天空の笑顔

ゆり子は、うつむいていた顔をヒョイと持ち上げ、笑顔を作った。「いえ、大丈夫です。ちょっと、イヤなことがあったものですから」ゆり子は、元気のない声で返事をすると、窓の外を流れる車に目をやった。おせっかい焼のドライバーは、今にも自殺するんじゃないかと思わせる苦渋の表情を見ているとますます心配になった。また、知性的で上品な顔立ちのこの女性に、いったいどんな悩みがあるのだろうかと興味がわいた。

 

この知性的なお客は、F大学の先生ではないかと思ったドライバーは、笑顔で質問した。「失礼ですが、お客様は、F大学の先生でいらっしゃいますか?」お客は、職業を言い当てられたことにハッとしたが、即座に返事した。「はい、F大学で、憲法学の講師をやっています。まだまだ、未熟ですが」重々しい口調から会話をおっくうがっている気配を感じて、ドライバーは、質問をこのあたりでやめようかと思ったが、詮索好きの好奇心がムクムクムクっと沸き起こってしまった。

 

「お美しい先生ですね。先生目当ての学生さんで、講義がにぎわっているんじゃないですか?今どきの男子学生は、ナンパするために、大学に行ってるようなものでしょ。先生も、ナンパされないように、気を付けてくださいよ」落ち込んでしまったお客を元気づけようと、お世辞を交えた冗談を放った。ナンパと聞いたお客は、クスクスと笑い声をあげ、笑顔を作った。「冗談でも、そういってくださるとうれしいです。でも、今どきの学生は、あまり憲法学に興味がないんです。ちょっと、寂しいです」

 

ドライバーは、お客が笑顔を作ったことにほんの少し安心したが、心の底に何か大きな悩みを隠しているように思えた。「先生のお仕事って、大変なのでしょうね。勉強嫌いで、歌ばっかり歌っている能天気な私には、先生方のご苦労がさっぱりわからないものですから、失礼な冗談なんか言って、ごめんなさい」お客は、右側の窓に向けていた顔を前方に向けると、顔を左右に振って、講師の口調で返事した。

 

「いえ、先生なんて、たいしたことはないんです。今は、ブラック企業が問題になっているじゃないですか。大学を卒業して、どうにかこうにか正社員として入社できても、1ヶ月100時間以上の残業労働を強いられて体を壊し、中には、上司のパワハラ、セクハラでうつ病になってしまい、病院通いをする若者が増えているそうです。ここ数年、若者の離職者は、増える一方です。離職した多くの若者は、飢え死にしないために、やむなく派遣社員となり、さらに過酷な労働を強いられているそうです。こんな奴隷のような労働を強いられて、幸せな結婚ができるのでしょうか?」

 

ゆり子は、“結婚”という言葉を強く発音した。耳を傾けていたドライバーは、結婚と聞いて、沢富の顔が脳裏に浮かんだが、ブルブルと顔を素早く振って話を続けた。「ブラック企業のことは、よくわからないんですが、大学を卒業しても、大変なんですね。なんの取柄もない高卒の私は、気楽にタクシードライバーをやってますが、ここ最近、若い大卒の運転手が増えているんですよ。大卒でも、就職が厳しいってことですね」

 

お客は、心のわだかまりを吐き出したくなったのか、真剣な表情で話を続けた。「この場で話すようなことじゃないんですが、適当に聞き流していただけますか。親友が、ブラック企業の過重労働とパワハラに耐えかねて、昨年、投身自殺してしまったんです。こうなったのも、私の至らなさからんなんです。いくら悔やんでも、悔やみきれません」お客は、突然、両手で顔を覆った。投身自殺と聞いたドライバーは、昨年12月に起きたT大卒新入社員投身自殺の可哀そうなニュースを思い出した。

 

ルームミラーを見つめていたドライバーは、力強く甲高い声で励ました。「そんなに自分を責めては、ダメ。若者の自殺が増えているのは、知っています。でも、それは、本人が悪いんじゃないんです。政治なんです。みんなで力を合わせて、政治を変えていきましょう。亡くなられた方のためにも、生き残っている我々が闘うのです。頑張りましょう」うつむいたお客は、ア~~ア~~と泣き声を上げ、顔を激しく振り続けていた。

 

ドライバーは、この場をどうすればいいのかわからず、途方に暮れてしまったが、とにかく、大好きな森口の歌を歌うことにした。もっとうまくすきといえたなら、まぶしいきせつにきっとめぐりあえる、あめあがりのほどうあるきながら、かたからかけてくれたセーター、あなたのやさしさとてもうれしかった・・・・歌い終えると、チャットちゃんがかわいい声で100点と叫んだ。 

ドライバーの透き通った歌声で心が落ち着いたお客は、涙で化粧が崩れ、化け物のようになった顔をニョキョッと持ちあげた。「ごめんなさい、私って、泣き虫なんです。とっても、お上手ですね。あなた、どこかで、見たような?」お客は、ドライバーの顔をマジマジと見つめ、記憶をたどった。ポンと両手を合わせたお客は、クイズの答えを言うように、張りのある明るい声を発した。「あ、そう、あなた、カラオケ女王じゃない。きっと、そう」

 

泣いていたお客が、自分の歌で笑顔になってくれたと思うとほんの少し安心した。ドライバーは、お客と友達になれたようで、笑顔で即座に返事した。「はい、やっと、念願のカラオケ女王になれました。憶えていてくださって、光栄です」お客は、真っ赤なバラがプリントされたシルクのハンカチで涙をふき取り、大きくうなずいた。「イヤ~、こちらこそ光栄だわ。カラオケ女王の生歌が聞けるなんて、最高。あなた、もう少し、若かったら、アイドルデビューできたかもよ。残念だわ~」

 

痛いところを突かれたカラオケ女王は、カチンときたが、ここはグッと怒りを抑えて笑顔で返事した。「アイドルだなんて、歌が歌えるだけで、幸せなんです。好きな歌を歌い、お客さんには、ほめていただき、生まれてきて、よかったと思っています。それなのに、一流大学を出た優秀な方が自殺なされるなんて、本当に、悲しいです。いったい、今の社会、どうなっているのでしょう。もしかして、AIのせいでしょうか?」

春日信彦
作家:春日信彦
天空の笑顔
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