長生きしてね

リノは、ちらっと見て、訊ねた。「なんて書いてあるの?」まだ手紙を読んでいなかった清子は、リノに手渡した。「リノ、ちょっと読んでみて」リノは、便箋を受け取り、ぼんやり文字を眺めた。しばらく、目を通していると清子が声をかけた。「声を出して読んでみて」

清子は、マテ茶パックが入ったティーポットにお湯を注ぎ、波佐見焼きの湯飲みにお茶を注ぐとリノの前に差し出した。清子も湯飲みを手にして、リノの正面に腰掛けた。リノの口が動き始めると、小さな声が流れ始めた。

 

 清子、リノ、明、おはよう。気分転換に旅に出ることにした。こっそり、家を出るのは、なんとなくスリルがあって、やみつきになった。先日は、リノのお友達と楽しい会話ができて、忘れることのできない思い出を作らせてもらった。リノにはもったいないようないいお友達がいることを知って、おじいちゃんは安心した。あんなにいいお友達ができると言うことは、リノも捨てたもんじゃないということだ。自信を持って、生きていくがいい。

 

 新太郎が亡くなって、さぞ、みんなはつらかったろう。さらに、信介との再婚もうまく行かず、きっと、つらい毎日だったと思う。リノが家出したとき、おじいちゃんは、死にたいほど悲しかった。でも、清子は、もっとつらかったに違いない。清子がやせていく姿を見ていると、再婚を勧めた自分を責めたが、どうすることもできなかった。信介の浮気が発覚したとき、清子は、家族のために自分を犠牲にしてくれた。さすが、わしの子だと感じ入った。

 リノが、戻ってきてくれたときは、嬉しくて涙が止まらなかった。リノは、猪突猛進なところはあるが、機転は利く。人には短所も長所もある。短所にこだわるのじゃなく、長所を伸ばせばいい。清子、きっと、リノは立派な女将になるさ。長い目で見てやって欲しい。明は、まだ子供だ。まったく人の気持ちがわかっとらん。でも、一つのことに打ち込む姿は、頼もしい。ギタリストになりたいようだから、旅館の跡継ぎには向かんだろう。明には、好きな道に進ませるのがいい。

 

 リノも旅館が嫌なら、跡を継ぐことはない。自分の好きな道に進むがいい。清子、平安時代から続いた旅館だが、無理して続けることはないぞ。健康で長生きできれば、それで十分だ。もし、リノが、若女将になってくれるようであれば、力を合わせて、頑張ってほしい。わしは、ぼんぼん育ちで、好き勝手なことをして、放蕩人生だった。旅館は、わしが、だめにしたようなものだ。清子は、本当によくやってくれた。

 

 わしが残したものといえば、友達だ。もし、困ったことがあれば、市会議員の篠田国男さんと糸島市商工会議所理事の鈴木秀雄さんに相談するがいい。きっと、力になってくれるはずだ。顧問弁護士の森内祐司さんに、すべての財産管理を任せている。清子がまだ知らない財産もある。お金のことで心配することはない。資金繰りのことで困ったときは、まず、顧問税理士の谷口裕也さんに相談するといい。経験豊かな仲居頭の夏木佐和子さんは、どんなときでも支えになってくれるはずだ。レジャー産業は、不景気だ。旅館がいつ潰れてもおかしくない。それは、時代の流れだ。清子のせいじゃない。

 

 重要な書類は、顧問弁護士に預けているが、書斎の書棚の引き出しに、わしの友達の一覧がある。彼らは、いいやつだ。役に立つこともあるだろう。確かに、わしがいれば、人脈は生かせるが、清子もわしに劣らず、頭の回転は、なかなのものだ。リノも清子に似たのか、無鉄砲だが、機転の利くところは、見上げたものだ。もしかしたら、清子以上の商才があるかもしれん。

 

 わしのやるべきことは、もうない。やれることは、お国のために死ぬことだけだ。若者が犬死するのに、のうのうとジジイが生きているわけにはいかん。この年で、兵隊にはなれんが、せめて、足を引っ張らないように身を引きたい。老人を減らし、若者を育てていけば、兵力は増大する。日本が目指す富国強兵のためには、若者を増やす以外にない。残念だが、これから多くの男子は、戦場で消えていくことだろう。

 

 だからこそ、日本を復興させるには、女子の強いリーダーシップが必要になる。新しい日本を作れるのは、リノ、お前たちだ。権力に侵された老人たちが作った愚かな世界を打ち壊し、共生を目指す世界を作って欲しい。老人の愚痴をべらべらとしゃべったが、しばらく、各地を歩いて、今後のことを考えてみたい。決して、わしのことを心配してはならん。誕生日には、必ず帰ってくる。それと、時々やってくる黒猫に餌をやってくれ。

 

リノは、読み終えると、のどが渇き、お茶を一気に飲み干した。「おじいちゃん、こんなこと書き残して、いい気なものね。ジジイはこれだから嫌いよ。いつもの遊びでしょ。勝手に出て行って、あ~、すまなかった。これだからね」リノは、読み終えた便箋を清子に手渡した。清子は、いつもの手紙と違っているような気がした。いつもは、もっと簡潔で、もっと、能天気な内容だった。「これって、結構マジじゃない。おじいちゃんにしては、珍しいわね」リノは、いつものことだと思い、気にしなかった。

 

 「お腹すいちゃった。朝っぱらから、こんな手紙読まされて、ほんと、気楽なジジイ」リノは、無心にご飯を口に頬張りモグモグさせて、一気に食事を済ませた。清子も、心配するのがバカらしくなり、新聞を取りに玄関に出た。歌舞伎門のところに黒猫がちょこんと顔を出していた。手紙に書かれていた黒猫だと思い、声をかけた。「クロ、クロ、おいで」黒猫は、声をかけられると、一目散に逃げ去った。

 

 515日、幸太郎の誕生日がやって来た。だが、幸太郎は帰ってこなかった。「おじいちゃん、帰ってこないね。ジジイは、これだから、嫌われるのよ。どこほっつき歩いてるのやら」玄関で朝からずっと突っ立って待っている清子の横でリノはぼやいた。「おじいちゃん、事故にあったんじゃないかしら。警察に届けようかしら」清子は、リノの返事を待った。「いつものことじゃない。きっと、あ~、すまなかった、って帰ってくるよ。ほっとけばいいのよ。世話の焼けるジジイだこと」リノが、踝を返したとき、クロネコヤマトの宅急便のトラックが30メーター先の庭の入り口に止まった。

春日信彦
作家:春日信彦
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