遺伝子分布論 22K

「決」( 5 / 28 )

ピエールの話5

  少し月日を遡る。
 ここは月のラグランジュ点第5エリア。
 
 第3エリアにある、ローエンド大学の教授職を
 退官したサルワタリ教授は、第5エリアの自宅
 に戻り、暮らしていた。
 
 そこを、太陽系外縁からはるばる訪ねたものが
 いた。その青年の名をリアン・フューミナリと
 いう。
 
 リアンは、サルワタリの最新の研究、遺伝子
 分布論について話を聞こうとしていた。
 
「遺伝子分布論というのは、別にたいしたことは
 言っとらん」
 
 ホワイトボードを前に、元教授は説明する。
「人間、に限らんでもよいが、遺伝子の種類を
 こう横軸にとるじゃろ」
 
「そうすると、遺伝子の分布は、こう、山型になる」
「地球上では、土地の面積が限られとるじゃろ、
 じゃけえ、この山は時間変化に対してほぼ変化
 せん」
 
「しかし、宇宙空間に出て、居住空間が、まあ地上
 にいるのと比較したら無限のように広がるじゃろ」
 
「そうするとじゃな、この分布の山が、ほら、
 こっちとこっち方向に広がる、まあそれだけの
 ことじゃ」
 
「数学的に証明することも簡単じゃ。わしはまだ
 やってないが、まあそのへんの数学が得意なやつ
 にやらせりゃあすぐできるだろ」
 
「まあ簡易モデルで見せてやろう、
 分布関数に、こう、適当にパラメータ類を決めて、
 居住空間のパラメータを無限方向に飛ばしてやる
 とほれ、山も広がっていくわな」
 
「なるほど」
 リアンは感心して頷く。
 
「これは、宇宙空間だから、という限った話では
 ないとわしは思っとる」
「つまり、ある種が広い空間を得ると、これが
 起きる、例えば、そうじゃ、サルが二足歩行を
 始めて、生活領域が一気に増えたとき」
 
「おぬしは今の人間の人口と、人間の遺伝子が
 とるパターンのどちらが多いか知っておるか?」
 
 専門分野ではないため予想ですが、同程度では
 ないかと、とリアンが答えるが、
「ぜんぜん遺伝子のパターンのほうがい多いん
 じゃよ」
 
「定量的な話はそんなもんじゃ」
 
「簡単に考えればいいだけじゃ、要は、生き物は、
 種として生き残る可能性を高めるために、様々な
 遺伝子の種類があればよい」
 
 リアンは、話を聞くために、翌日も訪ねることに
 した。彼が今後人間の社会の在り方を考えるうえ
 で、大きなヒントが潜んでいると考えたからだ。
 

「決」( 6 / 28 )

ピエールの話6

  翌日。
 
「そうじゃ、より遺伝子の種類を増やしたければ、
 弱者や少数派を優遇する社会を作ればよい」
 
「もう少しいうと、犯罪者も含めてだ、わしの
 理論は本当に八方美人の理論じゃ、いや
 全方位美人といったほうがいいかガハハ」
 リアンがあまり笑っていないのに気づいて
 元教授は話に戻る。
 
「まあそれが簡単な例じゃな。ある特殊な遺伝子
 を持った者しか生き残れない疫病が流行ったと
 する。そいつがいなけりゃ、人類は滅亡する
 だけじゃ」
 
 質問をしてみた。
「この理論からすると、例えば宗教であれば一神教
 よりも多神教のほうが優れているように見え
 ますが」
 
「おぬしは外務次官というとるが、本当はもっと
 多くの人間の行く末を決める立場にあろう、
 もっと心を広くもたなければいかん」
 
「つまりじゃ、意識を落としていった先の瞑想状態、
 これが神の状態であるとよく言われるが、それ
 だけじゃない。集中している状態も、神の領域
 じゃ」
 
「つまり一神教も多神教もこれ真だと」
 
「物理学で説明するとじゃな、人間の性格という
 のは、フェルミ粒子的にふるまうものもあれば、
 ボース粒子的にふるまうものもある」
 
「フェルミ粒子は、パウリの排他律により、ひとつ
 ひとつの粒子が同じ量子状態をとることがない、
 電子や陽子に代表される」
 
「対してボース粒子は、複数の粒子が同じ量子状態
 をとりうる、光子や中間子、重力子などがそう
 じゃ」
 
「彼らは、多数が集まってひとつなのじゃ」
「つまり、同種の人が多く集まる国もそれはそれで
 必要だと?」 そうじゃと元教授は答える。
 
「理想はひとつであり、理想は一人ひとり異なる、
 わかるかのう」
 
「アインシュタイン教に代表される運命論と、
 ボーア教に代表される確率主義も同様じゃ」
 
「未来は決まっており、かつ未来は誰にも予測
 できん」
 
「わしはもうこの先長くない。わしの最新の理論
 を多少理解しとる若いもんがいる。名は、なん
 じゃったかな、たしかピエール・ネクロゴンド
 とかいうやつじゃ」
 
「どっかのコンサルタントに勤めるいうとった。
 探してみてもいいじゃろ。彼は、少し知った
 かぶりをする傾向があったが、まあなんかの役に
 は立つじゃろ」
 
 リアンから相談を受けたナミカ・キムラは、
 ピエールを安全な場所に移し、身辺警護する
 ことを決める。
 

「決」( 7 / 28 )

ピエールの話7

  アキカゼはついに決断した。これはもう、
 やるしかない。
 
 場所は、レストラン・エテルニテ。最近は夕食も
 二人だけになることが多い。この店は以前も
 使ったことがある。
 
 費用を自分もちにして、ふだんより少しグレード
 の高い料理を注文する。ここは高級ホテルの最
 上階だ。なるべく当たり障りない仕事の話をする。
 
 メインを終え、デザートを終える手前で、トイレ
 に立つ。
 
 いよいよだ。
 
 このレストランのお客に見える人たちは、
 すべて実はサービススタッフだ。
 少し明るめの音楽が鳴り出す。そして、それに
 合わせて、一人づつ、お客が歌い、踊り出す。
 
 アグリッピナ・アグリコラは、顔色ひとつ変え
 ない。これだけの美女だ。こういうことは何度も
 経験して、慣れているのだろう。
 
 お客に見えた人々が全員踊り出したあと、トイレ
 から戻ってきたアキカゼも、歌と踊りに加わった。
 しばらく歌と踊りが続く。
 
 そして曲が終わったとき、アキカゼがアグリッ
 ピナの前にひざまずき、小さな箱を取り出した。
 
「ひとめ見た時から、あなたのことばかり考えて
 いました。身辺警護の契約、無期限で更新させて
 ください」
 
 箱を開けてみせたのち、これは契約書です、と
 言って、婚姻届けと書かれた封筒を差し出す。
 まわりの人たちからは大きな拍手が起こる。
 
 アグリッピナは腕を組んで、ちょっと困った風に、
「お父さん、いえ、お母様に相談させていただける
 かしら」
 
 そして今、店の端で、アグリッピナが親に電話
 している。
 
 アキカゼは急に怖くなってきた。これがもし失敗
 して、クライアントから本国へクレームとして
 入ったら・・・。
 
 一方こちらは第3エリアのナミカ・キムラ。
 娘のサキから電話がかかってきた。
 
「ふん、ふん、ふうん、まあ、あなたがいいなら
 別に付き合ってみてもいいんじゃない?」
 
 戻ってきて、契約は保留して、結婚前提のお付き
 合いということでいかがかしら? と聞いてくる
 ので、もちろんです、と答える。
 
 そして、この件、本国へは黙っておいていただき
 たいのですが、とお願いする。アグリッピナは、
 少し困った顔で、親に相談はいいのよね? と
 尋ねる。
 
「大丈夫です。ご両親にはどんどんご相談ください」
 
 見た目の印象ほどは悪い人では無いことは
 わかって来たのだが・・・。
 

「決」( 8 / 28 )

ピエールの話8

  月のラグランジュ点第3エリア、コウエンジ
 連邦軍内では、人型機械小隊の再編成が急ピッチ
 で進んでいた。
 
 もともと在った3小隊に、一時的に2つ小隊を
 加えて、5小隊体制とする。ただし、第1小隊と
 第2小隊は予備の戦力とし、主力を第3、第4、
 第5小隊とする。第4および第5小隊は、臨時
 の隊員を充てる。
 
 今後予想される動きはこうである。
 月のラグランジュ点第2エリア、バレンシア共和
 国の宣戦布告および少数精鋭による即時の奇襲
 攻撃。
 
 それに対し、コウエンジ連邦軍は、初戦で敗退
 する方針だ。では、キムラ・コンサルティングが
 出しているシナリオを見てみよう。
 
 コ連軍は、初戦敗退し、それにより相手の出方を
 観つつ相手方の油断を誘う。そのまま連敗を重ね、
 第3エリア近くまで相手を引き込む。相手に決戦
 を誘い、その決戦において入念な準備のうえ、
 徹底的に叩く。
 
 そのうえで、相手国と講和を結ぶ。こちらが負け
 た場合も同様となる。
 
 初戦については、相手国の奇襲を誘う。そのため
 の相手国内における工作は進行中である。奇襲を
 誘う理由は、相手国側の戦力が充分に整う前に
 決着をつけるためである。
 
 軍事力による決着を選ぶ理由は、相手国内の不満
 のガス抜きの意味もあるが、それに勝利すること
 によって、相手国側の改革を促せるからだ。
 
 バレンシア共和国は、人口が多すぎて、都市効率
 が非常に悪くなっている。国を解体するつもりで、
 国民をより広い空間へ移住させるべきだ。
 
 また、軍事決着によるもうひとつの狙いは、今回
 の騒動の背後にいる勢力を炙り出すことである。
 その勢力とは、現在かなりのところまで絞れて
 いるが、最後に関係者の証言が必要だ。
 
 戦闘に勝利することで、その証言が得られる
 可能性が高いと考えられる。
 
 以上、キムラ・コンサルティングのシナリオに
 ついては、こんな感じだ。
 
 人型機械小隊の、細かい編成を見ていく前に、
 もう少しこのシナリオについて考えていきたい。
 
 それには、経済や政治の仕組みにまで踏み込んで
 考える必要がある。バレンシア共和国は、自ら
 戦争に走ったのではなく、誰かにそそのかされて
 いる。なぜ、そういったことが起こるのか。
 そそのかしているのは誰なのか。
 
Josui
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