地下鉄のない街82 男らしさ
「Tは根が単純で分かりやすいやつでした。彼の考え方や行動の価値基準は一言でいうと"男らしさ"ってことに尽きるんです」
少しうんざり顔で皆川君はベッドの白いシーツをポンと叩いた。
「粗暴な不良の男らしさ…ね」
春日井先生も苦笑する。皆川君の気持ちがその一言で十分に伝わったようだった。
「Tが教室で何かというと大きな声を出したり乱暴な言葉を使ったり女の子に嫌がらせをするのも、彼にとっては男らしさということみたいだったんです」
今度はため息混じりだ。
「なんかそのMさんと衝突しそうね」
「まさにそういうことが起きたんです。僕はその場にいなかったんですが、Mさんは何かのきっかけでTのそういう態度に腹を据えかねて、Tのやってることの愚かしさを教室のみんなの前で延々と叩きのめしたらしいです。しかもかわいく…」
「かわいく叩きのめした…」
春日井先生が大きな声で笑いそうになるのをこらえながら頷く。
「先生分かるでしょ、その光景が。あのTがあのMさんに…かわいく…」
皆川君はつられて笑いが止まらない。
「それでT君は?」
激しく頷きながら先生がフチなしのメガネを外してまなじりを抑えた。笑いすぎて涙がでたらしい。
「逆上したTは、じゃあこのクラスで一番男らしいのは誰だって詰め寄ったらしいんです」
「そっか、そうきたか…。」
笑いにため息が混じり、やっと先生の笑が落ち着いてきた。
「はい。Tは『Kみたいなのが男らしいっていうのか』ってMさんに詰め寄ったらしいです。」
「う~ん。K君に決闘でも申し込みかねないわね」
「はい。でも最初は取り合わなかったMさんだったんですが、逆上したTがあまりにもしつこかったんで名前を言ったんですが…」
「K君ではなかったのね」
「はい」
「皆川君だった」
「そこにいた全員が驚いたそうです。僕にはそれが目に浮かびます。先生はさっき僕のことを好意的に言ってくれましたけど、少なくとも"男らしさ"っていうのはまるでなかったと思います。Mさんの感受性だと当然Tを男らしいと思うことはあり得なさそうですが、思う対象はやっぱり僕じゃなくてKのはずだと思います」
けれんみもなく言った皆川君に先生は軽く頷く。
「それが我慢ならなくて、皆川君にわざわざ言いにきたんだ」
「はい。よりによってMさんに好意を寄せてるKがいる前でです。『俺は男らしいっていうのがKなら俺のライバルだから許せるけど、男らしいのがお前っていうのは納得がいかない』と…」
「ライバル…」
今度は春日井先生はおでこに手をやってはっきりため息をついた。
「うん。それで?」
「TはMさんに多分しつこく、『だったらお前は皆川のことが好きなのか』とか問い詰めたんだと思うんです。Mさんがはっきりと皆川君が好きだと言ったTに言ったそうです。Mさんとしては、しつこいTとの話を打ち切るために話を合わせたんじゃないかと」
「実際はどうだったのかしら」
「あまりにもうるさかったのでついにKが『じゃあ、これから三人でMさんのところに確かめに行こう』と言いました」
皆川君の表情にかすかに苦渋の色がにじむのを春日井先生はちらっと見たあと、視線をそらした。
「内心気が気じゃなかったかな、K君」
「はい・・・多分。ややこしいことになりました」
「コーヒーいただいていいかな」
「あ、どうぞ」
春日井先生はベッドの脇ある、来客用の白いソーサーに乗ったカップにインスタントコーヒーをサラサラと入れてお湯を注いだ。
地下鉄のない街83 Mさんと春日井先生の魂の交錯
「はいどうぞ」
二人分のインスタントコーヒーを淹れた春日井先生は、皆川君のマイマグカップをベッドの枕元付近においた。
「ありがとうございます」
ぺこりとお辞儀をした皆川君は先生に淹れてもらったコーヒーを両手で抱え、楽しそうにふぅっと湯気を飛ばした。その仕草はまるで小さい子供が風車ふぅっと回しているようにも見えて、僕は春日井先生と一緒にいて心底心を開いている皆川君をうらやましいと思った。
先生はソーサーを手に持って窓際に行き、少し広い桟(さん)にカップを置き、その横のあいた桟のスペースに浅く座るようにお尻をつけてベッドの方を向いた。
「でもさ、Mさん困っちゃうよね。確かめにいくって言ってもさ。何を確かめるつもりだったの?」
先生も唇をすぼめてコーヒーの湯気を飛ばした。シャボン玉をそっと吹くように少し唇を突き出して吐息をはく先生はとても魅力的だった。
「それなんですよね。要するにTにとっては皆川が男らしいってどういう意味なんだと、もう一回確かめたかったんだと思います。Kにとっては、本当に皆川のことを好きなのかってことを確かめたかった」
「T君はそうね、男らしいのは俺だろって。K君は好きなのは自分じゃなくて皆川なのか?そんなところかしら。皆川君は?」
「僕ですか…。僕は」
マグカップを見つめながら皆川君は当時を思い出しているようだった。
「僕はたぶん、Mさんのことがもっと知りたかった」
「彼女の聖域、サンクチュアリの正体を確かめたかった?」
「きっとそうだと思います」
先生は「そう」と小さく言って窓の外を観た。窓に映った先生はあのもう一人の先生のように見えた。
「それでどうなったの?」
僕の見えるところからは先生の後ろ姿しか見えなかったけど、窓に映った先生が皆川君に話しかける表情がよく観て取れた。皆川君の位置からは先生の横顔が見えるはずだったけど、皆川君はベッドの背もたれに体を預けて正面を観ながら静かに話している。恋人同士の静かなおしゃべりようにも見えてそれよりももっと深い、浮遊した魂と魂が邂逅しているようだった。風車を回した息とシャボン玉を膨らませた息が溶け合って見えた。
「嘘つき」
ぼんやり異次元の二人の世界を眺めていた僕の耳に、突然皆川君の違和感のある言葉が聞こえた。
僕はハッとして、春日井先生と皆川君の会話の内容把握しようとした。
「Mさんが皆川君にそう言ったの?」
「はい。僕が『男らしいのはKの方だろ、僕はまともに自己主張すらできない人間なんだ』ってMさんに言った時です。僕にだけでなく、Mさんはそう言ったあと僕、K、T、三人をそれぞれじっと見つめました。三人それぞれ嘘つきだっていうことだったんですね。三人とも確かに嘘をついていたのかも知れません」
「うーん・・・。なるほど・・・ね」
先生は何かを真剣に考える時の癖の、両手を小さく組んで右手を顎の付近に持ってく仕草をした。
「僕はいわゆる男らしくありたいと心の何処かで思っているのに、そんこと思ってもみないというふりをしてる嘘。Tは男らしさを無理して過剰に演じようとしている嘘。そしてKは自分のMさんに対する好きだっていう気持ちに対する嘘…かな」
「Mさんがそう言ったの?」
「いえ、Mさんは僕たちそれぞれを見て『嘘つき』って言っただけです。冷たい言い方じゃなかった。どうして、嘘なんかついちゃうの?っていう切なそうな眼でした。嘘つくから世の中も自分たちもややこしくなるんだよっていうような…。僕たちの心の中の一番人には見られたくない、でもどこかでずっと誰かに観て欲しいと思ってるような部分にすっと光を当てられたような気持ちだったと思います。少なくとも僕はそうでしたし、TもKもそうだったと思います。」
「そっか」
春日井先生は顎に当てた手をきゅっと結ぶ。
春日井先生はカップに残った最後のコーヒーを窓に向かったまま飲み干すとそのまましばらく真っ暗の外を眺めていた。Mさんの言葉の意味を考えているようだった。先生がポニーテールを留めていたシュシュを解いて深呼吸した。
「本当の自分を出しなさいということか…な。Mさんの言っていることは正しいのだろうけど、たぶんそれは恐ろしいことでもあるわね」
Mさんの魂が春日井先生の魂と交錯し、先生に何かを吹き込んだように見えた。ポニーテールでついたくせを右手の手ぐしでなおしながらこちらを振り返った春日井先生は、あのもう一人の人だった。先生が消えて一人の女の人がそこにいた。
皆川君はそれにはまだ気がつかず、正面を向いて話を続けた。
「次の日から三人ともそれぞれ変わりました」
「どう変わったの?」
「Tは男らしさの追求をやめておとなしくなりました」
「そう」
「僕はいっそう人から目立たなくなるように、Mさんの言葉を借りればいっそう嘘つきになりました」
「そっか。K君は?」
「Mさんと付き合うようになりました。それと・・・Kは…僕を激しくいじめるようになりました」
皆川君はマグカップを両手で抱えてうなだれた。
「そう」
春日井先生は艶やかに唇を小さく動かしただけだった。
Mさんのサンクチュアリが春日井先生の何かを覚醒させようとしているようで、僕は恐ろしくなった。
地下鉄のない街87 Mさんの知っていたこと
「K君の様子は分かった。ところでT君のその後は?」
自分のコーヒーカップを見つめながら春日井先生はそっとつぶやいた。先生の目は静かにコーヒーカップのコーヒーを射抜いて、皆川君の話す転校前の学校の風景を観ているようだった。
「それが不思議なことが起きたんです」
皆川君は反対にマグカップを握ってうつむいていた顔を春日井先生の方に向けた。まるで、実際に体験した皆川君よりも、話を聞いている春日井先生の方がその時の様子の本質を知っているかのようだった。
「T君はあまり暴力的じゃなくなったのよね」
「はい。そしてクラスの仕切り屋になりました。Kの代わりに」
僕は話の展開に驚いた。皆川君の口から語られる粗暴なイメージのTに、天才的にその場の空気をコントロールできるKの代わりが務まるとは思えなかったからだ。
「できたの?」
僕と同じ疑問を春日井先生も皆川君に問い質した。
「それが驚くべきことにできちゃったんです。Kとは違ったやり方なんですけど、Tなりのやり方で」
春日井先生は何か考えているようだった。
「…ねえ、そういうK君やT君が仕切っている時、皆川君はどうしてるの?」
「え?僕ですか?…」
突然話を自分のことに振られて一瞬戸惑った皆川君は少し首をかしげて必死に自分のその時の様子を思い出しているようだった。
「そうですね…。Kの時もTの時もKやTが僕に話を振ってくるので受け答えに精一杯でした。そういえば…」
またうんうんと二度ほど春日井先生が頷く。何か納得した様子だ。
「あのさ、お笑い芸人でボケとツッコミってあるでしょ、そのボケ役みたいな感じじゃないの?」
先生は皆川君の目をまっすぐ見ててそう言った。
「僕がですか?まさか、そんなこと意識してなかったけど…」
「ボケ役の人って突っ込み役の人の影に隠れて目立たないけど、その人がいて始めて突っ込み役の人が生き生きしてくるってあるでしょ。K君が生き生きとクラスで仕切れたのは、あたしは皆川君のおかげだったからじゃないかなと思うんだ。つまりK君にも空気をコントロールする才能があったかもしれないけど、それを引き出していた本当の空気を読んでみんなの気持ちを絶妙にコントロールしてたには他ならぬあなた、皆川君じゃなかったのかしら」
皆川君はしばらくあっけに取られていた。
「そんな…ことないと思いますけど…」
「ううん、多分当たってるわ。だからT君はK君と皆川君コンビがギクシャクした後、すっとそのポジションを引き継げたのよ。キーマンは相方の皆川君なんだから。皆川君という教室の影のキーマンは自分でも気がつかないうちにT君をアシストすることになったってわけ」
僕は春日井先生の分析に驚いた。そういえば、皆川君だって空気が読めないどころか、本当に細かいところまで人の気持ちが把握できる人だった。ただ行動に表していないだけだと思っていたけど、先生のいうとおり、それはKやTという他人を通じて存分に発揮されていたのかもしれなかった。
「そんなこと思ってもみませんでした」
「K君にしたら、落ち込んでる自分を見捨ててT君が教室のヒーローになるようにサポートし始めた皆川君が憎かった。だから皆川君のことをいじめるようになった。おそらくそれが真相じゃないかしら?」
僕は春日井先生の分析に舌を巻いた。全部が説明つきそうな気がした。この時僕にも皆川君の前の学校の教室のバランス関係が分かった気がした。
「そう…だったのかもしれません」
皆川君も少し放心状態だった。自分が苦しんで来たことの意味が少しずつ明らかになって行く。
「今始めてそんな風に思いました。先生って不思議な人ですね。なんでそんな事がわかってしまうんですか…」
春日井先生はぱっと明るい笑顔で弾けるように笑った。
「あたしの前にそういう皆川君に気がついていた人がいたわよ一人」
「え?」
「そう完璧に気がついていた、君の底知れない優しさや君の力」
「誰ですか?」
「だからその人は皆川君の事が好きになったのよ」
僕にもこの時、春日井先生がコーヒーカップのコーヒーの先に見通していた皆川君のいた教室がはっきり見えた。多分春日井先生、皆川君、僕の三人は、一人の謎めいた女の子を同時に思い浮かべたはずだ。
「Mさん…ですか」
ゆったりと肩にかかった、少し内向きにカールした髪のポニーテールのクセを手櫛でをかきあげながら、春日井先生はにっこり笑って頷いた。
地下鉄のない街91 記憶の横顔
皆川君が先生の横顔を見る視線で僕も先生を観た。きれいな顔立ちだなと僕は改めて思った。
少し姉さんに似てる。といっても僕のその印象は顔の形が似ているというわけではないみたいだ。似ているのはもっと奥の方から、魂のようなものが自然と肉体に姿を結晶させたようなその感じだった。
人の顔は不思議だ。
一緒に育って来た僕は姉さんの小さい頃からの想い出をいつまでも目の前の姉さんに繰り返し発見した。幼かった姉さんの顔かたちも、中学、高校と成長するにつれて身内の僕が驚くほどきれいになっていった。ときどきふとしたはずみに他人の目で姉さんを眺めてみると、それは僕の身近に存在するのが素朴に驚きだと感じるほど、突き抜けたかわいさ、美しさを持っていた。そんなとき僕はただ何かの運命でたまたま弟に生まれてこれたから、このきれいな人と今自分は普通に隣にいるんだな、みたいなおかしな感覚を持った。そして、そのことをひとりきりのとき、実際に手をあわせて神様に感謝したものだった。
それでも僕は姉さんの顔かたちがどんな風に女性らしく成熟していっても、幼い頃じゃれあったあの姉さんの僕と同じ匂い、育った家の空気をそこに感じてきた。だから僕は変な話だけど姉さんが交通事故か何かで顔かたちが変わってしまったとしても、そこに違和感なくきれいだった頃の姉さんをみることができるんだと思う。姉さんの胸に顔を押し当てれば、いつでもそこには懐かしい干し草のような、あの姉さんを感じることができると僕は思う。
それはもちろん奇跡的なことだ。世界がどんなに変わっても、姉さんの瞳の中には幼子の頃僕を優しく守ってくれたあの、暖かい遠くまで届く淡い光があった。
何度も繰り返し引っ越ししたとしても、親に今度こそ捨てておしまいなさいと言われても必ず次の家にももって行く、新しい家や新しい生活にはには場違いな、古い縫い目の少しほつれた、少し手垢でくすんだ、幼児期や、幼児期を突き抜けてまるで前世からの懐かしい匂いが命を吹き込まれたように封印された小さなぬいぐるみのように、新しい世界がどんなに阿鼻叫喚の地獄であったとしても、姉さんという存在は、姉さんの顔の表情は、一緒に過ごしたあの幼年期の想い出を実在のものとして保証してくれた。
自分がどこにいるのか、今度こそ本当にすっかり分からなくなってしまいそうになった時、僕は姉さんの存在を手で触って確認した。僕のたった今の生を成り立たせている証として。たとえそれが人から笑われたり眉をひそめられたとしても、僕は自分の正気を保つというよりは、この世界の正気を信じる証として姉さんを求めたのだった。
幼い頃の、まだ世界が正気であった頃のあの記憶が偽物でなかったこと、まだこの世界に生き、もしかするともう一度この世界を愛しさえすることができるかも知れないという希望の根拠として、その記憶にすがるように、いつかまた幼子のようにこの世界と向き合える自分を完全には失わないために。
あり得ないことだったけれど、そんな姉さんにしか感じることのなかった奇跡的なリアリティが先生の横顔にもあった。
「春日井先生、きれいだね」
姉さん、そこにいたんだね。
姉さんは先生の横顔を見つめる僕の肩にあごを乗せて、上半身をもたれかからせるようにして、両手を僕の胸の前で結んでそう呟いた。
姉さんの髪の懐かしいぬいぐるみのような匂いと、身体から発する甘酸っぱい女の匂いが混じり合って僕の鼻腔に吸い込まれた。
姉さんの柔らかい胸と丸みを帯びた体の重みが僕に、まだ生きているんだという感触を思い出させてくれた。