた。「ひろ子さん、ひろ子さん」誰かが自分を呼んでいる声に気が付いた。「え、何か言った?」瑞恵は、コーヒーに目をやった。「コーヒー冷えますよ」ひろ子は、天を仰ぎ、神にお許しを乞うた。「愚かな迷える子羊をお許しください。また、神に背いてしまいました。地獄に落としてください」ひろ子は、コーヒーを手に取り、一口すすった。「もう、死んでもいい。すっごくおいしかった」

 

 瑞恵は、ダイエットで無理をして、拒食症になり、入院した人を知っていた。「ひろ子さん、あまり無理をしないほうがいいんじゃないですか?いいじゃないですか、ちょっと太ったぐらい。私は、もう、ダイエットやめました。食べすぎはよくないけど、我慢しすぎても体に悪いそうです。一緒に、太りましょうよ」太るという言葉を聞いて、真っ青になった。我慢しすぎは、体に良くないことは知っていたが、太りたくもなかった。「我慢しすぎは、よくないわね。でも、ダメな女。こんな女、地獄に落ちるわね」地獄と聞いて、ちょっと重病じゃないかと思えた。「ケーキを食べて、地獄に落ちるんだったら、この世の女性は、すべて、地獄行きじゃないですか。もっと、気楽にいきましょうよ」ひろ子のダイエットは、何回やっても失敗していた。でも、太る体質のひろ子にとって、甘いものは禁物だった。

 

 へこんでしまったひろ子は、小さな声で返事した。「やっぱし、ダメだったか。無理をして、体を壊してもよくないし。みずえさんの言葉に甘えて、気楽に行くとすっか」ワハハ~とひろ子は、笑い声をあげた。瑞恵もワハハ~と笑い声をあげた。「いいじゃないですか。一度の人生、能天気に行きましょうよ。ところで、ひろ子さんは、福岡じゃなかったんですか?いつから、対馬に?」ひろ子の場合、事情が複雑で説明に困った。とりあえず、適当に返事した。「何というか、知り合いの関係で、1年だけ、対馬に戻ることになったのよ。まあ、そんなとこ」1年だけと聞いて、がっかりしてしまった。「1年ですか。ということは、来春には、福岡ってことですね。本当は、私も、福岡が良かったんですが、そうもいかなくて。でも、ひろ子さんに会えて、元気が出てきました。兄の分まで、対馬で親孝行します」

 

 時刻は午後1時を過ぎていた。ひろ子は、立ち上がり挨拶した。「もう、こんな時間。ケーキ、ごちそうさまでした。帰らないと」瑞恵は、またもや、引き留めた。「お昼、まだでしょ。一緒に食べましょうよ。いつも、一人なんです。彼氏、いないし。いいでしょ。何か、急ぎの用でもあるんですか?」ひろ子は、即座に返事した。「別に、ないけど」瑞恵が、ポンと手を打って笑顔で返事した。「何、食べます。お寿司、取りましょうか?すぐ近くに、お寿司屋があるんです。よく、取るんです」ケーキの次は、お寿司じゃ、図々しいように思えたが、帰って一人で食べるのも味気ないと思い、この際、お言葉に甘えることにした。「そお、それじゃ、いただこうかしら」瑞恵は、即座に、出前の注文を取った。「30分くらいかかるそうです。そうだ、アルバム持ってきますね」瑞恵は、自分の部屋にかけていった。両手に分厚いアルバムをもって笑顔で戻ってくると、ひろ子の右横にポンと置いた。

 

 瑞恵は、アルバムをはさむように腰掛け、アルバムを開いた。そこには、マウンドに立っている出口巡査長のユニフォーム姿がった。瑞恵は、寂しそうに話し始めた。「これ、お兄ちゃん。かっこよかったな~。写真見てると、死んだのが嘘みたい。お兄ちゃんのつぶやきが聞こえてくるんです。”よし。抑えてやる。任せとけ”って。今でも、信じられない」ひろ子も写真を見ていると出口の死が嘘のように思えた。突然、オ~~、と叫んで、ドカ~~と開けたドアから、浅黒い出口の顔が現れるような思いがした。「そうね、エースだったな~。かっこよかった」ページを繰ると、ひろ子のユニフォーム姿が現れた。ひろ子は、叫んだ。「え、これって、私じゃない。なんで、こんなに」瑞恵も最初見た時、ひろ子のたくさんの写真にびっくりした。「お兄ちゃんたら、ひろ子さんのファンだったみたい。うわさに聞いたんだけど、ひろ子さんのペア、ビューティーペア、って言われていたんでしょ」

 

 ひろ子は、出口に盗撮の趣味があるとは夢にも思わなかった。男子は、見かけによらず、ドエッチだと思った。「ちょっと、これって、盗撮じゃない。いやね~。まったく」瑞恵は、クスクス笑い始めた。「男子って、こんなものよ。いいじゃないですか。男子に人気があって。お兄ちゃんは、ひろ子さんが好きだったのよ。こんなにたくさん、よく撮ったものね」瑞恵は、ハハハハハ~~と大声で笑った。ひろ子は、恥ずかしくなったが、部活の写真に改めて見入ってしまった。というのも、部活の写真は、部員の集合写真しか持っていなかったからだ。特に見入ったのは、県大会ベスト8の数枚の写真だった。その試合は、最終ゲームまでもつれて、ひろ子のスマッシュがアウトになり、ゲームセット。ベスト4進出はならなかった。さゆりと抱き合って泣いている姿の写真に見入っていると、あの県大会での大事件を思い出した。

 

 

春日信彦
作家:春日信彦
対馬の闇Ⅳ
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