地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街75 本当の春日井先生?

「多分僕なりの解釈になっちゃうけどいいですか」

 楽しそうに春日井先生に笑いかける皆川くんは多分保健室でもこんな感じなんだろうなと僕は思った。

「もちろんよ。あたしはそのアガサクリスティの有名なお話も題名くらいしか知らないし、皆川くんの話が聞きたいわけだし」

 さすがに先生も聞き上手だ。

「分かりました」



 皆川くんは話し始めるために自分の寄っかかっているベッドの背もたれに姿勢を直した。

「『そして誰もいなくなった』は密室トリックの話です」

 自分がさっきまで読んでいた文庫本を、春日井先生の手元から拾い上げるように手に取り皆川くんが言った。

「密室ってあの内側から鍵がかかってるのに中で人が殺されちゃってるみたいなの?」

 意外そうな声をあげた春日井先生に皆川くんが満足そうに微笑む。期待した通りの答えだったのだろう。

「はい。無人島とか古い洋館にゲストが招待されてそこで殺し合いが起きるみたいな話はたくさんあるんですけど、ただ生き残りバトルの悲惨さってわけじゃないんですよね、このクリスティのは」

「うん。というと?」

「この話では無人島に招待された10人がひとりまたひとりと殺されていくわけですけど、みんな次に自分が殺されるかもしれないと思って犯人探しをするわけですよ」

「それはそうね。犯人を挙げないと自分が殺されちゃう」

「はい。被害者候補が全員犯人候補で、なおかつ全員が探偵役なんです」

「あ!そっか。そうなるわね。ずいぶん変わったミステリーなんだ」

「そうですね。アガサクリスティなのに有名なポワロさんも出てこないんです。ずば抜けた知能を持つ探偵が真相を快刀乱麻よろしく事件を解き明かすっていうんじゃないんですね」

 春日井先生は興味深そうに頷きながらしばらく小さく腕組みをして考えているような仕草をしていた。



「自分の隣にいる人は本当はどんな人間なんだろうって疑心暗鬼になったり、いつその人から傷つけられるかって怯えたり、もしかしたら自分も加害者になっちゃったり…。なんか無人島の異様なシチュエーションといいながら、あたしたちの現実世界に似てる…」

 先生はあえて皆川君に同意を求めずに自分で頷きながらそう言った。

「はい。きっと先生ならそう感じてくれると思ってました」

 皆川君の手にあった『そして誰もいなくなった』の文庫本をもう一度自分の手に取ると先生は速読するようにさーっとページをめくった。




「でもどうして密室なの?」

 皆川君が待ってましたと微笑む。

「島全体が密室なんです。内側から鍵がかけられて探偵役が中に入れなくなっているんじゃなくて、ドアの外側から鍵がかかっていて中の人が外に出れない」

「あ、そっか。確かに密室だ」

「はい」

 春日井先生はまたさっきのように腕を組んで考え込んだ。今度はさっきより考えている時間が長かった。




「ねえ、皆川くん」長い沈黙の後先生はため息と一緒に言った。

「はい」

「さっきあたしが『あたしたちの現実世界に似てる…』って言った時あなたは『きっと先生ならそう感じてくれると思った』って言ったわ」

「はい」

「じゃあ、あたしたちが生きているこの世界もまた密室なのかしら…。外側から鍵かけられちゃって、中の人が必死にもがいてる…」

「僕はそう思います。」

「じゃあ、このつらい世界を外側から眺めている人がいるのかしら」

「僕はそんな風な気がしてます。子供の頃からずっと。本当の自分を観ている人がいる…」





 先生はまた静かに腕を組んだ。こういう時の先生のは不思議だ。遠くを観ているというわけでもない。ぼんやりしているわけでもない。ただすっと、世界から時間というものが消えてしまったような感覚を周りに醸し出していた。

「本当の自分かあ」

「…」






「ねえ。あたしの話していいかな。」

「先生の話ですか」

「うん。噂は聞いたことあるでしょ、たぶん。保健室の春日井先生の普段とは違うもうひとりの<私>の噂…」





 はい。という微かな声よりも皆川君の喉がなる音の方が大きく聞こえた。

 さっきまでの可愛らしく腕組みをした春日井先生はそこにいなかった。

「そう、じゃあ話は早いかもね」

 先生の形の良い唇から、妖艶な吐息のように言葉が漏れた。



 僕もまた自分の喉が緊張でゴクリと鳴る音を聞いた。

地下鉄のない街76 二人の話

「噂、聞いたことあるでしょ」

 皆川くんの表情は「ついにきたか」という動揺を隠そうとしてこわばった。

「何の…」

「何のことですか」とはっきりおしまいまで言えなかった皆川くんの声は、かすれながら尻きれトンボに宙を舞った。春日井先生が見舞いに訪ねてくる前に西村から吹き込まれた、佐藤先輩が学校を辞めるきっかけになったという事件、その事件は今の皆川くんと同じ立場におかれた神崎の競技会記録を破りそうになった男子生徒が関係していたという話が皆川くんの頭をよぎったはずだ。

「僕の知っている人の話ですか」

「そうね。…多分。でもどの話を言ってるのかしら…?」

 どの話?あの話以外にもやっぱりいくつもある?僕の心臓は不安で波打つ。

 気まずい沈黙が病室を支配した。


「いいわ。多分数えきれないもの。保健室にやってくる生徒と私との噂は…。違うか、噂じゃなくて実話かな」

 春日井先生は皆川くんが自分のいろいろな話を知っているという前提で話を切り出そうとしているらしかったけど、多分はっきりとした話としては西村から聞いたあの話のさわりしか知らないはずだ。

 僕は嫌な予感がした。

 春日井先生は皆川くんも知っている自分の病的な側面について隠し立てをせずに自分の真実を語ろうとしているのだろうけど、皆川くんにしてみればまだ知らない、多分知りたくはない憧れの先生の真実をその人の口から聞かされようとしている。

 先生はしばらく淡々と話をしていた。

 僕にとって衝撃的だったのは、先生はプライバシーに配慮して生徒の誰かが特定できないようにしていたけれど、その中には明らかにトニーのことが含まれていたことだった。皆川くんは気がつかなかったようだけど、僕は断片的に聞いていたトニーのエピソードから、先生が関係を持った生徒の一人にトニーが含まれていたことを知ってしまったのだ。




 皆川くんは黙って聞いていた。

 佐藤先輩がなぜ陸上部のマネージャーを辞めるばかりでなく退学し、今木島先生と一緒に暮らしているのか、その話も皆川くんは黙って聞いていた。




「そういうわけなの」

 長い話が終わった。

 先生は静かだった。

 皆川君も静かだった。





「今の話…」

 顔をあげ何か言おうとした皆川君の表情は意外なことに晴れやかで、かすかに笑みも浮かんでいるようだった。





「こんなことをあなたに今話したのは…」

 あたしの正体を知って、あなたに目を覚まして欲しいから。だからもう…。先生の口からその言葉が出る直前寸前のところで皆川君は先生の言葉を遮った。




「先生、今度は僕の話も聞いてもらっていいですか」

 先生は自分の言葉を飲み込んだ。






「ええ。聞かせて」

 皆川君は安堵した表情を一瞬見せたあと、小さくでもはっきりと頷いた。

地下鉄のない街77 かわいい女

「クリスティの…」

 皆川君の声は小さくて聞き取りにくかった。精一杯平静を装っている皆川君が春日井先生の告白にショックを受けていることが痛いほど分かった。

「何?」

 やさしく、でも少し申し訳なさそうに春日井先生が相槌を打つ。

「いえ、『そして誰もいなくなった』の話です」





 今度は皆川君の告白が始まるのかと身構えていた僕は、緊張で無意識のうちに握っていた自分のこぶしをほどいた。

「ええ、そうだったわね。外側から鍵をかけられた密室の私と、全然別のもう一人の私。私の話は終わったわ」

 皆川君は静かに頷いた。先生はどう思うかとも尋ねなかったし、皆川君も自分の感想をしゃべったりはしなかった。
 そうか。僕は気がついた。皆川君は多分、先生の話を引き継いで『そして誰もいなくなった』に重ね合わせて自分の何かを言おうとしているんだ。

 僕は汗ばんだ手を再び握りしめていた。





「招かれた十人の中に、マッカーサー将軍という軍人がでてくるんです。この人も他の九人と同じで、法廷では公に裁かれない罪を犯しています。自分の部下を戦場で殺したんですよ」

「部下ってことは・・・味方なのに?」

「はい、そうです。将軍はその部下のことをとても気に入っていました。殺したのには理由があるんです。」

「どんな…」

「将軍には綺麗なレズリーという奥さんいたんです。将軍は戦友であり自分の誇りでもあるリッチモンドを自分の人生の全てである最愛の妻レズリーに紹介した。」

「そして二人の間に何かが起きた。いえ、起きてしまった」

「はい」

「レズリーはまだその時29だったんです。リッチモンドは28。そして将軍は若くはなかった。二人の関係に気がつきながらもリッチモンドの胸ぐらをつかむこともなかったし、レズリーの頬を張り倒すこともなかった。もちろんやればできたんです。地位も立場も体力も申し分なかった。でも将軍の誇りがそれを許さなかった」

「どうしてばれちゃったの?」



 皆川君は先生の「ばれちゃった」という言葉に噴き出した。そういうかわいらしい言葉を無造作にこういう場面で使うところはさっきの告白をしたあとでも健在だった。笑われた先生は皆川君がなぜ笑ったのか気がつかない様子で「どうしたの?」という顔をしている。皆川君の表情が優しさで満ち溢れた。僕にはまるで皆川君の方が年上に見えた。




「どうしてばれちゃったのかはですねぇ。レズリーが戦場の二人にそれぞれに宛てた手紙の中身を間違えて封書に入れて投函したからですよ」

「まさか!じゃあ、将軍のところに激しい情熱的な愛の睦言が配達されて、リッチモンドには留守を預かる健気な妻の落ち着いた愛の言葉が…」

「誤配されたってわけです」

「まあ、なんて馬鹿な…」

「というか可愛いというか・・・。ま、どっちもですね・・・」

 皆川君はまたさっきの優しい目で先生を見た。





「それでピストルでズドンと…」

「いえ、将軍はそんなに単純ではありません。もちろんリッチモンドも…」

「じゃあ…」

「クリスティも愛読していたチェスタトンの『ブラウン神父』シリーズにこんな一説があるんです」






賢い人は葉をどこに隠す?森の中に隠す。

森がない場合には、自分で森を作る。
そこで、一枚の枯葉を隠したいと思う者は、
枯れ木の林をこしらえあげるだろう。

死体を隠したいと思うものは、
死体の山を築いてそれを隠すだろうよ。











 皆川君は手に持った『そして誰もいなくなった』の表紙に目を落とした。そこには殺害されていく者たちの困惑と恐怖の表情がイラストで描かれていた。

地下鉄のない街78 将軍の正体

「怖い言葉ね…。何だかとても静かで冷たい…。マッカーサー将軍はどうやって誇りに思うリッチモンドを殺したの?」

「将軍はまず敗北必至の作戦をリッチモンドがいる部隊に命じ、敵も自軍の部隊も大量に死者が出る状態を作った」

「え?わざと…」

「まず自分で戦争という森の中に作戦という林を作りました」



 皆川君は坦々と話し始めた。僕にはまるで皆川君が戦争に行った経験を振り返っているように聞こえた。



「戦死者の死体の中に敵兵に殺されたリッチモンドの死体が紛れ込む」

「一枚の枯葉…」

「リッチモンドという勇敢で数々の歴戦の武勇伝を持つ、マッカーサー将軍の自慢の部下は、レズリーとの関係もろとも、その他大勢の無名の死の中に抹消される」

「…」



「二重の意味があると思うんです」

「二重?」

「はい」



 皆川君の落ち着いた態度は、まるで戦記物を出版するために取材にきた作家に、マッカーサー将軍が自分の作戦を回顧しているかのように静かだった。



「一つには自分の殺害の動機の痕跡を消す、つまり証拠を隠滅することです」

「うん。それは分かる。でももう一つは?」



 皆川君の手が『そして誰もいなくなった』の表紙のイラストを軽く撫でた。まるでそこに描かれているマッカーサー将軍の肩に手をかけたように見えた。

「もう一つはリッチモンドの存在を無名の死体の山の中に消滅させることです。奇跡でも起きない限り生還できない作戦です」

「そして奇跡は起きなかったのね」

「戦地ではよくある、ありふれた死体の山。そこに輝かしい戦歴もレズリーとの燃えるような逢瀬もない。あるのは兵器の残骸やその他大勢の下級兵士たちの誰が誰かもわからない大量の死体。」

「…」春日井先生の唾を飲み込む音がした。




「枯葉の山に中に、リッチモンドの人生を枯葉一枚のちっぽけな薄さにして放り投げること。彼に決して英雄的な死を与えず、むしろ一切の英雄性をそぎ落とし、選ばれた者の奇跡など起きないことをその人生の最期に、死を直前にしたリッチモンドに確認させゴミのようにしてその他大勢の中に作戦失敗の戦死者の一人として葬り去ったんです」

「何のために…かは明白ね」

「…はい」





 もう一度皆川君の手から本を受け取り、春日井先生は表紙のイラストに目を落とした。

「どの人がマッカーサー将軍?」

「多分下の段の一番左端の立派な体躯の目のすわった紳士ですね」

「よく見ると他の人とは違って将軍だけ殺されるかもしれないっていう恐怖の表情をしてないわ」

「そうですね。みんなが孤島で次々と殺されていく中、将軍は島からでて行きたくないって、ふとそう思うんです」

「なぜ?」

「それは…」

「待って!」




 春日井先生の声が皆川君の言葉を遮った。

「私がなぜっていうのは、将軍の言葉の意味じゃないの。…なぜ皆川君はそんなに将軍の気持ちが分かるの?」

 僕も同じことを不安と共に感じていたところだった。




「それは、マッカーサー将軍は僕だからです」

 皆川君は寂しそうに笑った。
ゆっきー
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