記憶の森 第三部

4・アンヌの祈り2

アンヌは風呂から上がりその雫を拭き取ると
白いコットンのスリープドレスに袖を通した。
長い髪を丹念に乾かすように拭き取った。
バスタオルを頭に巻いて自分の部屋に戻ろうとすると
暗がりにジョディー先生の姿が見えた。
「マリアは寝付いたわ。」
ジョディー先生は皆を起こさぬよう小さな声で囁いた。
頷いたアンヌの手をジョディー先生はしっかりと握った。
そして耳元に囁いた。
「貴方はまだ若いのよ。自分を大切にね!
それから祈りを忘れぬよう・・・」
ジョディー先生はそれだけ大急ぎで言うと暗がりに消えた。

風呂上りのこの時間いつもアンヌは祈りを捧げる。
それは習慣となっていてアンヌはそれに疑問を感じたことは無かった。
このケルトの国では神を中心に
それを支える天使、妖精などの存在が昔から信じられていた。
アンヌは神に天使に妖精達に子供達の幸せを祈る。
ここの子供達はアンヌにとっては家族同然である。
そして、天使や妖精達と同様にこの国の歴史を作ってきた
先人に対しても敬意を払うのがこの国の習わしだった。
アンヌは跪き祈る。
「神とそれを支え救いたもう者達に幸あれ!」
それはアンヌにずっと根付いてきた思いだった。
誰に教えられた訳でも無かったが、
祈りを捧げる時アンヌはこの言葉を口ずさんでいた。

この国にも悲しい過去の歴史があった。
およそ二百年程前のこと・・・
ケルトと海を挟んだイベリア国との間で戦争があった。
砂漠が大半を占めるイベリアの当時の国王は
貿易の要とも言えるケルトの海岸地帯を占領しようと
兵を進めたのだった。
その当時水の都べナールという東の海岸地帯に
ケルトの聖地というべきクリスタルの社があった。
そこには神もしくは天使の声を聞く巫女とでもいうべき者達がいた。
それはこの国の神聖を現す存在だった。
巫女達はこぞって戦争に反対の意を示し続けていたのだが、
ケルトを守る!という国王国民の意思は固く、
自国を守る為にケルトの国は戦争を選んだ。
数百人は居たという巫女達は嘆き悲しんで、
異国に放浪し、散りじりになっていったという伝承が残っていた。

かつては神聖な地域で、一般の者は立ち入れなかった
そのべナールの社も今では歴史の遺跡となって
多くの者達に開放されていた。
結局その長い戦争はお互いの国を疲弊させただけで終わり、
十年もの長い戦争には和解条約が結ばれ終わりを向かえた。
アンヌも何度かその社を訪れたことがあった。
それは何か神聖で霊的なものを感じさせる存在であった。
(明日、べナールの社を訪れてみよう)
アンヌは自分を導いてくれる存在を信じていた。

5・べナールへ

アンヌは次の朝早く起きた。
まだ夜明け前だった。
ケルトの港の端にべナールの社に向かう
ゴンドラの船着場がある。
アンヌは何度か社を訪れたことがあったが、
いつも子供達と一緒で、
朝日に照らされるべナールの社を見たことが無かった。
丁度日の出の方角に合わせて建てられたその社は、
朝日に照らされるとクリスタルの社全体が輝き、
それは美しいのだと人々の語り草になっていた。
そんなこともあり、夜明け前に朝一番のゴンドラは出航する。
アンヌはジョディー先生に置手紙をした。
朝のべナールを見に出かけます・・・そんな簡単な手紙。
ゴンドラの出る港の船着場までは、
歩いて三十分位は掛かるだろう。
アンヌは簡単に髪をまとめ、
お気に入りのドレスに身を包み、
その上にケープを羽織ると急いで孤児院を後にした。
まだ暗い川沿いの道を黙々と足早に歩いた。
二十分位は歩いただろうか、
少し勾配のついた港を見下ろせる場所まで来ると、
暗闇に灯台と船の灯りが見えた。
アンヌはその灯りを頼りに歩みを進めた。

べナールの社まではケルトの港から
ゴンドラで十五分位である。
もう、夜明けは近い・・・アンヌの心は急いていた。
(何かが、私を待っているような気がする・・・)
それは不思議な気持ちだった。
その何かに導かれるようにアンヌは踊る心を抑えて歩いた。
置手紙をして出掛けるなんて
普段のアンヌらしからぬ行動だった。
それ程にアンヌは子供達の世話、孤児院での仕事に
毎日縛られていた。
船着場まで来ると沢山の乗客が期待を胸に並んでいた。
前の方の人はもうゴンドラに乗り込み始めていた。
「今日は雲も少なく美しいべナールが拝めるだろう。」
そんな会話も耳にした。
アンヌの心は弾んだ。
隣の人と袖擦りあう程のゴンドラに乗り込んだ。


6・出会い

アンヌは船に乗り込んでいた。
まだ陽が明けぬ海上を進むのは不思議な気分だった。
大きめのゴンドラだが、
人が沢山乗っていて頼りないようにも思えた。
ゴンドラは波を受けながらゆっくりと進んだ。
「あと10分もすればべナールに着きますよ!。」
船の船頭さんはオールをこぐ手を休めてお客様達に言った。
べナールは港から東の飛び出た小さな岬の先端にある。
その灯りが船から見えた。
まだ暗い海からの訪問者達を迎える為に
べナールの岸辺では松明がたかれているようだった。
「まあ、私達を出迎えているわ。」
どこからかそんなご婦人の声もした。
アンヌはワクワクしていた。
この喜びを誰かに伝えたかったがアンヌはここでは独りだった。

(ああ、私、神様を信じているわ。天使達も・・・)
神聖なべナールの地をアンヌは特別に思っていた。
自分の運命を神に預けている・・・
自分でも何故だか分からないけれど、
アンヌは一人で祈る時よりも神様の存在を強く感じた。
それはアンヌに湧き上がった自分でも説明のつかない思いだった。

べナールの岸はあっという間に目の前に近づいた。
クリスタルの社は思ったより大きく
松明に照らされてその姿を現した。
ゴンドラに乗り込んでいたお客から歓声が沸きあがった。
「凄いな興奮してきた。」男性の声が聞こえた。
あとは声にならぬ感嘆のため息が聞こえ、
アンヌもその社の姿に感動していた。
子供達と訪れた時とはまた違うべナールの姿だった。

べナールの社が建てられているその岬は
すぐ後ろは断崖で崖が切り立っていた。
その為べナールに向かうには水路しかないのだ。

船はべナールの岸辺に滑り込んだ。
べナールの社の中まで水路があり、
船はその水路を進んだ。
灯りの点けられた社の天井が高く聳え立ち、
至る所に天使達の彫像が見えた。
その全てがクリスタルなのだ。
アンヌと観客者達は見とれた。
船は奥の船着場に着くとその船首を頑丈なロープで
船着場の船止めに結わかれた。

「さあ、では皆さん!前の方からゆっくり立ち上がって下さい。
 後ろの方はちょっと待っていて下さい。
 バランスを崩しますから・・・。」
船頭さんの説明に前の人達がゆっくり立ち上がった。
一人づつ船を下りていく。
アンヌの順番が来た。恐るおそる立ち上がると、
後ろの方の人が待ちきれなかったのか立ち上がった。
船が大きく揺れた。
アンヌは倒れそうになり、手が何かを掴もうとして空を舞った。
その時、アンヌの肩をがっちりと掴んでくれる手があった。
「お嬢さん、気をつけて。」
アンヌが振り返ると落ち着いたツイードの服を着た紳士が
微笑んでいた。
「あ、ありがとう御座います。助かりました。」
アンヌは紳士に促され、前に進み無事に船を降りたのだった。

7・社の中

アンヌは紳士とともに水路の脇の回廊を歩いた。
回廊はろうそくが等間隔に壁際に並んでいて、
歩くのには不自由ではなかったが少しだけ暗かった。
揺らめくろうそくの炎に照らされた総クリスタルの回廊は
神秘的だった。聖地に来たのだという感慨を持って、
アンヌは歩いた。
時々、紳士の横顔を見上げた。
彼はもう四十台近いだろうか・・・
無駄をそぎ落としたような華奢な輪郭の顔、
そして、歳のせいではないだろう銀髪、
何故だろう?眺めていると何か懐かしい感じがした。
視線を感じたのか紳士はアンヌに笑みをよこした。
アンヌも気が付くと自然に微笑んでいた。

他の観光客達も一緒だったが、
皆思い思いに見入ったり、
ご来光を見るのが目当てだからのんびりしていた。
船頭さんの話ではまだ陽が上がるまで三十分位はあるそうだ。
「陽が少し上がってからの社の中も素晴らしいので、
必ず見て帰ってくださいね。」と船頭さんが言っていた。

二人はゆっくりと歩きながら、
ぽつりぽつりとごく自然に会話をした。
「ここに来るのは初めて?」
そんな紳士のさりげない言葉から
会話は観光をはさんで進んだ。
アンヌは何度か訪れたことを話し、自己紹介をした。
紳士はアルフと名を告げ、
ケルトの製本工場で本を作る仕事をしている事を告げた。
ケルトは天使や妖精などの言い伝えでも有名だったが、
別名紙の街として世界中に知られているのだ。
そして紳士は「よろしく。」と言ってアンヌに手を差し出した。
アンヌは自然と手を差し出した。
握手を交わすとアルフと目が合った。
グレーの瞳に吸い込まれそうで、
アンヌは少しだけドギマギしたが、
アルフが微笑んでいたので、つられて微笑んだ。
ぽつぽつとアンヌは孤児院で子供達の世話をしている事などを
アルフに語った。
彼はその言葉を頷きながら静かに聞いた。

天使と妖精達が囁き合うかのような
クリスタルの彫像の前でアンヌは足を止めた。
以前来た時にも見とれたのだが、つい見とれてしまう。
「素敵!」アンヌはため息をついて大きな彫像を見上げた。
「そうだね。僕は初めて見た。」
「まあ、そうだったの。」
彼は余りおしゃべりな方では無かった。
でもアンヌの言葉を静かに受けとめてくれて、
アンヌには話しやすかった。

奥へと回廊を進み続けると、
小さな小部屋がいくつもあった。
今はがらんとした空間だが、
かつては巫女達がここで暮らしていたのだという。
無数に並んだ小部屋を通りすぎていくと、
広い回廊に出た。奥に大広間が見える。
回廊にも赤々とろうそくの灯りがともされ、
至る所にある天使や妖精の像を照らし出していて
神秘的であった。
アンヌはアルフと共にゆっくりと歩いた。
クリスタルのひんやりとした感触が足元から伝わってきた。

haru
作家:haru
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