一巡せしもの―東海道・西国編

甲斐國[浅間神社] ( 8 / 22 )

甲斐國一之宮[浅間神社]08



浅間神社は富士山から見て真北に位置している以上、富士の鎮という役割から南を向いていても不思議ではない。

しかも浅間神社の御祭神、木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)は「富士山の精霊」。

なのに何故、富士山にソッポを向いているのだろうか?

ここから東南へ2キロほどのところに、垂仁天皇8(紀元前22)年創建と伝わる摂社の山宮神社がある。

山宮川の水源が湧く神山の麓に鎮座し、周囲を鬱蒼とした樹海で覆われた山間の古社だ。

甲斐国一之宮は本来こちらが本宮で、今の浅間神社は里宮だったという。

往時、山宮神社には木花咲耶姫命、大山祇命(オオヤマヅミノミコト)、瓊瓊杵命(ニニギノミコト)の神様三柱が祀られていた。

木花咲耶姫命は大山祇命の娘であり、瓊瓊杵命の后。

三柱が一緒に祀られていたのは至極当然の話といえる。

それが貞観7(865)年12月、木花咲耶姫命だけを里宮である今の浅間神社に遷座した。

このため山宮神社には今でも大山祇命と瓊瓊杵命の二柱しか祀られていない“やもめ”状態。

ならば、なぜ木花咲耶姫命だけが里宮に遷座されたのか? 

その原因は前(貞観6)年に発生した富士山の大噴火にある。

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甲斐國一之宮[浅間神社]09



現在の鎮座地一体はヤマト王権における甲斐国“地方政府”の中心部だった。

ここより西方、石和温泉の近くには「国府」、山梨県立博物館の近くには「国衙」という地名がある。

また、ここから南西に向かえば甲斐国の国分寺と国分尼寺の跡が残る。

ヤマト王権から「富士の怒りを鎮めよ」との司令を受けた甲斐国司は、山宮神社から“富士山の精霊”木花咲耶姫命だけを“抜擢”して国衙の中枢に据えた。

しかし山宮神社は主祭神が“山の神”大山祇命であり、本来は富士山だけでなく“山”そのものを祀った神社。

地元の人たちは神社が分割されることに、どうしても納得がいかなかったに違いない。

その腹いせに新たな社殿を建立する際、正面を富士山ではなく山宮神社の方角へ向けたのではなかろうか?

そんなことを想像するうち、木花咲耶姫命と父・大山祇命、夫・瓊瓊杵命…役人に引き裂かれた家族の絆が、社殿の配置から透けて見えるような気がしてきた。

さて、お参りしようと足を向けかけた時、紫色の服を着たお姉さんがタッタッタッと駆けてきて、拝殿の前で深々とお辞儀をして参拝を始めた。

できれば参拝は一人で行いたい質だけに、出鼻を挫かれた気がして、仕方なく境内を散策することにした。

境内はこじんまりとしていて、ゴテゴテとした建造物もなくスッキリとした印象。

鹿島神宮や香取神宮のように森林で囲まれているわけではないが、周囲が果樹園だけに風の通りがいいようだ。

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甲斐國一之宮[浅間神社]10



境内の東側には遊具が設えられ、ちょっとした公園のようになっている。

そこに並ぶ歌碑や詩碑の中に明治維新の元勲、三条実美の歌碑を見つけた。

NHK大河ドラマ「八重の桜」では長州派の公家として悪役っぽく描かれていた三条公。

この歌碑を建立した明治21(1888)年3月から約2年後の同24(1891)年2月18日に薨去した。

これは武田信玄が奉納した短歌を後世に残すことを目的に、三条公が建立したもの。

うつし植る初瀬の花のしらゆふを
かけてそ祈る神のまにまに

この短歌をしたためた信玄公自詠の短冊は、笛吹市の有形文化財書跡に指定されている。

また、ここには第百五代後奈良天皇の御宸翰「般若心経」一軸が収められている。

後奈良天皇から下賜された信玄公が直筆の包装紙を添えて奉納したもので、国の重要文化財に指定されている。

さらに、信玄公は起請文(嘘偽りのないことを神仏に誓う文書)にも「一宮」という文言を多用していたそうだ。

貞観大噴火で木花咲耶姫命を祀った神社を新たに建立することになった際、甲斐国内の各所に浅間社が幾つか誕生した。

甚大な天災だったことは想像に難くないし、鎮めのために神社を数多く建立することも不自然ではない。

このため、他にも「甲斐国一之宮」を名乗る浅間神社が幾つかあり、どこが真の一之宮なのか今でも議論が続いている。

とはいえ、ここまで信玄公から篤く崇拝されていたことを考えれば、ここの浅間神社が真の甲斐国一之宮のようにも思えてくる。

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甲斐國一之宮[浅間神社]11



境内をフラフラと彷徨っているうち、東南の隅まで行き着いてしまった。

そこには「陰陽石」が祀られていた。

「陰陽石」とは男女の生殖器の形をした石のことで、男根の形を陽石、女陰の形を陰石という。

全国各地に陰陽石は鎮座しているが、浅間神社のそれは小規模なほうだろうか。

安房国一之宮洲崎神社のところでも述べたが、西洋キリスト教文明に毒された昨今の日本は、「男根」「女陰」と目にすれば即座に「ポルノグラフィ」が連想される下衆な社会に堕してしまった。

しかし、陰陽道に支配された往古の日本社会に於いて「陰陽和合」は万物生成の源。

「男根」「女陰」の形状をした石が御神体として崇められるのは自然なことだった。

とりわけ木花咲耶姫命は民間信仰の「子安神」と直結し、子授けや安産、育児などの神として広く信仰されている。

いつまでたっても子供が産まれず、嫁ぎ先で肩身の狭い思いをしている女性にとっては今も昔も頼りになる“女神”。

この陰陽石もまた、昔から子宝に恵まれる日を待ちわびる夫婦から篤く信仰されてきたに違いない。

10分近くウロウロしたろうか? 

拝殿に戻ってみると、先ほどの“紫の君”がまだ両手を合わせて深々と拝礼している。

(まったく、いつまで拝んでんだよ!)と、少々立腹したものの。

逆に(そこまで神様に頼み込む必要があるなんて並大抵の厄介事ではあるまい)とも思えてくる。
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作家:経堂 薫
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