天空の笑顔

 先頭に止まっていたピンクの箱型タクシーにゆり子が近寄ると、スライドドアが静かに開き、かわいい声のアナウンスが流れた。「こんにちは、このたびは、AIタクシーをご利用いただき、誠に、ありがとうございます。どちらまで、お運びいたしましょうか?」この声を女性ドライバーの声と勘違いしたゆり子は、ドライバーに向かって返事した。「F大学までお願い」座席の後方から先ほどのかわいい声が返ってきた。「かしこまりました。F大学まで、お運びいたします」

 

 自動運転AI(人工知能)タクシーは、静かに動き出した。ドライバーは、ハンドルに手を置かず、前方を凝視していた。ゆり子は、思わず、声を上げた。「危ない!」その叫び声を聞くや否や、ドライバーは、座席をクルッと回転させ、笑顔で返事した。「ご安心ください。このAIタクシー、チャットちゃんは、人間以上に運転が上手ですから」ゆり子は、本当に大丈夫?と心でつぶやいたが、ドライバーの言葉を信じることにした。かわいいチャットちゃんの声で、ほんの少し気分が晴れたが、トモミの遺影が脳裏に浮かぶと、また、ブルーになってしまった。

 

 ドライバーは、気を張り詰めた表情で前方を向いていたが、時々、ルームミラーでゆり子の顔色を窺っていた。ドライバーは、顔色が青く全身に絶望感が漂ったお客が、なんとなく心配になって、何気にご機嫌を取ることにした。ドライバーは、ルームミラーを覗き込み、ニッコッと笑顔を作るとハイトーンの澄み切った声で問いかけた。「お客さん、お身体の具合でも、悪いんじゃありませんか?」

ゆり子は、うつむいていた顔をヒョイと持ち上げ、笑顔を作った。「いえ、大丈夫です。ちょっと、イヤなことがあったものですから」ゆり子は、元気のない声で返事をすると、窓の外を流れる車に目をやった。おせっかい焼のドライバーは、今にも自殺するんじゃないかと思わせる苦渋の表情を見ているとますます心配になった。また、知性的で上品な顔立ちのこの女性に、いったいどんな悩みがあるのだろうかと興味がわいた。

 

この知性的なお客は、F大学の先生ではないかと思ったドライバーは、笑顔で質問した。「失礼ですが、お客様は、F大学の先生でいらっしゃいますか?」お客は、職業を言い当てられたことにハッとしたが、即座に返事した。「はい、F大学で、憲法学の講師をやっています。まだまだ、未熟ですが」重々しい口調から会話をおっくうがっている気配を感じて、ドライバーは、質問をこのあたりでやめようかと思ったが、詮索好きの好奇心がムクムクムクっと沸き起こってしまった。

 

「お美しい先生ですね。先生目当ての学生さんで、講義がにぎわっているんじゃないですか?今どきの男子学生は、ナンパするために、大学に行ってるようなものでしょ。先生も、ナンパされないように、気を付けてくださいよ」落ち込んでしまったお客を元気づけようと、お世辞を交えた冗談を放った。ナンパと聞いたお客は、クスクスと笑い声をあげ、笑顔を作った。「冗談でも、そういってくださるとうれしいです。でも、今どきの学生は、あまり憲法学に興味がないんです。ちょっと、寂しいです」

 

ドライバーは、お客が笑顔を作ったことにほんの少し安心したが、心の底に何か大きな悩みを隠しているように思えた。「先生のお仕事って、大変なのでしょうね。勉強嫌いで、歌ばっかり歌っている能天気な私には、先生方のご苦労がさっぱりわからないものですから、失礼な冗談なんか言って、ごめんなさい」お客は、右側の窓に向けていた顔を前方に向けると、顔を左右に振って、講師の口調で返事した。

 

「いえ、先生なんて、たいしたことはないんです。今は、ブラック企業が問題になっているじゃないですか。大学を卒業して、どうにかこうにか正社員として入社できても、1ヶ月100時間以上の残業労働を強いられて体を壊し、中には、上司のパワハラ、セクハラでうつ病になってしまい、病院通いをする若者が増えているそうです。ここ数年、若者の離職者は、増える一方です。離職した多くの若者は、飢え死にしないために、やむなく派遣社員となり、さらに過酷な労働を強いられているそうです。こんな奴隷のような労働を強いられて、幸せな結婚ができるのでしょうか?」

 

ゆり子は、“結婚”という言葉を強く発音した。耳を傾けていたドライバーは、結婚と聞いて、沢富の顔が脳裏に浮かんだが、ブルブルと顔を素早く振って話を続けた。「ブラック企業のことは、よくわからないんですが、大学を卒業しても、大変なんですね。なんの取柄もない高卒の私は、気楽にタクシードライバーをやってますが、ここ最近、若い大卒の運転手が増えているんですよ。大卒でも、就職が厳しいってことですね」

 

お客は、心のわだかまりを吐き出したくなったのか、真剣な表情で話を続けた。「この場で話すようなことじゃないんですが、適当に聞き流していただけますか。親友が、ブラック企業の過重労働とパワハラに耐えかねて、昨年、投身自殺してしまったんです。こうなったのも、私の至らなさからんなんです。いくら悔やんでも、悔やみきれません」お客は、突然、両手で顔を覆った。投身自殺と聞いたドライバーは、昨年12月に起きたT大卒新入社員投身自殺の可哀そうなニュースを思い出した。

 

ルームミラーを見つめていたドライバーは、力強く甲高い声で励ました。「そんなに自分を責めては、ダメ。若者の自殺が増えているのは、知っています。でも、それは、本人が悪いんじゃないんです。政治なんです。みんなで力を合わせて、政治を変えていきましょう。亡くなられた方のためにも、生き残っている我々が闘うのです。頑張りましょう」うつむいたお客は、ア~~ア~~と泣き声を上げ、顔を激しく振り続けていた。

 

ドライバーは、この場をどうすればいいのかわからず、途方に暮れてしまったが、とにかく、大好きな森口の歌を歌うことにした。もっとうまくすきといえたなら、まぶしいきせつにきっとめぐりあえる、あめあがりのほどうあるきながら、かたからかけてくれたセーター、あなたのやさしさとてもうれしかった・・・・歌い終えると、チャットちゃんがかわいい声で100点と叫んだ。 

春日信彦
作家:春日信彦
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