地下鉄のない街78 将軍の正体
「怖い言葉ね…。何だかとても静かで冷たい…。マッカーサー将軍はどうやって誇りに思うリッチモンドを殺したの?」
「将軍はまず敗北必至の作戦をリッチモンドがいる部隊に命じ、敵も自軍の部隊も大量に死者が出る状態を作った」
「え?わざと…」
「まず自分で戦争という森の中に作戦という林を作りました」
皆川君は坦々と話し始めた。僕にはまるで皆川君が戦争に行った経験を振り返っているように聞こえた。
「戦死者の死体の中に敵兵に殺されたリッチモンドの死体が紛れ込む」
「一枚の枯葉…」
「リッチモンドという勇敢で数々の歴戦の武勇伝を持つ、マッカーサー将軍の自慢の部下は、レズリーとの関係もろとも、その他大勢の無名の死の中に抹消される」
「…」
「二重の意味があると思うんです」
「二重?」
「はい」
皆川君の落ち着いた態度は、まるで戦記物を出版するために取材にきた作家に、マッカーサー将軍が自分の作戦を回顧しているかのように静かだった。
「一つには自分の殺害の動機の痕跡を消す、つまり証拠を隠滅することです」
「うん。それは分かる。でももう一つは?」
皆川君の手が『そして誰もいなくなった』の表紙のイラストを軽く撫でた。まるでそこに描かれているマッカーサー将軍の肩に手をかけたように見えた。
「もう一つはリッチモンドの存在を無名の死体の山の中に消滅させることです。奇跡でも起きない限り生還できない作戦です」
「そして奇跡は起きなかったのね」
「戦地ではよくある、ありふれた死体の山。そこに輝かしい戦歴もレズリーとの燃えるような逢瀬もない。あるのは兵器の残骸やその他大勢の下級兵士たちの誰が誰かもわからない大量の死体。」
「…」春日井先生の唾を飲み込む音がした。
「枯葉の山に中に、リッチモンドの人生を枯葉一枚のちっぽけな薄さにして放り投げること。彼に決して英雄的な死を与えず、むしろ一切の英雄性をそぎ落とし、選ばれた者の奇跡など起きないことをその人生の最期に、死を直前にしたリッチモンドに確認させゴミのようにしてその他大勢の中に作戦失敗の戦死者の一人として葬り去ったんです」
「何のために…かは明白ね」
「…はい」
もう一度皆川君の手から本を受け取り、春日井先生は表紙のイラストに目を落とした。
「どの人がマッカーサー将軍?」
「多分下の段の一番左端の立派な体躯の目のすわった紳士ですね」
「よく見ると他の人とは違って将軍だけ殺されるかもしれないっていう恐怖の表情をしてないわ」
「そうですね。みんなが孤島で次々と殺されていく中、将軍は島からでて行きたくないって、ふとそう思うんです」
「なぜ?」
「それは…」
「待って!」
春日井先生の声が皆川君の言葉を遮った。
「私がなぜっていうのは、将軍の言葉の意味じゃないの。…なぜ皆川君はそんなに将軍の気持ちが分かるの?」
僕も同じことを不安と共に感じていたところだった。
「それは、マッカーサー将軍は僕だからです」
皆川君は寂しそうに笑った。
地下鉄のない街79 少年の涙
「皆川君がマッカーサー将軍って…どういうことなの」
話の展開に驚きと戸惑いながらも、春日井先生は笑いながらそう言った。
「もちろん僕は誰かを殺したりしてませんよ」
いくぶんか無表情になって皆川君は言った。
「それはもちろんだけど、じゃあどういうことかしら。皆川君は結婚してないから奥さんはいないわけだから、奥さんに裏切られるということもないし…」
何ともいえない沈黙。
今度は二人が同時に笑った。
「ごめん、あたしヘンなこと言ってる」
「いえ、気にしないでください。僕はそういうところが…」
「ん?」
「好きです」
春日井先生は少し困ったような顔をして黙って微笑んだ。
「ごめんなさい。今のは反則ですね」
「でも途中から狙ってたの?」
「少し」
「いいよ。許す。でも…」
「でも今は僕の話でしたね」
「あ、うん…。」
春日井先生は皆川君に合わせて「でも」のあとに続くはずの言葉を変えた。
「皆川君が今の学校に転校してくる前の話ね」
「当たりです。学校は戦場でした。僕はそこで僕自身を殺しました」
「え」
「枯葉で埋まった教室の中に、僕自身を一枚の枯葉にして隠しました。決して目立たず、友情も恋もなく、たった一度きりの学校生活の中で僕が輝くなんていうことが絶対ないように、枯葉のようにしてその他大勢の中に作戦失敗の戦死者の一人として自分自身を葬り去ったんです」
ずっと静かに冷静に春日井先生よりも年上のように話をしていた皆川君の頬に涙が伝った。
「聞きたいわ、その話。あたしでよかったら聞かせて欲しい」
皆川君の頬を先生の掌がそっと包んだ。
掌ではぬぐえない涙をふくために、春日井先生がハンカチを取ろうとバッグ目をやって手を離そうとした時、皆川君の手が先生の手を上からそっと遠慮がちにおさえた。
「何度も保健室にきて、ホントはずっとその話がしたかったんだね」
皆川君は無言で泣きながら頷いた。
大人びて見えた皆川君が、今は少年のように見えた。
地下鉄のない街80 Kという親友
「Kという奴がいました。体が大きく悪知恵が働き、誰かに買い物にいかせたり、先生に反抗したり。まあ、絵に描いたようなワルでしたね。
みんなには恐れられていましたけど、それでいて不思議と人望もあったから先生も彼のは一目置いてました」
ベッドの背もたれに座り直し皆川君は話し始めた。
「いじめっ子なのに人望があった。不思議ね」
首をかしげて相槌を打つ先生は保健室のマドンナの顔に戻っていた。
「はい。勉強もできましたね。特に数学ができた。」
「数学の得意な不良か…」
「だから、僕が最初にKにちょっかい出されたのはそれでしたね。僕はKが数学のテストで唯一勝てない男だったので」
少し得意そうに笑った皆川君の表情には明るさが戻ってきた。
「皆川君はどんな子だったの?」
「足が速かったですよ」
「そうね。今でも」
「それで今も昔も問題に…」
「今は西村君が画策しているスター神崎君より速く走らせない陰謀ね」
「はい」
「前の学校でも足が速くて苦労したの?」
「ええ。目立つのは嫌でしたからね」
「どうして?」
「うーん、何ででしょうね…」
皆川君は困った顔をした。おそらく何でなのかは自分では分かってるけど、うまくいえない、言いたくないという感じに見えた。
「K君とは仲良かったの?」
「いえ、向こうはワルだけど人望のあるスターですし、僕はそうじゃありません。どっちかというといぢめられっ子キャラですから」
春日井先生は明るく笑った。
「そんなに面白いですか?」
当惑しながらも皆川君もつられて笑う。
「ううん、ごめんね。ねえ、皆川君、君ははっきり言ってハンサムで男前だし、ものすごく細やかな心遣いができるし、お勉強もできるしスポーツもできる。そんな子がどうしていじめられっ子なの?」
「どうしてでしょう」
「どうしてだか分からないの?本当に?」
先生の雰囲気が、またあのもう一人の底知れない春日井先生になった。さっきより深い吸い込まれるような目で見つめられた皆川君は少しうろたえたように見えた。
「K君のことは半分想像だけど、多分そのK君もハンサムで、人に細やかな心遣いができるし、お勉強もできるしスポーツもできる。彼はそのためにクラスのスターで、君は<そのために>いぢめられっ子だったのよ」
皆川君は観念したように、<そのために>と強調した先生の謎のような言葉にはっきりと頷いた。
「あなたは、不思議がられて恐れられてたのよ、クラスのみんなに。そしてそのK君にも。K君とあなたは本当は仲が良かったんじゃないかしら。そして多分K君は表面的には違っても本当は自分と似たタイプの皆川君をとても信頼していたし、人間としても好きだった、違うかしら」
一気にしゃべった先生はそのままじっと皆川君を見つめた。蛇に睨まれた蛙、この場面には適切じゃないかもしれないけど、そんな雰囲気だった。
「そう…かも知れません」
「あなたは、そのK君の信頼に、友情に応えることができなかった、もしくは…」
深呼吸の音が部屋に響く。皆川君の吐き出した大きな息が部屋の空気を透明にする。
「ありがとうございます、先生。いつまでたってもどこから話していいか実は分からなかったんです。」
「話したい?」
春日井先生はまたかわいらしい先生に戻っていた。
「はい。僕はKを裏切りました。そして自分を学校という森の中で処刑しました。」
地下鉄のない街81 Mさんのこと
「Kには好きな子がいました。同じクラスのMさんという子です。そう言えば今思ったんですけど雰囲気が何となく先生に似てるかも知れません。そうですね、すごく的を得た言葉をさらっと、こっちが注意していないと聞き逃してしまうような、めったに同世代からは、いや大人からも聞けないようなことをたまに言うんです。それでいて、もったいつけたような感じがない。「え?なんか今すごいこと言ってなかったお前」ってKはときどき言ってましたね。そういう時は僕もハッとしました。でも彼女は、え?何のことって感じでもう次の話題に話が移ってたりするんです。ええ、もちろんとてもかわいい子でしたよ。かわいくてどこか、一瞬だけ凄みのあるというかな、いったいどんな経験をしてどんなことを感じて生きてきたのかなって思わずにはいられないような、Kも僕もMさんだけにはどうしたってかなわないなって心の底で思ってました。彼女は人の心のよくわかる、人から何かを虚心に学ぼうという謙虚さに溢れてました。でもたぶん根本のところで他の人が立ち入れない聖域のようなものを持っている感じでした。そこだけはどうやっても到達できないような、そこがまた彼女の魅力を揺るぎないものにしてたし、男からすると、その全体的な可愛らしい雰囲気とのミスマッチがとどうしても抗い難い魔力のようなもになってるように感じました」
病室の白い壁をぼんやり見つめながら一気にしゃべった皆川君は、春日井先生の方を見た。自分の思い出を先生の中に投影しているのだろうか。少し放心したような感じだった。
「皆川君もMさんのことが好きだったの?」
少しはにかんで皆川くんは笑った。
「はい。そうでした。でもどうしたらいいか分かりませんでした。Kのことがありましたし」
「KくんのMさんへの思いに遠慮した?」
「遠慮という偉そうなものじゃないです。だってMさんにふさわしいのはKでしたし」
「うーん」春日井先生は小さく腕組みをして首をかしげた。
「彼女の気持ちはどうだったのかしら」
先生の目が皆川君を覗いた。
「彼女は…Mさんは、僕のことが好きだったらしいです」
「告白されたの?」
「いえ、人から聞きました」
「クラスの子?」
「はい。Kが転校する事件を引き起こすきっかけになったTから聞きました。Kとは違ったタイプの不良、なんというか粗暴で嫌われ者の不良と言ったところです」
二度先生が頷いた。
「じゃあ、T君の話を聞かせて。なぜMさんの気持ちを彼が知ってたのかも」
「はい」
「あ、先生」
皆川くんは思い出したように声を上げた。
「Mさんが先生に似ているところがわかりました」
「どこかしら」
「ええと、さっき誰も触れられない聖域があるって言いましたけど、それは人を寄せ付けない聖域っていうのじゃないんです。刺々しくもないし変な硬さもない。何かブロックしてる雰囲気も全然ないんです。だれでも簡単に近寄れるようにそれはふとしたときに見え隠れするんです、Mさんの中に自然と。でもその聖域を見てしまったらもう二度と・・・」
「こっち側の世界に戻ってこれなくなる…のかしら」
あのもう一人の春日井先生の吸い込まれそうな透明で底知れない綺麗な表情で先生は言った。
皆川君が前の学校で観たMさんの笑い顔は、きっとあんな顔だったのかもしれないなと僕は思った。