孤島の天才

 ゆう子の心は、曇り空だった。勇樹がいなくなった今、自分の夢が見えなくなっていたからだ。もう一度、オリンピックを目指すべきか、最近悩むようになっていた。ゆう子は、うつむいてマンゴーをかじっていた。横目でチラッとゆう子を見た陽子は、ポンと両手を合わせると、二階にかけていった。しばらくして、ゆう子のために去年から飼いはじめたチワワを抱えて下りて来た。「ほら、可愛いでしょ。ファイトって言うの」みんなは、ファイトに駆け寄っていった。

 

争奪戦

 

 コーチは、出会うたびに何度か勇樹に声をかけたが、勇樹は、顔を立てには振らなかった。最近では、ちょっとでもコーチの姿が見えると、勇樹は即座に踝を返し、逃げ去っていた。中村監督は、コーチの執拗さにあきれていた。なぜ、そこまで勇樹を必要とするのか意味が分からなかった。たとえ、ボールにスピードがあっても、野球をやったことがないものが、一年やそこらで、ストライクが取れるようになるとは到底信じられなかったからだ。

 

 練習試合が始まると、コーチはいつものように監督にぼやき始めた。「監督、どうとかならんもんですか。とにかく、もったいない。勇樹は、ものになる。私の目には狂いはありません。ウ~」監督は、またかと苦虫をかんだような顔で返事した。「コーチ、気持ちは分かりますが、ボールが速いだけじゃ、使えない。ストライクが取れるようになるには、一年やそこらではむりじゃないですか。しかも、野球をまともにやったこともないド素人じゃ」いつものように、否定的意見を述べた。

 コーチは、いつものように反論した。「確かに、一般論はそうでしょう。でも、勇樹は、天才じゃないでしょうか?数学の天才は、野球の天才でもあるかもしれません。彼の、筋力は、日本人離れしてます。彼は、ハーフじゃないですかね~。とにかく、筋肉が違いますよ。手足も長いし、指も長い。何と言っても、性格が強そうじゃないですか。きっと、プッレシャーに強いと思います。監督は、どう思います?」コーチは、勇樹を天才扱いした。

 

 監督は、腕組みをして、コントロールの悪い2年生の山本に大きな声で罵声を浴びせた。「バカヤロー、そんなんじゃ、初戦、敗退だぞ。気合入れてやれ」コーチも今のままでは、初戦敗退と予測していた。あまりにもピッチャーが悪すぎた。それかと言って、一年生にこれと言った素質のあるピッチャーはいなかった。コーチは、少なくとも県大会には出場したかった。

 

 球団からは、モンスターだけ育てるよう指示を受けていたが、コーチをやっていると、どうしても甲子園に行きたくなってしまった。「勇樹が投げてくれれば、甲子園も夢じゃないんだが。勇樹のやつ」監督は、大声で笑った。「コーチ、甲子園より、初戦突破だよ。勇樹のことは、さっさと忘れて、今のチームを鍛えなければ。モンスターの一発が、ここ一番で出るといいのだが」監督は、モンスターのホームランに期待していた。

 コーチは、平然とした顔で答えた。「監督、モンスターの一発は、間違いありません。でも、モンスターが一点取っても、試合は負けです。あんなピッチャーじゃ、5点は覚悟しなきゃならんでしょうな」監督も、目じりを下げて、頷いた。「でも、現実は、今の力で戦わなければなりません。しかし、ピッチャーが欲しいもんですな」監督の本心は、一点で抑えられるピッチャーが欲しかった。心の底では、勇樹がエースとなり、県大会に出場できないかと思ってみたが、そんな馬鹿な、と顔を激しく振り、妄想を振り払った。

 

 コーチは、監督の気持ちが痛いほど分かっていた。高校の監督で甲子園に出なくてもいいなどと思っている監督は一人もいない。どの監督も、一生に一度は出たいと思っている。コーチは、監督の横顔を見つめ、気合のこもった声で、叫んだ。「任してください。必ず、勇樹を連れてきます」監督は、もしかすると思っては見たが、顔をしかめただけだった。今年も、初戦敗退か、と心でつぶやき、寂しそうに腰を上げた。

 

 コーチは、殺風景な自宅のマンションに帰り、缶ビールを一本飲み干すと、6畳間の畳の真ん中で座禅を組んだ。静かに心を落ち着け、名案が浮かぶのをじっと待った。30分ほどすると、スマホが鳴った。東京にいる娘の真白からのメールだった。「お父さん、ちゃんとご飯食べてる?田舎は、いいでしょ。お父さんには、ぴったりじゃない。おいしい空気をたくさん吸って、元気で帰ってきてよ」コーチは、読み終えると、ひらめいた。

 彼女だ。そうだ、バカだな~、こんなことに気付かないとは。コーチは、心でつぶやいた。勇樹は、部活の写真を撮っては、大島の写真をネットに流している。つまり、勇樹も大島のファン。大島が、頼めばきっと入部するのでは。だが、大島がそんなことを引き受けてくれるだろうか、と思いが行き詰った。大島は、先輩だし、勇樹とは話したこともないはず。どうすれば・・コーチはしばらく座禅のまま考え込んだ。

 

 コーチは、勇樹のことを考え続けた。ところが、勇樹のことを何にも知らないことに気付いた。強引な勧誘のことばかり考え、勇樹の両親のことも、交友関係も、本人の夢も知らなかった。拳骨を作ると、頭をゴツンと叩いた。コーチは、自分のおろかさに始めて気付いた。コーチは、プロしか育成したことがなかった。つまり、技術的指導はやったことがあったが、選手の心を育成したことがなかった。

 

 どんなに身体的能力があっても、野球への情熱がなければ、野球をやることも試合で勝つこともできないことに改めて気付かされた。まったく、当然のことであったが、そのことをいつの間にか忘れていた。高校生のコーチとしては、失格であることに気付き、全身の力が抜け落ちた。コーチは、思いをめぐらした。監督は、一人で、舞い上がっている自分を笑っていたに違いない。この子達はプロじゃない、素質のない野球少年に過ぎないと。まして、勇樹は野球少年でもなく、野球に情熱を持ってもいないと。

春日信彦
作家:春日信彦
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