僕が精神病だった頃のこと

あけましておめでとうございます

新しい年が無事明けた。ところで私は、長年の病床にある。そのせいか、恥ずかしながらこの歳になって初めて、「あけましておめでとう」の意味を知ったような気がする。去年までは「めでたくなんかない!」と思っていた。こっちはずっと病気で苦しんでいる。何がおめでとうだ!と。私のことはさておき、しかし不幸な境遇の人にこそ「おめでとう」なのだなと、今年は合点がいった。つまりどんなに不遇であったり思うようにならないことが多くても、当たり前だが「無事新しい年が明けて良かったね」という意味だ。やっと分かったような気がする。そして迎えた年が無事で平穏なら言うことはない。年頭にそう悟った。西暦で2018年、そして平成30年。来年は新天皇即位の年であり、改元の年だ。何か良い予感がしないでもない。

腐ったナース

別にこの病院に限ったことではなく、どこでもナースは腐っている。それが俺が見た看護スタッフの実情だ。もちろん純粋に頑張っている人もいるし、特に精神科だからでもないと思うが、多くのナースは患者を虫けらのように思っている。そしてそのなかでも頭の悪いベテランの一部が特に根性が腐っている。逆に言えば彼らはプロとしてのプライドも捨ててカネを搾取している。何故なら彼らはプロとしての仕事をしていないから対価をもらう資格がないからだ。血圧を測ってやるという顔をして、義務的に測るふりをしてアリバイだけを作り、結果なんて気にも留めない。機械的にそんなことをするふりをして、当然だと言わんばかりにカネをふんだくると言うわけだ。そんな奴にはもはやプロとしてのプライドもない。そんなことを、この正月考えた。

甘え

病人は健康な人に甘えなければ生きて行けない。もっともっと甘え、依存すべきだ。当たり前のことだと私は思うが、世の中はそうした弱者は強者に甘えてもよいという考え方に厳しいようだ。下手をすると、強い者が弱い者に甘えるという、逆転現象すらある。どこまで人は間違えるつもりなのか?まったく信じ難い光景があちこちで起きている。病院で、障害者施設で、老人施設で、路上で、家庭で、会社で、学校で。世の中のあちこちでそうした「逆依存」現象が起きている。そんな生きづらい事が良いわけがない。ただちに直されなければならない。今、当たり前のことが当たり前でなくなっている。皆が正気に戻らなければいけない。強い者、力のある者が、弱い者、非力な者を助けなければいけない。当然のことを言っているつもりだが、どうやらそうでもないらしい。

2018年年頭所感

「あらゆるものごとは起こる。あなたはただ起こるのを許せばいいだけだ。決してやり手にならないように。あなたはただ見守る。起こったこと、起きていること、これから起こることはすべて自然なことだ。なぜならこの世界では自然なことしか起こり得ないからだ」それが和尚の口癖だったと私は記憶している。すべては運命のように決まっていること。そう考えると生きることが少しは楽になる。運命に逆らうのもまた運命だ。何をするにしてもしないにしても、私がそれを許せばいいだけのこと。すべてが自然に起こるように、まるで川に浮いているかのようにすべてを流れに身を任せている。その素晴らしい感覚。何故なら私はすべてを「全体」のせいに出来るからだ。どちらにしようかと迷ったら、風に揺れる木の葉のようになって、自分の気分に聞いてみる。「全体」の意向を聴いてみる。そして川の流れを、風向きを読んでみる。「全体」の意向ももちろんだが、自分の気分も川の流れも風向きも、自分の運命を暗示している。気分が向いたほうへ行ってみる。流されてみる。右へ行くのも左へ行くのもすべてを流れにまかせることで、私は自然になり、あらゆる責任を「全体」に負わせることが出来る。そう。すべては宿命であるかのように。そしておそらく、川は大海へと続いている。私と全体が溶ける大海へ。それが、2018年年頭に当たって感じたことだ。
篠田 将巳(しのだまさみ)
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