地下鉄のない街76 二人の話
「噂、聞いたことあるでしょ」
皆川くんの表情は「ついにきたか」という動揺を隠そうとしてこわばった。
「何の…」
「何のことですか」とはっきりおしまいまで言えなかった皆川くんの声は、かすれながら尻きれトンボに宙を舞った。春日井先生が見舞いに訪ねてくる前に西村から吹き込まれた、佐藤先輩が学校を辞めるきっかけになったという事件、その事件は今の皆川くんと同じ立場におかれた神崎の競技会記録を破りそうになった男子生徒が関係していたという話が皆川くんの頭をよぎったはずだ。
「僕の知っている人の話ですか」
「そうね。…多分。でもどの話を言ってるのかしら…?」
どの話?あの話以外にもやっぱりいくつもある?僕の心臓は不安で波打つ。
気まずい沈黙が病室を支配した。
「いいわ。多分数えきれないもの。保健室にやってくる生徒と私との噂は…。違うか、噂じゃなくて実話かな」
春日井先生は皆川くんが自分のいろいろな話を知っているという前提で話を切り出そうとしているらしかったけど、多分はっきりとした話としては西村から聞いたあの話のさわりしか知らないはずだ。
僕は嫌な予感がした。
春日井先生は皆川くんも知っている自分の病的な側面について隠し立てをせずに自分の真実を語ろうとしているのだろうけど、皆川くんにしてみればまだ知らない、多分知りたくはない憧れの先生の真実をその人の口から聞かされようとしている。
先生はしばらく淡々と話をしていた。
僕にとって衝撃的だったのは、先生はプライバシーに配慮して生徒の誰かが特定できないようにしていたけれど、その中には明らかにトニーのことが含まれていたことだった。皆川くんは気がつかなかったようだけど、僕は断片的に聞いていたトニーのエピソードから、先生が関係を持った生徒の一人にトニーが含まれていたことを知ってしまったのだ。
皆川くんは黙って聞いていた。
佐藤先輩がなぜ陸上部のマネージャーを辞めるばかりでなく退学し、今木島先生と一緒に暮らしているのか、その話も皆川くんは黙って聞いていた。
「そういうわけなの」
長い話が終わった。
先生は静かだった。
皆川君も静かだった。
「今の話…」
顔をあげ何か言おうとした皆川君の表情は意外なことに晴れやかで、かすかに笑みも浮かんでいるようだった。
「こんなことをあなたに今話したのは…」
あたしの正体を知って、あなたに目を覚まして欲しいから。だからもう…。先生の口からその言葉が出る直前寸前のところで皆川君は先生の言葉を遮った。
「先生、今度は僕の話も聞いてもらっていいですか」
先生は自分の言葉を飲み込んだ。
「ええ。聞かせて」
皆川君は安堵した表情を一瞬見せたあと、小さくでもはっきりと頷いた。
地下鉄のない街77 かわいい女
「クリスティの…」
皆川君の声は小さくて聞き取りにくかった。精一杯平静を装っている皆川君が春日井先生の告白にショックを受けていることが痛いほど分かった。
「何?」
やさしく、でも少し申し訳なさそうに春日井先生が相槌を打つ。
「いえ、『そして誰もいなくなった』の話です」
今度は皆川君の告白が始まるのかと身構えていた僕は、緊張で無意識のうちに握っていた自分のこぶしをほどいた。
「ええ、そうだったわね。外側から鍵をかけられた密室の私と、全然別のもう一人の私。私の話は終わったわ」
皆川君は静かに頷いた。先生はどう思うかとも尋ねなかったし、皆川君も自分の感想をしゃべったりはしなかった。
そうか。僕は気がついた。皆川君は多分、先生の話を引き継いで『そして誰もいなくなった』に重ね合わせて自分の何かを言おうとしているんだ。
僕は汗ばんだ手を再び握りしめていた。
「招かれた十人の中に、マッカーサー将軍という軍人がでてくるんです。この人も他の九人と同じで、法廷では公に裁かれない罪を犯しています。自分の部下を戦場で殺したんですよ」
「部下ってことは・・・味方なのに?」
「はい、そうです。将軍はその部下のことをとても気に入っていました。殺したのには理由があるんです。」
「どんな…」
「将軍には綺麗なレズリーという奥さんいたんです。将軍は戦友であり自分の誇りでもあるリッチモンドを自分の人生の全てである最愛の妻レズリーに紹介した。」
「そして二人の間に何かが起きた。いえ、起きてしまった」
「はい」
「レズリーはまだその時29だったんです。リッチモンドは28。そして将軍は若くはなかった。二人の関係に気がつきながらもリッチモンドの胸ぐらをつかむこともなかったし、レズリーの頬を張り倒すこともなかった。もちろんやればできたんです。地位も立場も体力も申し分なかった。でも将軍の誇りがそれを許さなかった」
「どうしてばれちゃったの?」
皆川君は先生の「ばれちゃった」という言葉に噴き出した。そういうかわいらしい言葉を無造作にこういう場面で使うところはさっきの告白をしたあとでも健在だった。笑われた先生は皆川君がなぜ笑ったのか気がつかない様子で「どうしたの?」という顔をしている。皆川君の表情が優しさで満ち溢れた。僕にはまるで皆川君の方が年上に見えた。
「どうしてばれちゃったのかはですねぇ。レズリーが戦場の二人にそれぞれに宛てた手紙の中身を間違えて封書に入れて投函したからですよ」
「まさか!じゃあ、将軍のところに激しい情熱的な愛の睦言が配達されて、リッチモンドには留守を預かる健気な妻の落ち着いた愛の言葉が…」
「誤配されたってわけです」
「まあ、なんて馬鹿な…」
「というか可愛いというか・・・。ま、どっちもですね・・・」
皆川君はまたさっきの優しい目で先生を見た。
「それでピストルでズドンと…」
「いえ、将軍はそんなに単純ではありません。もちろんリッチモンドも…」
「じゃあ…」
「クリスティも愛読していたチェスタトンの『ブラウン神父』シリーズにこんな一説があるんです」
賢い人は葉をどこに隠す?森の中に隠す。
森がない場合には、自分で森を作る。
そこで、一枚の枯葉を隠したいと思う者は、
枯れ木の林をこしらえあげるだろう。
死体を隠したいと思うものは、
死体の山を築いてそれを隠すだろうよ。
皆川君は手に持った『そして誰もいなくなった』の表紙に目を落とした。そこには殺害されていく者たちの困惑と恐怖の表情がイラストで描かれていた。
地下鉄のない街78 将軍の正体
「怖い言葉ね…。何だかとても静かで冷たい…。マッカーサー将軍はどうやって誇りに思うリッチモンドを殺したの?」
「将軍はまず敗北必至の作戦をリッチモンドがいる部隊に命じ、敵も自軍の部隊も大量に死者が出る状態を作った」
「え?わざと…」
「まず自分で戦争という森の中に作戦という林を作りました」
皆川君は坦々と話し始めた。僕にはまるで皆川君が戦争に行った経験を振り返っているように聞こえた。
「戦死者の死体の中に敵兵に殺されたリッチモンドの死体が紛れ込む」
「一枚の枯葉…」
「リッチモンドという勇敢で数々の歴戦の武勇伝を持つ、マッカーサー将軍の自慢の部下は、レズリーとの関係もろとも、その他大勢の無名の死の中に抹消される」
「…」
「二重の意味があると思うんです」
「二重?」
「はい」
皆川君の落ち着いた態度は、まるで戦記物を出版するために取材にきた作家に、マッカーサー将軍が自分の作戦を回顧しているかのように静かだった。
「一つには自分の殺害の動機の痕跡を消す、つまり証拠を隠滅することです」
「うん。それは分かる。でももう一つは?」
皆川君の手が『そして誰もいなくなった』の表紙のイラストを軽く撫でた。まるでそこに描かれているマッカーサー将軍の肩に手をかけたように見えた。
「もう一つはリッチモンドの存在を無名の死体の山の中に消滅させることです。奇跡でも起きない限り生還できない作戦です」
「そして奇跡は起きなかったのね」
「戦地ではよくある、ありふれた死体の山。そこに輝かしい戦歴もレズリーとの燃えるような逢瀬もない。あるのは兵器の残骸やその他大勢の下級兵士たちの誰が誰かもわからない大量の死体。」
「…」春日井先生の唾を飲み込む音がした。
「枯葉の山に中に、リッチモンドの人生を枯葉一枚のちっぽけな薄さにして放り投げること。彼に決して英雄的な死を与えず、むしろ一切の英雄性をそぎ落とし、選ばれた者の奇跡など起きないことをその人生の最期に、死を直前にしたリッチモンドに確認させゴミのようにしてその他大勢の中に作戦失敗の戦死者の一人として葬り去ったんです」
「何のために…かは明白ね」
「…はい」
もう一度皆川君の手から本を受け取り、春日井先生は表紙のイラストに目を落とした。
「どの人がマッカーサー将軍?」
「多分下の段の一番左端の立派な体躯の目のすわった紳士ですね」
「よく見ると他の人とは違って将軍だけ殺されるかもしれないっていう恐怖の表情をしてないわ」
「そうですね。みんなが孤島で次々と殺されていく中、将軍は島からでて行きたくないって、ふとそう思うんです」
「なぜ?」
「それは…」
「待って!」
春日井先生の声が皆川君の言葉を遮った。
「私がなぜっていうのは、将軍の言葉の意味じゃないの。…なぜ皆川君はそんなに将軍の気持ちが分かるの?」
僕も同じことを不安と共に感じていたところだった。
「それは、マッカーサー将軍は僕だからです」
皆川君は寂しそうに笑った。
地下鉄のない街79 少年の涙
「皆川君がマッカーサー将軍って…どういうことなの」
話の展開に驚きと戸惑いながらも、春日井先生は笑いながらそう言った。
「もちろん僕は誰かを殺したりしてませんよ」
いくぶんか無表情になって皆川君は言った。
「それはもちろんだけど、じゃあどういうことかしら。皆川君は結婚してないから奥さんはいないわけだから、奥さんに裏切られるということもないし…」
何ともいえない沈黙。
今度は二人が同時に笑った。
「ごめん、あたしヘンなこと言ってる」
「いえ、気にしないでください。僕はそういうところが…」
「ん?」
「好きです」
春日井先生は少し困ったような顔をして黙って微笑んだ。
「ごめんなさい。今のは反則ですね」
「でも途中から狙ってたの?」
「少し」
「いいよ。許す。でも…」
「でも今は僕の話でしたね」
「あ、うん…。」
春日井先生は皆川君に合わせて「でも」のあとに続くはずの言葉を変えた。
「皆川君が今の学校に転校してくる前の話ね」
「当たりです。学校は戦場でした。僕はそこで僕自身を殺しました」
「え」
「枯葉で埋まった教室の中に、僕自身を一枚の枯葉にして隠しました。決して目立たず、友情も恋もなく、たった一度きりの学校生活の中で僕が輝くなんていうことが絶対ないように、枯葉のようにしてその他大勢の中に作戦失敗の戦死者の一人として自分自身を葬り去ったんです」
ずっと静かに冷静に春日井先生よりも年上のように話をしていた皆川君の頬に涙が伝った。
「聞きたいわ、その話。あたしでよかったら聞かせて欲しい」
皆川君の頬を先生の掌がそっと包んだ。
掌ではぬぐえない涙をふくために、春日井先生がハンカチを取ろうとバッグ目をやって手を離そうとした時、皆川君の手が先生の手を上からそっと遠慮がちにおさえた。
「何度も保健室にきて、ホントはずっとその話がしたかったんだね」
皆川君は無言で泣きながら頷いた。
大人びて見えた皆川君が、今は少年のように見えた。