壊れた月が見る夢の果て~第一章:時の

選ばれし者

 基本、授業は各チームごと決められた場所で始められる事となっているが、生徒たちはぞろぞろと校舎とは別館なる講堂へと向かっていた。
 講堂とは、施設館の建造とは一見違った建物が違和感を覚える古びた木造の建造物だ。
  内装は木目ではなく特殊加工された白い壁面。窓は役目を果たさないよう板で塞がれていて、窮屈さを感じるには十分な場所であり、生徒たちは講堂があまり好 きではなかった。無理もない。講堂は力の抑制ができない生徒たちを集合させるために、何重にも結界が張られている場所だからだ。

 そして今、講堂に集められた十二人の男女は初年組だ。年齢は子供と呼べる者から大人まで様々である。不安なのだろう、彼らは広い講堂内で身を潜めあうように中央に集まっていた。
「彩ちゃん!」
 声の主に彩が振り返ると、色白で細身の男子が立っていた。

 こげ茶色の瞳と同色の髪。詰め襟のシャツにジャケット姿で、長い前髪をヘアピンで横止めにしている。
「おはよう。麻美弥まみやくん」

 彩は首が疲れるほど高く麻美弥を見上げた。チームメイトである流真たちとは違い、麻美弥はモデルのように背が高かった。そんな麻美弥から少し離れた所で、彼のチームメイトであるかい恭啓きょうけいが物静かに立っている。

  三人は流真たちより一つ上の十八歳だ。櫂は、がり勉タイプの黒縁眼鏡を掛けて黒髪に赤眼。恭啓は金髪の青眼でひねた眼差しの少年だった。偶然、趣味趣向が 似ていただけなのか、わざと似せているのかは定かではないが、二人は色違いの服を着て同じ髪型をしていた。ちなみにアニメの美少女キャラクターが描かれた Tシャツを好んで着用している。
「お、おは、おはようっ」
 麻美弥が少しどもった。

「ちょ調子はどう? ほ芳凛先生はきび、きびしいのかな……」

 上手く話せない麻美弥であるが、彩の方は気にした様子はない。

「んー…厳しいけど優しいよ。麻美弥くんの方は?」

 麻美弥の表情がぱあっと明るくなった。
「ぼ、僕の方…いや、先生は初教員らしいけど、わかっ分かりやすくていい先生だよ。よ抑制が、ううまくできなくてもすぐおさ抑えてくれるし……」
「そうなんだーよかったねぇ。私たちもちょっとずつだけど暴走しなくなったよ。ね? 流真」
 彩が振り返って流真たちを見た。

「――」

 流真はちらっと麻美弥を見やるとぷいっとそっぽを向く。お年頃である彼らには肌に合わない相手と付き合う方法が分からないのだろう。すると明士がにっこりと笑いかけた。
「麻美弥くん。准貴先生とうまくやっているならさ。君からお願いしてくれないかな? 僕たちの先生を追い回さないように、ね?」
 麻美弥が苦虫を噛んだような顔をした。生徒の中でも准貴の行動は有名だ。険悪な雰囲気が彼らを包んでいたが、しばらくすると、講堂に爽やかな風が吹き込まれた。出入り口の扉が開かれたのだ。 
「おはよう。皆そろってるかな」 
 葎を先頭に咲矢と鈴音が続いて入る。

 扉が無音で閉まった。すると、閉じられた扉が再び開く。今度は准貴が無言で入ってきた。沈鬱な面持ちで鈴音の隣に並ぶ。
「…ちょっと」
 鈴音は思わず小言を言いそうになってやめた。咲矢が肘で小突いたからだ。
(まぁ…『あの後』だしね…)
 准貴は気付いていなかったが、鈴音は咲矢と一緒に食堂での葎と彼の会話を聞いていたのだ。
「葎先生。今日は何するの?」
 生徒の一人が挙手して訊ねた。十歳の少年である亜樹あきだ。思わずほっぺをつつきたくなるようなぽっちゃりとした体形をしている。濃い紫色の瞳はまん丸で黒髪の天然パーマの愛らしい男子だった。
「時間が来たら言うからね」

 葎が優しく答えると、「はーい」と返した。
 鈴音が横目で准貴を見た。

 燃えるような赤毛の男性は、肩をしょんぼりと落とし元気がない。
「ちょっと! 生徒たちの前でそういう顔はやめてよ。舐められるでしょっ」

 鈴音は小声で注意を促す。

 どんな状況下でも対応できてこそ教員だ。担当教員を師と仰ぐことは、自然な成り行きでもある。稀に尊敬の念を抱かない人格者もいるだろうが、教員は生徒にとって門番の見本とならなければならなかった。
 准貴は鈴音の一言が効いたのか、背筋をぐっと伸ばした。

 九時直前、再々扉が開かれた。
「誰だ、あれ?」
 麻美弥が呟いた。

 芳凛と華艶だ。華艶は一瞬で生徒たちの注目の的になった。
「さぁ、面子はそろったな。始めるとしよう」
 葎の一声で、生徒たちの視線は、入り口を背に横一列に並ぶ教員たちへと注がれ。
「今回、新しい教員が入ることになった。紹介しよう。華艶だ。咲矢が受け持っていた四人のうち、麻雛まびな雛叉ひなさ。君たちは華艶の生徒に変更だ。部屋の方は用意してある。今日中に荷物を運び入れなさい」
 名を呼ばれた二人の女生徒が挙手し「はい」と答えた。

 彼女たちは十五歳の一卵性双生児だった。麻雛はパンツスタイルだが、雛叉はスカートを履いていた。瞳の色が少し違うだけで背格好、髪型なども瓜二つ。共に茶色の髪に茶色の瞳だが、色の濃さが違う。薄い方が雛叉。濃い方が麻雛だ。
 選ばれし者の双子は珍しい。二人で一人の存在。言葉のまま能力的にも半分ずつだった。
「それと、華艶は初教員だから、慣れるまでしばらくの間、芳凛と行動を共にすることになる」
 一斉に生徒たちがどよめいた。

「五人に二人の教員ってこと?」
「それって違う資質とかも教えてもらえるのかなぁ」
「えー俺も受けたい」

 口々に囁かれる不満の声に、鈴音が一喝入れた。
「ちょっと、あんたたちッ! それって担当教員に不満があるってこと!? 見習いにもならない候補生の分際で、別の資質を手に入れようなんて厚かましいにもほどがあるわよ。身の程をわきまえなさいっ」
 甲高い迫力のある鈴音の大喝に大半の生徒たちが怯んだが、一人の生徒が挙手した。

 金髪に金眼の二十歳の青年だ。背は麻美弥よりも低いが長身である。白いカッターシャツを着て袖をまくり上げて大人の雰囲気を出している。名前はしゅん。彼は鈴音の生徒だった。

「……またかよ」
 ぼそっと呟いたのは流真だ。

「先生が見てるよ」

 明士の一言で流真は口を噤む。教員たちへと視線を向けると担当教員である芳凛と目が合ってどきりとした。

(怖ぇ…)

 流真は、彩と二人で泣き叫び芳凛に許しを乞うた時のことを思い出す。口喧嘩だけならまだしも、掴み合いの喧嘩なんてしようものなら、拘束術を掛けられて裏の森に捨てられるのがオチだ。流真は額に浮き出た汗を手の甲で拭う。

「別に担当教員に不満とかあるわけないんです。でも資質の事を言うなら、同じ資質を教えてる先生ならいいんじゃないかと思って」

 葎が舜を一瞥する。

 舜の言葉は、遠まわしに鈴音の教え方に問題があるように聞こえなくもなかった。

「日替わりとは言いませんけど、週代わり月替わりに教員の交替はできないんですか?」

 生徒たちからため息が漏れた。鈴音の表情は険しい。握られた両の手が震えていた。舜はそれをちらりと目に止めると、ほくそ笑んだ。舜は鈴音を毛嫌いしているのだ。

 理由は定かではないが、担当教員である鈴音が女性であり自分より年下に見えるからではないかと生徒たちは思っていた。というのも、日頃から舜の女性であるチームメイトに対しての言動に問題があるからだ。
 本来、門番は何もなければ長命である。個人差はあるが、成人年齢まで差し掛かると成長は非常に緩やかになるのだ。例えに葎をあげると、彼は外見二十代後半だが実年齢は五十歳を軽く越えている。

 となると、鈴音も然り――――なのだが、担当が決まって3ヶ月あまり経った今、舜の身勝手な振る舞いは度が過ぎ始めていた。

 流真も当初は今より短気で喧嘩早く、麻美弥や舜としょっちゅう絡んでいたが、芳凛のスパルタと手綱を握る明士のおかげかずいぶん落ち着いてきた。しかし舜の場合、チームメイトにそれらを求めるのは酷な話だった。
 鈴音の生徒は舜ともう一人、十五歳のまいというおかっぱ頭の少女だ。彼女は赤茶色の髪に黒い瞳をしていて、やや長めの前髪で目を隠すようにいつも下を向いている少女だった。

 誰もが皆、人の顔色、機嫌を窺いながら生きている。所詮は他人。喧嘩をすれば歪みが入るし、一度できてしまった歪みの修復には時間が掛かるだろう。それに、彼らは他人の事を気にかけるだけ自由ではないし、心に余裕がなかった。

 葎の回答を待つ舜の背後から、一人の女性が肩を怒らせ歩み寄る姿が教員たちの目に映った。

 初年組で唯一舜と同年である祥子しょうこという生徒だ。彼女は選ばれし者の中でも極少数の自己申告者だった。

 その祥子が見るに見兼ねたのだろう。祥子は無言で舜の肩を突き飛ばした。

「うぉっ?!」

 舜は勢いあまって二歩前に足が出た。舜は目を剥いて振り返ると食って掛かった。
「何すんだよッ……」

 仁王立ちする祥子の迫力に一瞬で怯む舜。祥子はドスの効いた声で一喝する。
「……さっきから黙って聞いてりゃ調子に乗って……好き勝手言ってんじゃないよ!!」

 教員たちが瞬きをした。

「あんたは単に鈴音先生が自分より年下だから嫌なだけだろ。それを遠まわしにねちねちと…いやらしいったらありゃしない。セコイ言い方なんかせずにはっきり言えばいいだろーがッ」
  祥子は口は悪いがさっぱりとした性格で面倒見がよく、まさに姉御肌の女性だ。男性のように刈り上げられた短い髪は、黒と赤のまだら色に染められて本来の色 は灰色だった。ミニスカートに豊満な胸元を強調するような露出度の高い洋服を着ていた。身長はヒールを履いているせいで舜より少し高く、威圧感がある。
「そっそう言うお前は何なんだよ! 自分の格好を鏡で見ろよ。化粧なんかして男の気を引こうとしてるくせに! そっちの方がいやらしいんだよ、ばーかッ!」
 確かに祥子の化粧は濃い。それは他の生徒も同感だった。

 しかし、それが何だ? 祥子の化粧の濃さは誰にも迷惑はかけていない。 
「ばかはあんたの方だよ。自分で言ったことに気付いてないだろ。ここは誰しも認める差別のない門番の世界だよ。そんなこと思うこと事態おかしいんだ」
 舜は黙ったまま祥子を憎悪に満ちた眼で睨んだ。どうやら墓穴を掘ったことに気付いていないようだ。
「あんたねぇ――…」

 祥子は眉間にしわを寄せた。すると、

「そのくらいにしておきなさい」
 彼女の担当教員である咲矢が祥子をいさめた。

「――…はーい」 
 まだ言いたらない様子だったが、祥子は咲矢に従って舜から離れる。しかし、恥をかかされたと感じているであろう舜の方は収まるはずがない。鬼の形相で祥子を睨んでいた。
 葎がため息まじりに口を開いた。
「まったく……また困ったねぇ…」 
「僕は祥子が言うようなこと思ってませんっ!!」
 舜は躍起になって言い返した。

「僕の何がダメだって言うんです! 祥子の方がよっぽど」

 葎が薄く苦笑した。
「それはどうだろうね。普段から君の言動には掟に触れる部分があるのは事実だよ。そうなると私の立場上、君に懲罰を与えなければならなくてね」
「懲罰!? そんなの横暴じゃないですかッ」

 裏返った声で舜は言い募る。だが葎は首を傾げた。
「横暴?」
「そうですよ。先に突っかかってきたのは祥子なの……にッ?!」
 舜は何かに引っ張られるようにいきなり前のめりになり床に叩きつけられた。
「ぐあッ!」 
 しこたま体を打ちつけ、舜はそのまま動けなくなった。胸を押さえつけられ声も出せない。
 周囲は突然のことに驚いて舜から離れた。
 一体何が起こったのか。

 舜が道端で潰れたカエルのように打っ伏している。なんとか頭を上げた目の先に葎の靴先が見えて、舜はぎょっとした。見下ろされる紫眼を全身で感じて彼は慄いたのだ。
「密かに言うとね、――――時には体罰も必要だと戦闘課の連中にはうるさく言われるんだよ。でも私は手荒な真似はできるだけしたくないんだ。君には私の言いたいことがわかるかな?」
 葎が身を屈め舜を眺める。

 彼は怒っているのだろうか。生徒たちにはそれすら分からなかった。というのも、葎が彼らの前で感情を出すことはないからだ。

 高姿勢な葎の気を受けて、舜以外の生徒たちの顔色も青ざめていた。
「確かに初年組の中では君が最年長だ。だがね、君はこの世界では生まれたての赤子同然なんだよ。守られているからこそ、今の君があるんだ。なんなら実証してみようか? 今ここで、君の息の根を止めることが造作もないことだと」
 葎の声は、骨の髄まで叩き込まれるような低い響きを持っていた。鼓動が喉元で高鳴るのを感じながら、舜は床に張り付いたまま聞いている。
「―――…」 
 全身に絶え間なく掛かり続ける重圧は、緩むことなく舜を縛り続けた。冷や汗が肌を通し着衣を湿らせる。様子を窺う教員たちは葎を止める素振りも見せない。恐怖が舜を支配していた――――が、
「葎……もういいわ。止めてちょうだい……」
 鈴音が助け舟を出した。

 鮮やかな金の瞳が揺れている。鈴音の顔には疲労の色が濃く影を落としていた。
 舜の反発はいつものことだ。彼は自分にちょっと恥をかかせてやる、くらいの軽い気持ちで言ったのだろうと鈴音は思った。
「やれやれ……命拾いをしたな舜。これが可年組の教員なら誰も止めないよ」
 四年間の修業期間は、前期の二年間と後期では教員が替わる。もちろん留年もあり、生徒の素行の悪さは問題行動とあげられる。それらは当然、担当教員の責務怠慢となり、懲罰の対象になるのだ。
 だから教員たちは手を抜けないし、生徒を甘やかさない。容赦なくビシバシしごく。それに、舜は鈴音の手に余る生徒だった。
「………わかってるわ。ごめんなさい。私の責任よ」
  葎は舜を戒めるとともに、鈴音に対しても忠告をした。
 言葉を繋ぐことは簡単だが、矯正することは難しい。力でねじ伏せる事も時には必要なのだと。

 ぬるま湯に浸かったままでは、いつまで経っても熱いとは何なのか知ることもない。

 門番の世界はそんな生温い世界じゃない。刃向かうならそれなりに力を付けてということをその身に覚えさせなければ、この世界では生きていけないのだ。
 「いいかな、生徒諸君。性別・年齢差別に対する考え方を改めてくれ。本来なら独房行きの懲罰に当たる事だからね」
 脅迫ともとれる忠告だった。葎が立ち上がると舜に掛けられた重圧が解けた。他の生徒たちのほっと胸を撫で下ろす。
  床に伏したままの舜に、鈴音が声を掛けた。
「舜、立ちなさい」
 鈴音の命令に舜は素直に応じた。呼吸が乱れ足元がふらついている。今にも倒れそうだ。
 舞がそんな舜を気遣い横から手を差し出したが、彼はそれを振り払った。
「……ご、ごめん、なさい…」 
 舞は払われた手をもじもじさせ、舜の後ろに下がった。物悲しそうな目を床に落とす。その様子を咲矢が横目で見て呟いた。
「葎、もう十分じゃないの」
「ああ、そうだな」
 葎は准貴を見た。
「えぇ? あ、あぁいいぜ。一通り見たからな」
 どうやら『誰か』が分かったようだ。

 次いで芳凛と華艶にも視線を送る。彼らは無言で頷いた。
「そうだな…少し休憩を入れようか。三十分後各自教室へ行くように。では解散」
 

 

 ◇◇◇

 

 

 生徒全員が講堂から出たあと、教員たちは輪になり話し合いを始めていた。

「とりあえず二人か。私は隔離することを提案するが皆はどうだ?」
 葎が問う。鈴音が重い口を開いた。
「そうね……しばらく『鎖』で様子を見るしかないわ。自我を保てていることから見て、まだ中盤には入ってないと思うし……今落とせないことはないけどリスクは高いわね」
「そうだな…仕方ないか」
 話についていけない准貴が誰にともなく訊ねた。
「様子を見てどうするんだ? 呑まれたら最後だろ。悠長に様子をみてる場合なのか?」
「呑まれないように『鎖』をつけて抑えるのよ」
 鈴音が答えた。

 『鎖』とは門番の力の根源になる基本資質の力の一つの事だった。

 選らばれし者たちは皆、生まれつき資質を持っている。基本資質は全部で四つ。ノリスは攻撃を主とし、ハザードは防御を。スノウは治癒、イベラが拘束だった。
 資質は一人につき一つではない。生まれつき複数持っている者もいれば、訓練などで他の資質の力を得る者もいる。だがそれはしゅとする基本資質を使いこなした上で可能となるのだ。
 准貴の資質はノリスだ。鍛錬によりハザードも使えた。戦闘課ではこの二つが使えれば十分だと言われていた。というのも、スノウやイベラは特殊な力で医療課が管理しているからだ。戦場には派遣という形で医療課の門番を送り込んでいるのだった。
「でも医療課への報告はどうする?」
 咲矢が葎の指示をあおった。
「まぁ……二人となると未報告では済まんだろうな。ばれたときうるさいし」
 進行する話に納得いかない様子で准貴が詰め寄った。
「ちょっと待てよ。抑えてその後どうするんだよ」
残影ざんえいが弱るのを待って抜き出す方が生徒への負担も少ないからな」
 残影――とは、異形のものが狙った獲物につける印のようなものだった。一見小さな傷痕や痣のように見える印である。印とは異形の分身とも言われていた。残影に憑かれた者は、内側から徐々に体を奪われていき、最後には心を砕かれ魂を喰らわれてしまうのだ。

 ただ人ではない選ばれし者の魂は異形のものにとってはかなりの美味であり、力を与えるとされている。ゆえに、戦う術を持たない選ばれし者たちは恰好のまととなる。
「弱るのを待つって………そんなのいつまでだよ」 
 隔離された生徒はそれだけで精神的ダメージを受ける。それ以上に彼らを苦しめるのは、チームメイトに遅れをとるという事。遅れを取り戻すことができればいいが、できなかった場合は留年扱いだ。
「期間はわからない。でもね、准貴。この段階で無理に引き離すと、生徒の命に関わるわ。私たちの仕事は、生徒を四年間で仕上げることではないのよ。優先すべきは生徒の命。たとえその結果…彼らが傷付いたとしてもよ。体面は天秤にかけるに値しないわ」
 命あっての物種――そんなこと百も承知だった。担当教員の自分がいち早く気付いていれば、こんな結果にはならなかったのではないか。准貴は初めて自分が責務を怠っていたことに気付いた。
 初期の段階で気付いていたら…? 生徒は隔離されずに済んだかもしれないんじゃないか?
 自分が芳凛にうつつを抜かしていたばかりに、こんな事態を招いたんじゃないか? 

 准貴は自責の念にかられた。
「悪い……俺がもっと―――」
「仕方ないわよ。私たちだって四六時中、生徒を見張れるわけじゃないんだし。まあ、言い訳にしか聞こえないだろうけど」
 鈴音が肩を落として言った。

 残影に憑かれている生徒は准貴と鈴音の生徒なのだ。
「おいおい、これじゃあまるで通夜だな。この世の終わりみたいな顔するんじゃない。問題は何も解決していないだろうが」
 葎がしょぼくれた二人を叱責した。
「ごめんなさい。葎も色々大変なのに…」

 と、鈴音は涙声だ。

「鈴音。これが私の役割だよ。気にすることはない」
 こくりと鈴音は頷いた。
「とりあえず、だ。二人の生徒は第三医務室へ連れてきてくれ。それと咲矢」
「医療課の方なら申請しておくわ」
「頼んだよ」

 

 ◇◇◇


 教員たちが立ち去ったあと、葎は一人講堂で考え事をしていた。
 葎は時々ひとり講堂に来ることがある。頭の中を整理するにはこの場所が一番集中できた。
 床に片膝を立て座り込むと、自然と笑みがこぼれた。
(まったくもって、考えることが多すぎて笑えてくるな……)
 葎は、深呼吸すると瞼を下ろした。

 静寂がしんみりと心に染入る。
 生徒のことは何とかなるだろう。自分ひとりで背負うものではないし、准貴もようやく教員としての最低限の自覚ができたことだし、鈴音には咲矢が付いている。となると、やはり気掛かりなのは芳凛と華艶のことだった。
 戦闘課総監である大樹が連れてきた少年。芳凛はなぜ、華艶をそばに置くのか。
「……っと、あぁ…元老員の所も行かなくちゃな」
 どうせ、もう耳には入っているだろうけど。
「菓子折りの一つでも持っていくか…」 
 大樹は目的があって華艶を連れてきたはずだ。でなければ、華艶が存在する意味がない。そう思うと、葎の頭は少し軽くなった。
「ん? もしかしたら、新たな情報が引き出せるかもしれないとか……」

 在り得る話だ。元老員の情報量は半端ではないからだ。


 

選ばれし者の力

 第六教室では五人の生徒が集まっていた。

 教卓や机、黒板などの備品が一切ない室内だが、窓は開かれ心地よい風が室内に吹き込まれている。ほんのわずかだが花の香りがした。
 窓辺に寄り掛かっていた芳凛がいきなり窓を閉める。芳凛の不審な行動に彩が問うた。
「どうしたの? 芳凛先生」
「なにでもない」
 嫌な匂いに似ていた気がした。こういう直感は嫌なことほどよく当たるものだ。

 芳凛はしばらく窓の外を眺めるふりをして何かを探す。草木がさわさわと葉を揺らしていた。
「急にどうしちゃったの?」
 麻雛が声をひそめて訊ねた。明士が「いつものことだよ」と軽く答えると、流真と彩が合わせて相槌を打った。
「芳凛先生は時々あーやってぼんやりするの。何か聞いてるみたい」
 聞く? 何を? 

 双子たちが揃って首を傾ける。咲矢とは全然違う雰囲気の教員に正直戸惑っていた。
「先生。早く始めようぜ」
 流真に急かされ芳凛が振り返った。
「先生」
 雛叉が手を上げた。質問があるという意思表示だ。
「なんだ」
「私がスノウで麻雛がイベラです。流真たちの資質はノリスじゃないんですか?」
 素朴な疑問だった。異なる資質は教えられない。だから生徒と教員は同じ資質だと彼女は教わっているのだ。
「問題ない」
「――」
 なんで説明がないんだろう。今度は麻雛が手を上げた。
「なぜですか?」     
 一瞬怪訝そうな表情をした芳凛に、その反応は違う気がする、と双子たちは思った。
  すると「ああ、そうか」と、閃いたように芳凛が聞き返した。
「違う資質だと言いたいのか?」
 この先生で大丈夫なのか…。

 一抹の不安が、双子たちの頭の中をよぎったのは当然だろう。
「お前たちの担当は華艶だろ」
  あ。
  重大なことをすっかり頭の隅に追いやっていたことに双子たちは気付かされた。それでも疑問が解決したわけではない。
「でも、華艶先生は初めてだから一緒に授業するんですよね?」
 麻雛が問う。
「そうだ」
「てことは…華艶先生に教え方を教えながらってことじゃないんですか?」
 次は、雛叉が問うた。
「まぁ、そうなるな」
「……」 
 どちらが問うても、煮え切らない返事しか返ってこない。
 不満顔の双子たちが気の毒になってきた明士が、補足説明をすることにした。
「えっとね。確かに僕たちの資質はノリスなんだけど、他にハザードとイベラを持ってるんだよ」
 さすが双子。仰天した時の目の開き具合といい、同じ顔だけにある種奇妙だった。
「雛叉のスノウはどうなるのよ」
「あーえっと、僕たちは持ってないけど、先生は持ってるよ」
 はい?
 何か言い返したいけれど、ぴったり当てはまる言葉が見つからない。
 流真がけらけら笑った。双子たちが流真をじろりと睨むと、緑眼の少年はからかうように言った。
「芳凛先生は四つとも使えんだよ」
「……そんな話聞いたことないわよ」
 さすが双子。感心するくらい同時に言い返した。
「なんだよ。その目は……先生。簡単に説明してやれよ」
 流真が芳凛に話を戻した。すると芳凛は本当に簡潔に説明した。
「何とかなるから大丈夫だ」
 ――数拍待つ。
「……………え?」 
「大丈夫だよ~。双子ちゃんたちは心配性だなぁ~」
「ええ? ええええええ!? 何それっ 今のが説明なの!?」
 彩の放つのほほ~んとした独特の空気に、ちょっとほんわかした双子たちだったが、ちっとも心配症じゃない。説得力を感じられないのだ。
「先生が大丈夫って言ったら、本当に大丈夫なんだよ。俺の指が吹っ飛んだときも同じこと言ってたけど、何とかなったしさ」
 そうそう。明士と彩が普通に頷いた。双子たちは興ざめした。
「あの時はさすがにびっくりしたよね~。でも何とかなったしね~」
「僕も正直、もうだめだと思ったよ」
 ははは。と三人が軽快に笑う中、双子たちは思わず流真の指の数を必死で数えた。
「…ちゃ、ちゃんとある…」
 そりゃそうだ。
 ポンポンと双子たちの肩を叩く明士がにこやかな笑顔で励ました。
「細かいことを気にしてたら、やっていけないよ」
 まるで他人事だ。
「――華艶、二重結界を」
 教室には個別に結界を張るための装置がある。装置といっても壁取り付けられた照明のスイッチのようなものだったが、現在故障中だ。
「あ、そっか。華艶先生がいるからちゃんとした結界が張れるんだ」
 ちゃんとした結界? 双子たちの疑問がまた増えた。
「さ、彩ちゃん。どういうこと?」
「んっとねー流真が壊しちゃうんだよ~」
「おいおい、人聞き悪いこと言うなよ。俺だけじゃないだろ」
「こら、双子たち」
 名前を呼ぶのが面倒なのか、覚えられないのか。芳凛は彼女たちをそう呼ぶことに決めたようだ。
「始めるからちゃんと見て覚えろ」
 あ、そうだった。自分たちの教員は華艶だ。
「華艶先生。お願いします」
 双子たちと華艶の目が初めて合った。
「……」
 華艶は軽く頷くと意識を集中した。華艶は水滴が上昇するような繊細な気を放った。
 ぽつりぽつりと呟くように言霊を繋ぐ。
「時を止める声。流れを塞ぐ北の風。汝、 あるじを示せ。我、この域を封じる」
 さー…と、流れる水を指で撫でたような波紋が室内に広がった。
「やっぱ先生とは全然違うな」 
「ほんとだね~。なんか優しいね~」
「どっちかっていうと、芳凛先生のは荒っぽいからね」
 なぜか癒されている三人を見ていると、苦労してきたんだなぁ、と双子たちは同情の念を抱いた。
「壊されないように強化してくれ」
 生徒たちへの当て付けに芳凛が頼んだ。
「二重にしたよ?」 
「念のために」
「――わかった」

 パンッ!
 華艶が両手を打ち鳴らすと、キィーンと耳朶を刺激する金属音が響く。耳の奥がむず痒くなって生徒たちは耳の穴を指でほじった。
「今、何をしたんですか?」
 麻雛が手を上げたまま質問した。
「…強化するために圧をかけたんだよ」
 華艶がぼそぼそと喋った。
「圧をかけることで強化できるんですか」
「ある程度だけどね」
「ほおぅ!」 
 流真たちは初めて聞いたという感じだった。
「何なんのその反応。あんたたちもイベラ使うんでしょ?」
「なんで?」
 三人一緒に首を傾げた。バカトリオだ。
「こいつらはノリスで手一杯だ」
 芳凛が適当に髪を結い上げた。やる気満々だ。流真たちも気合が入る。
「でも、三つも資質を持ってるのに」
 勿体無いと言いたげだった。それについては明士が答えた。
「そんな一気にいかないよ。芳凛先生との二年間では、とりあえずノリスとハザードを覚えるんだ。残りの二年で足らない部分と、イベラを教わる予定なんだよ」
「そういうことだ。おしゃべりはその辺にしておけ。麻雛、華艶に付いて流真に結界を張れ」
「はい!?」 

 いきなりですか!? と、おろおろ手を振って無理だとアピールしする挙動不審な麻雛を見て、バカトリオが噴出した。
「でででででもっっ」
「麻雛。こっちにきて。危ないよ」
 華艶が麻雛を呼び寄せた。
「は、はいはい…でも、私でき、できないですよっ!」
 悲痛な叫びだった。「まぁまぁ」と雛叉がなだめるが聞こえていないようだ。
「大丈夫、僕がちゃんと補佐するから」
「本当に!? 絶対ですよっ!」 
 麻雛はかなり興奮していた。
「なぁーんだよ、麻雛。お前ビビッてんのかぁ?」
 面白がって流真がちょっかいを出した。
「びっびびってなんかっない、ないよ、バカッ!!」
 しっかり者が定着していた麻雛だったが、必死になって弁解しているところを見た彩が励ましの言葉を掛ける。
「大丈夫だよ~麻雛ちゃん。華艶先生が守ってくれるよ~」
「他人事だと思って!」

「そんなことないよ~」

 固定人物に結界をかけた場合、力不足で破壊されたりすると術者に衝撃が跳ね返ってくる。流真たちもその程度の基礎知識ぐらいは持ち合わせていた。
「失敗して強くなるんだぞ?」
 なぜだろう。流真に言われると必要以上に勘に障る。麻雛のひと睨みが流真を黙らせた。
「――――時を止める声。流れを塞ぐ北の風。汝、主を示せ。我、この者の境地を封じる」   
 麻雛が術をかけた。うっすらと流真周辺に空気の壁ができた。とりあえず結界は張れたのだ。
「流真、発動しろ」
  芳凛の声を合図に流真の気が煙のようにじわり立ち昇る。
「んむむ~…」
 無意識に抑制しているのだろう。流真の額に汗が滲んでいた。汗の滴がぽたぽた床に落ちる。上昇した気が流真を取り巻いた。
「よっしゃ!」
 ガッツポーズの流真とは真逆に、麻雛は冷や汗をたっぷりかいていた。結界が脆くひびが入りやすい。華艶が指示を出した。
「麻雛、強化して」
「は、はいっ」
 硬く目を閉じ圧をかける。結界に浮き出たひび割れが治まった。麻雛がほっと息を吐いた。だけど、まだ気を抜いてはいけない。
「ノリスの一章だ、流真」
「…」
 麻雛は集中した。驚いてる暇などない。一瞬でも気を抜けば、結界はあっという間に砕けてしまうだろう。
「え…っと」
 流真がうつろな記憶をたどっていた。
(まさか覚えてないの!?)
 麻雛は殺気を流真に向けて放った。
「おおお覚えてるぞ、ちゃんとッ あ、ああ、あれだあれっ!」 
  再び流真の気が流れ動いた。しかし操りきれていない。気風が浮動しているように見えた。まとまりのない気はよくない傾向だった。
「汝、主を、示せ!」
 不安定な気が流真を焚きつけた。
「――っ!」 
  頬に、腕に複数切り傷が刻まれる。流真は顔をしかめるものの言霊は続けた。
「南方より、きたる…かぜ…」
  傷より滴る血が風に混ざって吹き飛ばされた。飛散した血が結界壁に根を張るひびの範囲を広げる。
「華艶、十分だ」
 芳凛の一声。華艶が結界を引き受けたと同時に、麻雛の結界は粉々に砕かれた。
「きゃあっ!」
 破壊された結界の反動が麻雛を襲う。風圧を前面から受け止め弾き飛ばされた。足が地につかず背中から壁に叩きつけられ、痛みのあまり息が詰まる。麻雛は衝撃を緩和するため、無意識に身を丸めうずくまった。
「麻雛!!」
 駆け寄ろうとする雛叉の手を華艶の小さな手が強く捉えた。
「ちょっちょっと華艶先生!?」
「動かないで。麻雛は大丈夫だよ」
 華艶の研ぎ澄まされた横顔は凛として、思わず息を呑んだ。
「で、でも……」 
 掴まれた手首が熱を帯びていた。こんな小さな体のどこから出てくるのだろう。掴まれた手の力に驚きをかくせない。
 ――子供、じゃない…。
 そうだ。普通の子供がこんなところにいるはずがない。自分たちも彼らと同じだ。見た目は子供でも、違う。自分たちもこの少年のように力を使う時がくるのだ。
 避けられない運命と向き合わなければならない……。
 雛叉は明士と彩の様子を見た。流真が発動してから二人は一言も発していない。彼らは肩を並べて遠巻きから見守っていた。この光景に慣れているのだろうか。
「…あ…」 
 ふと、彼らの手元に目が移った。
(…手を繋いでる…) 
 硬く繋がれた手は震えていた。
 明士は彩を、彩は明士を。我知らず、流真へと駆け寄らないように、互いを繋いで止めているように見えた。
 怖いはずだ。苦しいはずだ。チームメイトが目の前で刻まれ血だらけになっているのだから。でも、この繰り返しなのだ。
(――逃げられないんだ。ノリスを資質に持った以上、必然的に手傷を負う)
 咲矢との授業で話は聞いていた。でも実際目にしたのは初めてだった。 
  ――ノリスは攻撃するための力。
 『殺す時は、殺される覚悟を持って挑む』
 雛叉は背筋がぞくっとした。すると、華艶の握る手に力がこめられた。
 華艶は視線を流真から逸らさず告げた。
「…大丈夫だよ、雛叉。傷は君が治してあげれるようになるからね」
 華艶の言葉に雛叉は目頭が熱くなった。震える唇で返事をした。
「――はい…」 
  涙が次々と頬を流れては落ちた。彼女の資質はスノウ――治癒することだ。スノウは傷を癒し命を取り留める。傷を塞ぎ、血を止めて、死なせない。
 力をつけるためには、人が傷付くところをいっぱい見なくてはいけないのだろう。命が消えるところも、いっぱい見なくてはならないのだろう。怖さと痛みを知らなければ、きっと強くなれないから。
 雛叉は涙を手で拭い、流真を見た。華艶の結界は透き通って綺麗だった。歪むこともない。
「――?」 
 流真の気の流れに異変を感じた。声が途絶えている。
「……無理っぽいな」   
 芳凛がポツリと呟く。
「どうする? 叩き起こす?」
 華艶の口から似合わない言葉が発せられた。
「ちょ、ちょっと先生っ! 叩き起こすって!?」
 声を荒げる雛叉に華艶はあっさりと答えた。
「だって気絶してるでしょ?」
「そうだけど………でも」
 最初、流真はかろうじて立っていると雛叉には見えた。だけど、よく見れば立たされているだけだった。体から溢れる力が彼を動かそうとしているのだ。
「開放した状態だから、危ないんだよ」
「…もしかして暴走とか?」
「そう。無意識なのに力が放出されて、まだ体を傷つけてる」
 雛叉が流真の体に視線を移した。指先からポタポタと血が流れ落ちていた。
「華艶。入る隙間をあけろ」
「入るの? 圧を掛けて起こせるよ」
「だめだ。内臓に負荷が掛かる」
「――わかった」
 おもむろに芳凛は流真へと足を進めると、結界壁の一歩手前で立ち止まった。
 華艶が両手を打ち鳴らす。結界壁に垂直な光の筋が現れた。芳凛はその光に手を添えると吸い込まれるように結界の中へと侵入した。
 流真の気が芳凛の体に巻きつく。煙のような気が細長く形状を変えた。雛叉は愕然とした。
「警戒してる…」
 なんてことだろう。力と肉体は直結していないのだろうか。体を傷つけているのに護っているようにも見える。

「用心深いな」

 そう、芳凛が呟くと雛叉が目を凝らして彼らを見た。

 芳凛は流真の気を軽く手で振り払いながら近寄る。そして――

「起きろ」

 発声と同時に頭を張り倒した。
「なッ?!」
 なんてことをするんだ!! 

 雛叉は絶句した。咄嗟に明士たちを見た。彼らは黙視している。
(なんで何も言わないの!?)
 すると、流真がうっすら目を開けた。 
「……いってぇ…」
(――今ので起きたの!?)
 芳凛が流真の額に手を当てた。

「力を抑えろ」
 流真は瞼を閉じると息を大きく吸い込んで吐いた。
「先生……体中、痛い……」
「だろうな」
 流真の気が鎮められたこと確かめると、華艶が結界を解いた。
「流真っ!」
 明士と彩が急ぎ足で駆け寄った。流真は芳凛に支えられ何とか立っていた。心配そうな二人を見て流真が言う。
「…大丈夫じゃ…ない…」
 彩が泣きそうな顔でそばにいた。明士は無理に笑って言い返す。
「当たり前だろ。ばかだな」
 芳凛が流真を横に寝かせると、二人は悟ったように退いた。次は治療開始だ。 
「雛叉、華艶と来い」
 雛叉はびくっとした。ドキドキ心臓が踊っている。麻雛の方を見ると壁に寄り掛かり座っていた。彼女もずっと見ていたようだ。どこかふっ切れた顔をしていた。手を振って雛叉に「行け」と合図を送った。 
「せん、せい…」 
 流真は傍らにいる芳凛の手を掴んだ。
「なんだ?」 
「今日は…ちょっと、マシ、だった…?」
「微々たるもんだがな」
「……ひでぇ…なぁ……。がんば…ったの、に…」
「ああ。努力は認めてやる」
 にっと流真が笑った。
 華艶の後ろをついて雛叉がきた。思わず両手で口を押さえる。
(…ひどい…なに、これ…) 
 体の至るところに多数の切り傷があった。浅い傷から深い傷まで様々だ。しかも赤黒くただれ、火傷していた。傷口から流れる血が衣服を赤く染める。血の臭いが充満していた。
「雛叉」
「はいっっ」
 芳凛に声を掛けられ飛び上がった。
(無理だっ絶対無理だ!! こんなの治せないよ!) 
 心中察して芳凛が苦笑した。
「そう、身構えるな。いきなりさせるつもりはない。治癒は即興ではできないからな」
「あ、はい…」
 雛叉の顔が真っ赤になった。彼女は恥ずかしくなったのだ。頑張らなきゃいけないのにと。
 芳凛の手が流真の頭を優しく撫でた。流真は息も絶え絶えに痛みに耐えていた。芳凛は撫でていた手を流真の左胸に当てた。
「―――ちょ――…まて…って」
 流真が胸に当てられた芳凛の手を掴んだ。
「なんだ?」
 黒い瞳に流真が映る。深い緑色の瞳が芳凛を力強く見据えた。
「…あれ、は…いい。しなくて……いい…から、な」
 何のことかわからない雛叉が華艶を見る。
「―――負傷箇所が多いと、一つ一つ治していたら時間が掛かるでしょ?」
「はい…」
「だから、丸ごと移すんだよ」
 雛叉は声を失った。見たことはないが咲矢から話は聞いていた。
(芳凛先生は……『移し身』をしようとしてるんだ)
 それは、スノウの力の中でより迅速で、なおかつ一番効果的な方法だ。
 スノウの資質を持つ者は自然治癒力が非常に高い。他者の傷を癒すより自分に移し変えて、自然治癒とスノウの力を併合して使った方が相手にも負担が少ないのだ。
「なぁ…おれ、がまん…する…し」
「バカか。うっかり死んでしまうぞ」 
「はは…は……でも、ひな…さに」 
 雛叉は自分の名前が出てきたのでびっくりした。流真は、自分に治せって言ってる。ただ見てるだけじゃなくて、何かしろって。
「私、やります!」
 気合の入った声だったが止める者がいた。
「だめだよ」 
 華艶だった。
「どうしてですかっ」
「時間が掛かるってことはそれだけ長く痛みに耐えなくちゃいけないし、精神的にも負担が大きい。それを考えたら、さっき芳凛が言ったとおり、うっかり死んじゃうよ」
「!!」
「まだ早いんだよ。命を預かるには力が全然足りない」
 容赦なく浴びせられる言葉に、雛叉はただ、悔しくて恥ずかしくて涙が出そうになった。
「なぁ…せん、せい………た、たのむ…よ」
 流真の握る手が冷たくなってきていた。こうしている間にも、うっかり死んでしまう時が近付いているのだ。

 芳凛は短いため息をついた。
「移し身を行う」
 流真が切ない顔をしたが、明士と彩は安堵した。見るに耐えられなかった。早く治してやってほしかったのだ。
「そのあと、華艶。雛叉に私の傷を癒させろ」
 咄嗟に華艶が返事に窮した。そして少し考えた末、頷いた。
 雛叉が顔を上げるとほぼ同時に、芳凛が力の解放をした。
「汝、主を示せ」
 それは、芳凛の開放の言霊だ。結い上げた髪がばらばらと崩れて気流になびいた。うねりあがる黒髪はまるで生き物のような動きをする。
「スノウの理。負を正に、静を動に、白道に映る黒き月、赤き血潮浴びる者よ。その身を我に与えん。この身が全て受けよう」
 舞い上がった髪の動きが緩やかになると流真の体から煙が滲み出た。それは赤い煙だった。陽炎のように揺らいで立ち昇る。赤い、赤い陽炎――。
「汝、主を示せ。我が息を、我が血を、我が身を対価に、事の調べをスノウの理に、ハザードの加護をこの者に。我触れるもの、負を正に、静を動に、回避し絶無する」
 赤い煙が芳凛の体に吸収されていく。芳凛の体に、生々しく浮き上がった。

 傷が一つ、また一つと増えていく。

 雛叉はその凄惨さに顔を背けそうになった。
「だめ。ちゃんと見て。あれが移し身だよ。君もいつかしなくちゃいけない時がくるから」
 華艶の言葉は、抑揚のない声音に力を吹き込むように強く熱いものだった。
「……はい」
 自分より幼さの残る教員。そんなの微塵も感じなかった。それより誇らしかった。小さい体に秘められた力で自分たちを導いてくれるのだと思うと嬉しかった。
 移し身が終了すると流真は眠っていた。明士たちが駆け寄るのと入れ替わりに、芳凛がてくてくと教室の片隅へと向かう。そして華艶を呼んで床の上に胡坐をかいた。
「自然治癒を高める」
 そう告げると、芳凛が瞼を下ろし少しずつ息を吐いた。
「―――」
  芳凛の姿に雛叉の目は釘付けになった。痛くないはずない。流真と体力は違うとはいえ痛みを感じないわけじゃない。だけど、なんであんなに凛としていられる んだろう。あんなに平然としてられるのだろう。出血がなければ、誰も気付かないかもしれない。芳凛の頬に刻まれた傷に、雛叉の目が止まった。   
(…綺麗な顔なのに……でも治るんだけど。でも――)
 たとえ、傷痕が残ったとしても彼女なら醜貌しゅうぼうにはならないだろうと雛叉は思った。
 厳かで神秘的な気品。芳凛は畏怖を感じるほどに妖艶だった。
「…………………先生は?!」 
 気がついた流真は飛び起きた。出血のせいでめまいがする。ぐらつく視界の中、芳凛の姿を探した。
  流真の傷は跡形もなく綺麗に消えていた。彩が顔に付いた血をハンカチで拭ってくれたが、やっぱり痛みはない。衣服に染みた血痕を見て流真は顔面蒼白になった。
「大丈夫だよ」
 明士が芳凛のいる教室の片隅を指差す。華艶と雛叉、そして麻雛が付き添っていた。
( ――ああ、やっぱり。だから嫌だったのに)
  流真が悲痛に顔をしかめた。

 流真は自分のために傷つく芳凛を見るのが耐え難かったのだ。

 だけど自分はまだまだ未熟で、芳凛が言うように本当にうっかり死んでしまいそうなくらい弱かった。
(早く強くなりたい。強くなったら先生に傷を負わせなくても済むのに…)
「流真…」
 彩と明士も同じ気持ちだった。彼らの時も同様に芳凛は癒してくれるからだ。でも、流真ほど自傷は酷くなかった。
「見に行く?」
 彩が流真に訊ねた。流真は首を振る。
「やめとく…」
「そうだね。僕たちはスノウ以外の力を使えるようにならなくちゃいけないし」
 今の段階の彼らには不必要だと判断できた。癒しの力はほしいけれど、持たない資質を覚える余裕なんてない。
 そして、十五分ほど経った頃、芳凛が立ち上がった。

 芳凛は流真へと目を向けると、変わらず無表情で話しかける。
「気分はどうだ?」
 芳凛の衣服に付着した血痕につい目がいく。
「あ…だい、大丈夫っ。先生は?」
「なんてことはない」
 いつも、そうだ。芳凛はどんなに深い傷を受けても顔色ひとつ変えない。流真は痛みの程度を身で感じているからよけい辛かった。
「そんな顔をするな。私は自分の責務を果たしているだけだ」
 ちくりと胸を刺す痛みを流真は感じた。
「先生。俺、腹減ったよ」   
 流真はにかっと歯を見せて笑った。その一言で、皆が空腹感を思い出す。
「そうだな。昼休憩にしよう」
 華艶が両手を打ち鳴らし結界を解除する。ぱらぱら崩れ落ちる結界壁は、硝子の破片のように光を帯びて消えた。そして何事もなかったような教室に戻った。
「俺ら、昼は食堂なんだけど、お前らどうする?」
 流真が双子たちに問うた。
「あー私たちもいつもそうよ。でも今日中に新しい部屋に引っ越さなくちゃいけないし、今日は売店で何か買って食べるわ」
 麻雛が答えると彩がそっかぁと話を続けた。
「部屋替えになるんだよね~大変だね~。あ、何か手伝うことあったら言ってね~」
「僕たちも運ぶの手伝うよ」
 生徒たちの会話を聞いていた芳凛が、気を利かせて休憩時間の延長を申し出た。自分も血に濡れた体を洗わなくてはならないし、着替えもあるからだ。
「今から九十分後に集合だ」
「了解!!」
 五人の元気な声が重なった。和気藹々と廊下を走る生徒たちを見送った後、教員二人は逆方向へと歩き出した。  教員寮へ行くには別回路を通らなくてはならないのだ。その回路への行き方は、生徒たちに知られてはいけないことになっていた。
 

元老員

 教育課の門番は教員以外にも任務がある。

 それは毎晩、浮き世の街へと向かう守護官たちへの付き添いだった。
 守護官とは教育課と同様に防衛課の捜索課所属の門番のことだ。

 捜索課の職務内容は、普通の人々が生活している世界(浮き世)へ侵入した異形を刈り取る戦闘課の外回りの門番と行動を共にし、その事柄に選ばれし者が関わっていた際、速やかにその者を保護することが正しい職務といえた。
 だが、事実上捜索課に所属する門番はいない。

 というのも、戦闘課の人不足が防衛課へしわ寄せしているのだ。現実問題、戦闘課は戦場を守護するので手一杯であり、外回りへと駆り出させるほど門番の予備がない。そのため戦闘課が担っていた外回り隊の役目を捜索課の門番が担うことになったのだ。
 ならば、選ばれし者の保護は誰が行うのか。もちろん問題視されたが、

 

『餅は餅屋でいいんじゃねーの?』
 

 ありがたいことに、現戦闘課総監の鶴の一言により、選ばれし者の保護は教育課の任務となったのだ。

 しかし、当時、教育課管理官であった門番も黙ってはいない。必ずしも選ばれし者が保護されるとは決まっていないことを理由に、詰め所での待機という形で教育課は職務を受理したのだ。
 それからというもの、浮き世の街へと赴く教員の後を着けた生徒たちが行方不明になると言った事件が発生するようになった。

 秘密の通路は名の通り秘密の空間だ。なにせ、科学課が作った未知の異空間。どこからどこへ繋がっているのか、作った科学課も把握しきれていないと噂されているほどだった。

 浮き世へでて暴走するくらいならまだ運が良い。運が悪くければ回路に呑まれて二度と戻ってこない生徒まで出始めた。ゆえに、教員たちには特殊回路の出入りに必要以上の警戒を強いるようになったのだ。

 そんな特殊回路の中に、人知れず元老員たちの住処がある。
 葎は講堂のかくし扉から特殊回廊へと足を踏み入れた。空間移動を数箇所経て地下へ向かう。この方法はかなり遠回りになるのだが、館内からだと生徒に見つかる恐れがあるため仕方がなかった。
 ちなみに、元老員たちは暇を持て余してはひょこひょこと地上である学び舎へ顔を出していた。だから、ごく普通に生徒と顔見知りだったりするから余計怖い。
 過去に、元老員たちが生徒を地下へ連れ入れ大騒ぎになったことがあるのだ。それも一、二度ではない。しかも、注意を受けたり都合が悪くなると勝手年寄りになって不貞腐れたりするので始末も悪かった。
 そんな悪行名高き教育課の元老員たちは現在五人いる。年齢は当然不詳であるが、もちろん外見からそれを確かめることは不可能であった。
「―――」
 辿り着いた元老員たちの住処を眼前に、思慮深い面持で葎は立っていた。
 彼らの趣向なのかどうか分からないが、木造の引き戸の横には『元老の間』と記された表札まで取り付けられている。
 葎は引き戸に手を掛けるのを躊躇している。葎はつま先で戸を軽くコンコンと蹴った。
 ――何も起こらないが…
 先日、鈴音が訪問したときは猛毒をたっぷり塗りこんだ矢が百本、一斉に飛んできたと言っていたし、こないだ准貴が初任の挨拶に来たときは、底なしの落とし穴に落ちたと言う。
 元老員たちの悪戯は日々過熱しているのだ。 
 前回、葎が訪問したのは年明けの挨拶だったが、何気なく戸口に手を掛けたその瞬間、高圧電流が全身を貫き危うく命を落としそうになった。あの時は、咲矢がそばにいたおかげで助かったものの一人だと野垂れ死に確定だ。
 葎がごちゃごちゃと思い悩んでいると、室内から待ち切れないのか甘い声が聞こえた。
「――――さっさと入って来んかい。今日は何にも仕掛けとらんよ」
 葎が渋面になる。
 信じてはだめだ。あれは悪魔のささやきなのだから。
「………その声は初さんですね。本当ですか? もしトラップが仕掛けられていたらどうします?」
「お前さんは疑り深いのう」   
 当たり前だ。
「わしらに聞きたいことがあるんじゃろ?」
 底意地の悪い年寄りたちだ。葎をからかって面白がっているのだろう。
「ええ――――でも知る方法は他にもありますし無理に聞く気はないですよ」

「そんなこと言うて、ここに来たってことは他に聞けぬからじゃろうが」

「………… そうですね、もしちょっとでもトラップが仕掛けられていたら、巨大な尾鰭を付けて速攻で芳凛にチクリます。そして、芳凛がここへ出入りするのを今後一切禁 じます。もちろんあなた方もご存じのように、芳凛は職務に関しては私の言うことを昔から聞く子ですよ。いいですか、開けますよ?」

 葎の指が引き戸に伸びた。

「ままっま待てっ!! しばし待てっっ」
 切羽詰った声のあと、どたばた物を動かす音が聞こえた。
「――」
 まったく念には念を入れて正解だ。今度からは遠慮せず芳凛の名前を引き合いに出そうと葎は思った。
「…い、いいぞ。入って来い」
「失礼します」
 どうやら仕掛けはすべて取り外したようだ。戸口が開かれると広々とした十二畳はあるだろうか、畳の居間が正面にあった。
 葎は靴を脱ぐと颯爽と入室する。室内には年代物の建具が壁に沿って並んでいた。
 部屋の構造は生徒たちの寮と似ているが二部屋余分に作られている。居間には掘りコタツがあり、五人の元老員は身を丸め座ってた。
「葎、さぁさ、早くコタツにお入り。そんなところじゃ寒いでしょ」
 人の良さそうな見た目七十代のお婆さんが、座布団を用意し葎に席を勧めた。襟付きの茶色いワンピースに白いカーディガンを羽織っている。灰色の髪を後頭部で丸くまとめ、茶色の瞳が優しく葎を見た。
「トキさんは寒がりだからなぁ」 
「そう言う朝揮ちょうきさんもちゃっかりコタツに足を突っ込んでいるじゃないの」
 まあな、と朝揮爺さんが笑った。面長な顔に、下がった眉に赤紫色の瞳。若者のように上下揃いのジャージを着ている。トキと朝揮はまるで仲の良い老夫婦に見えた。
「そろそろ来る頃合いだと思ってたんじゃが、意外に遅かったのう」
  入り口で声をかけてきた、初婆さんが得意の皮肉を一発かましてきた。小柄なトキと同じくらいの背丈であるが外見は若く六十代に見える。勝気な性格を表して いるのか、赤毛に赤眼、丸顔で皺が少ない。ニット帽を被って迷彩柄のTシャツにジーンズを履いているが、実年齢は二百を数年越していると噂だ。それでも五 人の中では一番若いらしい。 
「忙しくてなかなか顔を出せずにすみません。はい、これ皆さんでどうぞ」
 葎は愛想よく形だけの挨拶を済ませると、菓子折りを差し出すと、上品な顎鬚をたくわえた翁が無骨な手で受け取った。
「これはこれは、いつもご丁寧に」

 鐘浪しょうろうだ。彼は五人の中で一番の古株だと言われていた。

 七三に整えられた灰色の髪と同色の瞳。小さな眼鏡を掛けていて、シャツの上に洒落たベストを重ね着ている。すらりと伸びた足を折り畳んで葎の隣に腰を下ろしていた。

「鐘浪さん。何か私に言うことはありますか?」
 唐突な葎の言葉にも動揺を見せず、老人が笑顔を浮かべて答えた。
「お前さんはいつでも影を狙われとるよ。気をつけなされ。守るものはお前さんの体よりずっとずっと大きいものゆえに」 
 葎はこの老人が好きだった。けして多くを語らない。顔に刻まれた皺の数以上に長く、この世界を見続けてきた者だ。
「肝に命じます」
 葎の返答は尊敬の念を含んだものだった。
「そういえば、大樹が来ていたらしいのう」
 口を切ったのは季鬼ききだ。 彼は長年、戦闘課総監を勤め上げ、現戦闘課総監の大樹を誰よりも知る者だとも言われていた。歳を得たせいで多少衰えたが大柄で筋肉質な体型をしている。肌 に吸い付くようなTシャツに半端丈のズボンを履いていて、つるりとした頭に不釣り合いな凛々しい眉。その下にある黒い瞳は、年老いてもなお消えることのな い鋭利な眼光をいまだ内に秘めている。
「時期外れに新人が入ったらしいの」
「現総監からお聞きになったのですか?」

 葎はわざと訊ねた。
「聞くもなにも顔も見せんわ、あのガキんちょは。奴は最近わしらを避けとるからの。よっぽどやましいことでもしとるんじゃろうて」
 大樹をガキ扱いできるのはこの元老員たちぐらいなものだ。葎がふと笑みを漏らした。
「それで、新しく入った教員の名は?」
 季鬼が葎の向かいに坐した。
「すでにご存知でしょう?」

 にやりとした季鬼に、葎は眉を寄せる。
「キヒヒ。お前さんも聞きたいことがあるんじゃろ?」 

「………華艶と言う名の少年ですよ」

 当たりくじを引いたと、葎がほくそ笑む。
(やはり。身の危険を犯しても来た甲斐があったか)

「いまだ十にもならん幼子がいきなり教員とはのう――。なぁ、トキさんや」
 季鬼がトキに話を振った。トキは葎に温かいお茶を入れている。上物の茶葉の芳醇な香りがした。
「ふふ………そうですねぇ………あの大樹が連れて来たからには何か意味があるんでしょう。ねぇ鐘浪さん」
 鐘浪は顎ひげを手で梳きながら「はてさて」と軽くかわした。
「しかし、お前も考えたもんじゃの」
 本題へのきっかけを作ったのは、葎が持ってきた手土産の饅頭を皆に手渡しで配っている初だった。
 朝揮が自分の饅頭を葎の手前にちょこんと置いた。
「てっきり、咲矢に監視させるんかと思ってたのに」
「ああそれは――」
 さすがというべきか。そこまで耳に入っているとは恐るべき情報網。
「芳凛からの申し出ですよ」
 五人が目を丸くして驚いた。どうやら知らなかったようだ。
「なんと……あの芳凛がか?」

 かじった饅頭をぽろりと落とす朝揮に、その隣で地蔵のように固まっている季鬼。
「何事にも無頓着で無関心のあの芳凛が?」
 そう、その芳凛だ。初の声も驚きを隠せていない。
「彼女も変わりましたよ。生徒と冗談なんか言ったりして、毎日笑顔の大売出しですよ、まったく…」
 本当に買える物なら買い占めてやりたいところだ。
 元老員の驚愕に満ちた顔から目をそらし、葎はずずーっとお茶をすすった。喉元が温かくなると、ほっと息をつく。
「――あの子は優しい子だからね」
 トキが昔を懐かしむように目を細めた。
 この老人たちは、いったいどこからどこまで知り得る者なのだろうか。
 葎は疑念を抱いていた。自分の知らない芳凛を知っている。そんな口振りの元老員たち。彼らが知っているという事は、組織も知ることではないだろうか。 
「…………華艶と言うたか」
 鐘浪が葎を見た。 
「お前さんはどこまで知っておるのかね?」
「何も。だからここに来たんですよ」
「見当くらいついておるんじゃろ?」 
「私が考えていることは単なる憶測ですよ」
 彼らは迷っていた。葎に話すべきか否かを。
 鐘浪は皆と顔を見合わせたが、口を開いたのは朝揮だった。 
「あの子は『検体』だよ」
 やはり。
 葎の推測は当たっていた。あの不可思議な気を纏っている訳がようやく理解できた。
 朝揮は、いつもの朗らかな表情からは想像のつかない憂鬱な顔を見せた。
 しんと静まり返った室内で皆、朝揮の話に耳を傾けた。
「この年になってもまだわからんよ。命を創るなど…なんと恐れ多い事を……」   
「芳凛は気づいているのでしょう。だからそばに置くのね」
「……」
 なんだろう。葎は違和感を感じた。
「何かしら?」
 葎の視線にトキが可愛く首を傾げた。鐘浪が嘆息した。葎は険しい面持ちでトキに訊いた。
「なぜ『だからそばに置く』になるんです?」
 トキは思わず、しまった! という顔をしたが、

「ほほ、いやね……私、そんなこと言ったかしら……ほほほ…いやぁね。年をとると物忘れがひどくって」 
 出た。得意の勝手年寄り。
 えへへと可愛く取り繕うとするが、葎はトキを見据えたままだ。他四人の元老員も葎と目を合わさないよう視線を逸らしていた。トキは、建具に持たれて胡坐をかいている初に救いを訴えるような目を向けた。
「やれやれ…おトキさんにはしてやられるわい」
  初が渋い顔でトキを指摘した。  
「ご、ごめん、なさい…」

 しゅんとするトキの肩を朝揮がポンポンと叩き慰める。鐘浪と季鬼は熱い茶をすすった。
「まぁいい。遅かれ早かれ知り得る事じゃしの。ちょこっとだけ教えてやるえ」
「――ちょこっとだけって……またけち臭いことを言いますね、お初さん」
「けっけちとはなんじゃっ!」
 カッと目を剥いて初が怒った。
「そんなんだからお前はダメダメなんじゃ!!」
「ダメダメとはなんですか。聞き捨てなりませんね。いったい、私の何がダメなんですか? 誰に対して何がダメなんです?」
「お、おお…」 
 初は問い詰められ唇を硬く閉じた。たじろぐ初に鐘浪が助っ人として手を上げる。
「これこれ…。お初さんまでなに墓穴を掘ってるんじゃ」
 トキに並んで初が悄然として肩を落とした。
「葎も口が悪い。もう少し可愛いところも見せんと上から押しつぶされてしまうぞ」
 大きなお世話とばかりに葎はそっぽを向いた。
「押しつぶされるほど弱くないですよ」
「ほら、またそういう言い方をする」
 鐘浪が眉をひそめ憂慮の面持ちになった。葎はぐっと押し黙った。この老人にそういう顔をされるのが嫌いだった。
 彼らが心配しているのはわかっていた。だが、虚勢を張らなくては大切なものを守れないのが現実だ。
「少しだけ、話をしようかの。じゃが、この先は踏み込むことを禁じられた領域――――…」
 葎は深く頷いた。
「忘れてはならんよ。お前さんは影に魅入られておるかの」
 彼らは知っていた。

 巨大な影が葎を呑み込もうと大口開けて待っていることを。

 

 

 

     ◇◇◇

 

 

 

 自室に戻った芳凛は、華艶をリビングで待たせて自分は浴室でシャワーを浴びていた。

 浴槽は手足を伸ばせるほど大きくもなく、洗い場も大人が二人立つのがやっとの広さだった。
 芳凛は体に付いた血を洗い流し、まだ癒えきれていない脇腹の傷をさする。血は止まっているが傷痕が薄らと残っていた。
 浴室を出る。ぽたぽたと水滴を落としながら寝室へ向かおうと居間を横切ると、
「芳凛」
 不意に呼ばれ声の主へと振り返った。
「とりあえず何か羽織った方がいいよ」
 葎がソファに腰を下ろしている。その隣では華艶が仏頂面で座っていた。
「――――何をしているんだ?」   
「話がしたくてきたんだけどね。まさか華艶がいるとは思わなかったよ」
 葎が眼鏡越しに芳凛を見る。芳凛がリビングの椅子に腰をかけ煙草に火を点けた。
「……で、何の用だ?」
「芳凛。先に着替えを済ませろ。日中は暖かいとはいえ、夏にはまだ早い」
 芳凛は寝室へと向かい、白いシャツを無造作に羽織っただけの姿で居間へと戻った。

 紫煙が天井へとゆっくりと昇る。髪から滴る水がシャツを濡らしていた。
「相変わらずだな」
 葎は浴室からバスタオルを持ち出すと芳凛へ近付く。華艶が芳凛と葎の前に立ちはだかった。
「なんだい?」
 華艶は葎からバスタオルを奪うと芳凛に手渡す。葎が目を瞬かせた。
「…芳凛」
 返事がない。葎はもう一度呼んでみた。
「芳凛」   
「なんだ?」
「なんだとはなんだ。二回目でやっと返事をしたくせに」
 ぶつくさ言いかけて葎が身を屈ませ、華艶の瞳を覗きこんだ。
「何の用で来たんだ? まさか、わざわざ珈琲を飲みに来たんじゃないんだろ? ……お前、何をしてるんだ?」
「いや。綺麗な目をしてるなぁと思ってね」
 華艶が葎の顔に手を伸ばした。
「――――あっ!」
 華艶が葎の掛けていた眼鏡を外して芳凛の後ろへと逃げた。
「こら。それは玩具じゃないんだ。返しなさい」 
 芳凛が葎と向き合う。葎の目には芳凛の姿は朧げだった。
「なんだ、芳凛」
 芳凛は華艶から眼鏡を受け取ると、葎の目の前に眼鏡をぶら下げた。
「――ああ、すまな…」
  そう言うと葎は手を伸ばした、が手は眼鏡の縁をかすっただけだった。
「――」
「遊んでないで眼鏡を返してくれ」
「………………質問に答えたら返してやってもいい」
「質問? お前が俺にか?」
「そうだ。いやか?」
「別にいいよ。なんなりと…」
 葎はいとも容易く承諾した。
「元老員には会ってきたのか?」
「ああ、ここに来る前に寄って来たよ。相変わらずだな、あの五人のご老人たちは」
「元気そうだったか?」
「ああ。俺たちより壮健だよ。そうだ、お前に逢いたがっていたよ」

「――」

「聞きたいことはそれか?」
「二人の生徒はどうなった?」
「え…? ああ、医務室で眠らせているよ」 
「鈴音の様子は――」

「どうしたんだ。今日はよく喋るじゃないか」
「――」

「もう、いいだろ。眼鏡を返してくれ」
 葎が手を出したが眼鏡はすっとかわされた。
「芳凛、いい加減にしないと…」
 葎の手が芳凛の肩へと伸ばされるが、芳凛は一歩後ろへと下がった。
「おい――」
 華艶が芳凛を見上げる。芳凛は訝るように葎を睨んでいたが、眼鏡を葎の手のひらに乗せた。
「まったく…」
 葎が眼鏡を掛けようとしたとき、芳凛の手が葎の瞼を覆った。
「なんだよっ!?」
 驚いた葎が後ずさりするとそのまま壁に追い詰められる。

「…ッ!」
 葎は壁に後頭部をぶつけて立ち止まった。

 芳凛の手指間から見える彼女の顔は、明らかに怒りを露にしていた。
「……このまま『奴』を引き摺り出してやろうか?」
 凄みのある声音で葎を糾弾した。
「まい、ったな…」
 葎が芳凛の手を掴む。ひどく疲れたようなため息が自然に出た。
「なんでわかるんだ?」
「お前は嘘をつくのが下手なんだ」
 困憊しきった様子で葎がうすく笑った。芳凛は掴まれた手を強く振り払う。
「芳凛――」
「出て行け」
 冷たく吐き捨てられたが、葎は嬉しかった。なぜなら、今一番近くにいる咲矢ですら、恐らく気付いていないことだからだ。

 芳凛は寝室へと向かうと、着替えを始めた。葎は壁に寄り掛かったまま問う。

「怒ってるのか?」 

「出て行けと言ってるんだ」

 ぶっきら棒な言い方は芳凛のいつもの口調だが、今日は少し違った。
「俺も聞きたいことがあるんだよ」

「お前の思っているとおりだ」

 間髪入れずに返される言葉に、葎は愛しさを感じる。
「まだ何も言ってないぞ?」

 寝室から出てきた芳凛が、葎を睥睨すると華艶の手を引いて入口へと向かった。

「お前が『ヤツ』と繋がりを断てば教えてやる」 

 背中から発する言葉には憤りが含まれていた。

「それは聞けない相談だよ」
  華艶が無表情ながらも不安げに葎を顧みたが、苦笑する葎を部屋に残し、芳凛と華艶は部屋を出た。

 二人の気配が完全に感じられなくなると、葎は独り言を呟いた。
「まったく、煩わしい事ばかりだ………」

 

 

 声を潜めて、息を殺して。
 交わること許されぬ者、我らに痣を成す者たち。
 月は闇を照らし影を成す。
 打ち砕く力を我が胸に。
 
 
 

姿なき者

 芳凛は、食堂の窓際の席で華艶と向き合ってテーブルに着いていた。時間遅れの昼食だが、周囲にはちらほらと職員や門番の姿があった。流真たちの姿は見当たらない。早々に食事を終え双子たちの手伝いに向かったようだ。

 テーブルの上に配膳されているのはハンバーグセットと、親子丼セット。芳凛は、華艶が食べやすいようにとハンバーグを一口サイズに切った。

 何てことはないいつも通りの日常なのに、芳凛の心はざわついて仕方なかった。

 食事を終えた芳凛が注文口でコーヒーを待つ間、遠巻きから華艶の様子を窺っていた。

「――」 

 あの笑顔はもう見れないというのに、今でもまだ彼も匂いを覚えている。

 あの日、あの時、この手が真っ赤に染まった恐怖も――。

(――託真……)

 華艶の体からは彼の匂いがした。

「芳凛?」
 呼び掛けられた声に芳凛は我に返った。視線を落した先では、金色の瞳が探るような眼差しを向けている。鈴音だ。芳凛の手元にはコーヒーカップが置かれていた。

「大丈夫? 顔色悪いわよ」

「……ああ。大丈夫だ」

「それならいいけど――」

 鈴音はちらっと窓際へと視線を走らせる。
「――ねえ、あの子……」

 鈴音が咄嗟に言葉を呑んだ。

「……」

 唇に芳凛の手指が添えられていた。しかも、芳凛の瞳は心の奥を見透かす清らかなものではなかった。

『口にしてはいけない』

 そう言われたような気がして、鈴音はわざとあどけなく笑った。
「そうね。ごめんなさい」
 芳凛は何も返さなかったが、唇で感じた彼女の温もりが鈴音に不安を抱かせた。

 コーヒーカップを片手に席へと戻る芳凛の背中を見つめる鈴音。

(……そばに置けば置くほど辛いだけなのに)

 そう思いながらも、鈴音には芳凛の気持ちが分かる気がした。

 悪を正と成し、正を負と成す。

 宙ぶらりんの心は、指先で触れるだけでも壊れてしまうほど脆いかもしれない。

(まったく、人の心配をするだけの余裕があるなんて……自分でも呆れるわ)
 鈴音が、自嘲の笑みを浮かべた。
(まずは、『あれ』を先に片付けなきゃね……)
 迷いで埋め尽くされた心なんかじゃ、彼女の力になりたくてもなれない。
 食堂を出た鈴音は、重圧の掛かった足音を奏で教室へと向かっていた。

「――」  

 通路は静観としている。行き先を拒むものは何もない。教室の扉を開けると、舜が一人窓辺に佇んでいた。
「どうしました、鈴音先生?」
 鈴音は舜を睨み据えた。

 開かれた扉は自然に閉ざされ、室内にカタカタと小刻な揺れが生じた。それは『解放』の前兆だ。
 教室全体が大きく横揺れするにも関わらず、舜にはわずかな動揺も見られなかった。それどころか、鈴音に微笑んでいるではないか。 
「…………猿芝居は止めなさい」
 鈴音が威厳のある声音で忠言した。
 舜はくつくつと喉の奥で笑いをおさえている。その様は鈴音の知る舜ではなかったが、彼女の知る者ではあった。
「…さすが………と言うべきですか? 舞を封じた結界はなかなかのものでしたよ……」

  ほとばしる鈴音の気は、黄金色こがねいろの蒸気だった。教室の震えは止まらない。いや、止めないのだ。

「心にもないことを言っていると舌を噛むわよ。私もずいぶんと見くびられたものね」  

「また僕を封じる気ですか?」
「『僕』ですって?! 笑わせないでよね。上手く考えたものだわ。私たちに気取られず館内に侵入する方法を」
 舜は瞠目した。
「褒めてあげるわよ。のこのこさいさい凝りもせずこの世界に来るなんていい度胸してんじゃないの…」 
 室内の震えが止まった。舜が頭を下げ肩を震わせ笑っていた。
「虫唾が走る……!」 
 鈴音が見据える先で舜がゆっくりと頭をあげる。軽薄な笑いを浮かべて鈴音を見た。
「クククッ……失敗だな。芳凛じゃなくお前に気付かれるなんてとんだ誤算だよ」
 声質が変わっている。鈴音は気を引き締めた。
「おっと……そのへんでやめておけ。俺は今ほんの少しこいつの体を借りてるだけだ。だから普段は大人しくしてるだろ?」
「……どうやって舜を丸め込んだのかは知らないけど悪いことは言わない。さっさと自分の居るべき場所に戻りなさい。ここはあんたが居るべき世界じゃない。私たちはあんたと遊んでられるほど暇じゃないのよ」
 舜はトンッと床を蹴ると、身を翻し軽々と窓枠に腰を掛けた。皮肉な笑みを絶えず浮かべ、からかう様に言葉を続ける。
「ひどい言われようだが、俺を招き入れたのは舜の方だよ。しかもこいつはお前をすごく嫌ってるようだ。なんでだろうね?」

 鈴音は悔しげにギリッと歯を噛みしめる。

 言い訳じゃないが、気を抜いていたわけではない。だが、舜から『ヤツ』の気配を感じたのは二時間ほど前だったのだ。
「そんなこと……あんたには知る必要のないことよッ!!」
 黄金色の蒸気が雷へと変貌し鈴音の体から複数の稲妻が放たれた。爆音と共に生じる爆風が舜へと噴きつけられる。舜は避けることもせず、しれっとした面持ちで居座っていた。

 鈴音が放電の余韻を身に纏っている。前振りなしに発動したせいで肩で息をしている鈴音を見やると、舜がにやりと口許を歪ませた。
「短気は損だぜ。鈴音」 

 残影に憑かれた舞を隔離するために、鈴音は舜と口論の末、彼と舞を別々の結界に閉じ込めた。そうしなければ舜は舞から離れなかったからだ。舜は鈴音を口 汚く罵倒した。それでも鈴音は二人の生徒を守りたかった。

 結界に圧を掛けて二人を失神させたまでは問題なかったのだが、運がいいのか悪いのか。結界を解く瞬間、雑鬼に紛れる気配を感じ驚愕した。

 真っ先に思い浮かんだのは、五年前にぷつりと消えた白い麗人だった。 
「…ほんっと……自分に腹が立つわ……あんたほどのヤツを見逃すなんてッ 平和ボケしてたのを覚ましてくれて礼を言うわよ」
「それはそれでよかったじゃないか」
 鈴音の拳が強く握り締められる。憎たらしい。舜の体を使ってなかったら叩きのめしてやるのに。
「なんでそんなに怒ってんだ? 俺はお前に怨まれる覚えはないぞ」   

 失態もいいところだ。葎になんて弁明すればいいのやら。鈴音は呼吸を整えた。

「あんた五年もの間何してたの?」

「五年も? たった五年だろ」

「私ですら長いと感じた五年だったわ。芳凛と葎ならもっと長く感じたかもね」

「………お前には関係ねーだろ」

「上等じゃないの。縛り上げて葎の前に放り出してやるから覚悟しなさい」
「ははは。確かに俺を追い出すことはできるだろうけど、捉えるのは無理だろ。咲矢じゃあるまいしお前じゃリスク高いよ? 無謀な策は講じない方が身のためだと思うけどな。ま。舜が死んでもいいってなら話は別だけど…」

 鈴音が高飛車に目を細めた。

「いいわよ。やってごらんなさいな」
「たいした自信だが、あいにくお前は勘違いしてるみたいだぞ?」
 ふんっと鈴音は鼻で笑った。
「なによ、舞に憑いた残影を見張るために仕方なく、とでも言いたいわけ? そんな綺麗ごと誰が信じるもんですか」
「なんだ知ってたのか。でも俺は俺のするべきことしに来ただけだ」
「わざわざ自分の影を潜ませて一体何をするって言うのよ。悪趣味もいいところだわ。抑えるならいっそのこと、始末してくれたらいいじゃないの」
「おいおい…それこそ勘違いだろ。俺はお前たちのためにやってるわけじゃないんだから」

 黄金色の眼光が鋭さを増した。
「じゃあ一体誰のためだって言うのよ……まさかあんた、この期に及んで芳凛のためなんて厚かましい事言うんじゃないでしょうね。そんな薄ら寒いこと言われたら、私笑いすぎで死んじゃうわ」

「まったく、相変わらず面白い奴だな、鈴音。だからお前のことは嫌いじゃない。本当は臆病なくせに強がって憎まれ口を叩くところは芳凛に似てるしな。まぁ見た目はかなり劣るが」
 最後の一言は大きくよけいだ。
「いいぜ。舜から出て行ってやるよ。そろそろ『あっち』の方も動きそうだしな。あ、そうそう…このこと芳凛たちに黙っておいてくれよ」
 くわっと目を瞠り、鈴音が怒鳴った。
「ばっかじゃないのっ!? 一目散で葎にチクってやるわよ!」
 厚かましいにもほどがある。鈴音の怒りは頂点を極めそうだった。
「え~。そこを何とか頼むよ。な、鈴音。代わりに良い事教えてやるからさ」
 舜からへつらう甘え声を聞く日がくるなんて思いもしなかった。気持ち悪いなんてもんじゃない。
「悪いけど私、安いお駄賃は受け取らない主義なの」

 ぷいっとそっぽを向く鈴音だが、
「まぁ聞けって。舜がお前を毛嫌いしてる本当の訳を知りたくないか?」

「……あんた何言ってんの?」

 そんなことわかりきったことじゃないか。
 鈴音は黙った。それは肯定を意味するものと、舜の中の者は受け取った。
「年下や女だからって事が少しと、あと残りは別の理由だ。よく思い出してみな。お前は絶対忘れてねーよ」

「え? どう言うこ――」

 台詞の途中で舜の体が前のめりに大きく揺れた。それもそのはず。今まで彼を動かしていたのは姿なき者だからだ。

 慌てて駆け寄る鈴音。舜が頭から転落するのを防いだ鈴音は、自分よりも大きな体を床に下ろすと壁に寄り掛からせて座らせた。

 二十歳の青年は、子供のように寝息を立てている。鈴音はふ…と息を吐いた。

「どうして奴なんかに…」

 鈴音は胸が締め付けらる思いがして深呼吸を繰り返しした。そして、念のためにと舜の溝内あたりに手の平を当て、体内に余計なものはいないかを探った。

(………よかった。本当に出てったみたい。でもなんで?)

 腑に落ちない。鈴音は姿なき者の残した言葉を思い返して考えた。

(そう言えば、あいつ何か変なこと言ってたわね。『あっち』の方がどうとか……やっぱり何か企んでるんだわ)

 それに。 

「絶対に忘れていないことって何よ?」

 鈴音は昏睡する舜の顔を見つめた。

(………礼を言うべきだったのかも)

 本来なら心身ともに異常をきたしている状況だった。

 舜が今無事にいるのは、姿なき者が力を無にして身を潜めていてくれたからにすぎない。舜は身の危険を冒してまで何をしたかったのだろうか。鈴音は乱れた舜の前髪を指で払った。

「どうしてそんなに私が憎いの?」

 返事はない。鈴音は舜の顔をまじまじと眺めた。

 頭の中の記憶の引き出しを一つ、また一つと慎重に開けていくが、見付からない。
(前に会ってるとか…?)
 舜が自分に向ける嫌悪は憎悪に近い。そんな感情を抱かせるくらいなら、自分も覚えているはずだと鈴音は思ったが、
「………」
 舜の襟元に目が止まる。

 鈴音は瞬きほどの短時間で体中の筋肉が強張るのを感じた。
 心の奥、ずっとずっと奥に閉じ込めたもの。
 徐々に姿を現す過去の遺物。忘れたんじゃない。それは忘れたいことだ。
「…う………そ……うそでしょ………」 
 鈴音の顔が死人のように青ざめる。
「そんなはず、ないわ」

 唇を手で覆うと涙が溢れ出る。

 洩れる嗚咽を堪え、鈴音は教室を飛び出した。
 駆ける足が重く鈍く感じた。あの日のように。

 どこへ行こうというのだろうか。逃げる場所なんてどこにもないのに。

 鈴音は夢中で走った。

 

 もっと早く、もっともっと早く走らなければ追いつかれてしまう。

  逃げなければ。
  ――何から?

 
『それは、恐怖だ』
 

 

糸倉万葉(いとくらかずは)
壊れた月が見る夢の果て~第一章:時の
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