孤島の天才

 コーチは、平然とした顔で答えた。「監督、モンスターの一発は、間違いありません。でも、モンスターが一点取っても、試合は負けです。あんなピッチャーじゃ、5点は覚悟しなきゃならんでしょうな」監督も、目じりを下げて、頷いた。「でも、現実は、今の力で戦わなければなりません。しかし、ピッチャーが欲しいもんですな」監督の本心は、一点で抑えられるピッチャーが欲しかった。心の底では、勇樹がエースとなり、県大会に出場できないかと思ってみたが、そんな馬鹿な、と顔を激しく振り、妄想を振り払った。

 

 コーチは、監督の気持ちが痛いほど分かっていた。高校の監督で甲子園に出なくてもいいなどと思っている監督は一人もいない。どの監督も、一生に一度は出たいと思っている。コーチは、監督の横顔を見つめ、気合のこもった声で、叫んだ。「任してください。必ず、勇樹を連れてきます」監督は、もしかすると思っては見たが、顔をしかめただけだった。今年も、初戦敗退か、と心でつぶやき、寂しそうに腰を上げた。

 

 コーチは、殺風景な自宅のマンションに帰り、缶ビールを一本飲み干すと、6畳間の畳の真ん中で座禅を組んだ。静かに心を落ち着け、名案が浮かぶのをじっと待った。30分ほどすると、スマホが鳴った。東京にいる娘の真白からのメールだった。「お父さん、ちゃんとご飯食べてる?田舎は、いいでしょ。お父さんには、ぴったりじゃない。おいしい空気をたくさん吸って、元気で帰ってきてよ」コーチは、読み終えると、ひらめいた。

 彼女だ。そうだ、バカだな~、こんなことに気付かないとは。コーチは、心でつぶやいた。勇樹は、部活の写真を撮っては、大島の写真をネットに流している。つまり、勇樹も大島のファン。大島が、頼めばきっと入部するのでは。だが、大島がそんなことを引き受けてくれるだろうか、と思いが行き詰った。大島は、先輩だし、勇樹とは話したこともないはず。どうすれば・・コーチはしばらく座禅のまま考え込んだ。

 

 コーチは、勇樹のことを考え続けた。ところが、勇樹のことを何にも知らないことに気付いた。強引な勧誘のことばかり考え、勇樹の両親のことも、交友関係も、本人の夢も知らなかった。拳骨を作ると、頭をゴツンと叩いた。コーチは、自分のおろかさに始めて気付いた。コーチは、プロしか育成したことがなかった。つまり、技術的指導はやったことがあったが、選手の心を育成したことがなかった。

 

 どんなに身体的能力があっても、野球への情熱がなければ、野球をやることも試合で勝つこともできないことに改めて気付かされた。まったく、当然のことであったが、そのことをいつの間にか忘れていた。高校生のコーチとしては、失格であることに気付き、全身の力が抜け落ちた。コーチは、思いをめぐらした。監督は、一人で、舞い上がっている自分を笑っていたに違いない。この子達はプロじゃない、素質のない野球少年に過ぎないと。まして、勇樹は野球少年でもなく、野球に情熱を持ってもいないと。

 プロ野球選手として名声を得たことで傲慢になっていたコーチは、監督に謝ることにした。翌日、監督に椅子を差し出し、改まって話しをした。「監督、まったくおろかでした。気を悪くされていたでしょう。私は、プロしかコーチしたことがなく、アマチュアは初めてです。思い上がっていました。何と言っていいか。お恥ずかしい限りです」コーチは、監督に頭を下げた。監督は、まさか頭を下げるとは、夢にも思っていなかった。

 

 確かに、コーチにはムカついていた。プロを気取っている姿が鼻について、嫌気を差していたが、モンスターの存在は大きく、じっと我慢していた。心では、いつもぶつぶつささやいていた。素質のない子供たちを育成することは、プロを教えるより何倍も大変なんだと。今にも辞めようとしている選手もいれば、甲子園に出たいと願っている生徒もいる。こんな子供達を、引っ張っていくことがどんなに大変なことか。

 

 監督は、コーチのすごさに感服した。プロにしか教えたことがないコーチが、こんなに短期間で、アマチュアを教えることにおいて自分の未熟さを自覚されたことに。「頭を上げてください。こんな田舎侍に頭を下げられては、天下のY球団に申し訳ありません。スーパースラッガーをこんな無名の高校に送り込んでいただき、感謝しております。ただ、剛士のことはあきらめましょう。彼には、彼の夢があるはずです。それでいいじゃないですか」監督は、今の弱小チームを鍛えることに生きがいを感じていた。

 コーチは、晴れ渡った青空に流れる真っ白い雲を眺めていた。カーンと響き渡る快音を聞くとつぶやいた。「ごもっとも、どうかしてました。でも、妖精が一言お願いしてくれたら、入部してくれたかもしれないと思うと、残念ですな」監督は、妖精と聞いて、いったい誰のことを言っているのだろうと訊ねた。「妖精って、誰のことですか?」眉間にしわを寄せて訊ねた監督に、コーチは冗談のように答えた。

 

 「いや、ほら、わが校のアイドルですよ。大島のことです」監督は、大島と聞いて、顔が引きつった。昨年、急死した勇樹のことを思い出したからだ。暗い顔をした監督を見たコーチは、何か悪いことでも行ったのかと不安になった。「監督、冗談ですよ。ワハハハ」コーチは、立ち上がり、モンスターに声をかけた。「おい、調子が悪いのか。ボールを振ってどうする」セカンドフライを打ったモンスターにムカついて怒鳴った。

 

 三年経つとモンスターと共に去っていくコーチに親しみが湧かなかったが、心の温かさを感じた監督は、大島のことを話す気になった。「大島だが、みんなからちやほやされて、何の悩みもないように見えるけど、誰にも言えない深い傷を抱えて頑張っているんです」コーチは、ちょっと暗い話にどのように返事していいか戸惑った。「私は、今年の4月にやって来たばかりだから、この学校のことはよく分からないんだ。大島に何かあったんですか?」コーチは、腰掛け、監督の横顔をそっと見つめた。

 

春日信彦
作家:春日信彦
孤島の天才
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