地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街74 遠くから優しい目で

「それを観ている読者はその意味を知っている。悲惨にしか見えない話も読者が、観客が遠くから優しい目でそれを観ることによって赦されている…。ポエムみたいだわ…。」



 春日井先生はさっき皆川君がクリスティの『そして誰もいなくなった』についてしゃべった言葉を静かに繰り返した。

 春日井先生の声で語られた言葉は、皆川くんの言葉をそっくり繰り返しただけじゃなくて、まるで先生自身の言葉のようだった。



「その言い方気に入っちゃったんですか。なんだか照れます。別に特に詩的な言葉なんかじゃないです。」

 少し赤みがさした頬を自分で撫でながら皆川君が無邪気に笑った。

「あたしはミステリーというのはほとんど読まないから分からないんだけど、自分も本を読んでいる時にそんな世界に憧れてるのかもなって思ったの」

 春日井先生の形のよい唇から出てくる言葉も、まるで遠くの世界から語られた詩のように僕には思えた。

「先生はどんな本を読んだりするんですか」




  人類は小さな球の上で
  眠り起きそして働き
  ときどき火星に仲間を欲しがったりする

  火星人は小さな球の上で
  何をしてるか 僕は知らない
  (或はネリリし キルルし ハララしているか)
  しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
  それはまつたくたしかなことだ

  万有引力とは
  ひき合う孤独の力である

  宇宙はひずんでいる
  それ故みんなはもとめ合う

  宇宙はどんどん膨らんでゆく
  それ故みんなは不安である

  二十億光年の孤独に
  僕は思わずくしゃみをした







 春日井先生の口から静かに流れるように言葉が出てきて病室を満たした。

 皆川君は穏やかな顔でしばらくじっと黙っていた。




「谷川俊太郎さんよ」

「はい」

「地球人は火星人のことを遠くから優しい目でそれを観てる。火星人もあたしたちは気がつかないけど、観客が遠くから優しい目で地球を観てる。でもお互いのことは知らない」

「はい」

「ほら、皆川君の言葉って谷川俊太郎さんと同じよ」

 皆川君の朗らかな笑い声が部屋にこだました。

「まさか、谷川俊太郎さんと並べられても困ります」

「いいのよ。きっと谷川俊太郎先生も許してくれるわ。あと火星人も」

「火星人も?」皆川君は一瞬あっけに取られた後、おかしそうに大きな声で笑った。春日井先生も自分で言った言葉に吹き出していた。




「ねえ、どんな話だったっけ。あたしもなんとなくは聞いたことがあるように思うんだけど」

「あ、はい。『そして誰もいなくなった』ですね。孤島に呼び出された十人がそれぞれの過去に犯した罪でひとりまたひとりと殺されていくんです。順番にね。次々と招待された人が殺されていく。残された人間は過去の自分の反芻しながらもがき苦しみます。
 読者は読むことでそれをしっかり観ることを強要されるんですね。当たり前ですけど、決して物語の中に介入して殺人をやめさせることはできない。」

「うん」

 手元の『そして誰もいなくなった』を春日井先生がパラパラとめくる。

「それで?」

「続きですか?じゃあ、かいつまんでお話します」

 先生が嬉しそうに顔をあげてにっこりする。



 窓の外はさっきまでの薄い夕陽がすっかり消えて、いつの間にかすっかり暗くなっていた。

地下鉄のない街73 ミッシングリンク

 春日井先生は肩にかけていたバッグを皆川くんのベッドの脇に降ろし、小さな丸椅子にちょこんと座って、皆川君が布団の上に置いたクリスティの『そして誰もいなくなった』を自分の膝に置いた。

「怪我のことはもう散々言われてると思うから、その話しは今日はナシにするわね」

 先生は包帯だらけの皆川くんに気の毒そうないたわるような目を注ぎながら最初にそう言った。

「はい。その件は話すと長くなるし、話してもこんがらがるだけだし」

 皆川くんは苦笑した。

「そうね…」

 二人はおかしそうに笑った。



 春日井先生はもちろん今は保健室にいる時のように白衣は着ていない。濃いベージュのニットに黒のカーディガンを羽織っている。白も似合うけど春日井先生のこういうシックな私服姿も素敵だなと健太郎は思った。

 僕はトニーと一緒に和食料理屋のついたての後ろから、春日井先生と木島先生の話を盗み聞きした時のことを思い出した。学校でどんどん立場が悪くなっていく皆川君のことを相談するために木島先生が春日井先生を学校の外で呼び出し、偶然木島先生と待ち合わせしていた春日井先生と駅でばったり会った僕たちは春日井先生の勧めでついたてを挟んで二人の話を聞くことになったのだった。



 あの時も思ったけど、白衣を着ていない春日井先生はとても大人っぽく、もっとはっきり言えば性的に艶めかしい感じがした。着ているベージュのニットの網目から白いブラジャーが透けて見えている。いや実際は下着じゃないのかもしれないけど網目の隙間から下にのぞく真っ白な生地は先生の胸の形にそって押し上げられ、先生にそのつもりはなくてもそんな風に見えてしまう。

 あの可愛らしいポニーテールは保健室で見る時にはちょこんと少女が無造作に結っただけに見えるのに、いま見ると髪を留めた紺色のシュシュが、変な話だけど女の人が脱ぎ捨てた時に小さく縮まった下着のように見えてしまった。
 髪をかき上げて露わになった先生のうなじには、ポニーテールにまとめきれなかった綺麗な細かい生え際の毛が薄っすらと見え、その下にはなで肩の丸みを帯びた肩が続く。

 シュシュに纏められた方の髪は不思議な存在感で、そこには先生の大人の匂いがぎゅっと凝縮されているような気がした。もし、あの髪を留めてあるシュシュを無造作に外してふぁさっと髪を解いたなら、その中に秘められた先生の匂いが部屋中に充満して僕はちょっとおかしくなってしまいそうな気がした。



 そしてもちろん先生はただ単に白衣を脱いだだけであって、自分の印象がそこまでガラッと変わっていることになど全く気がついていないのだろう。

 笑顔もあの保健室のマドンナのあの笑顔そのものだったから。しかし僕にはそれさえもがかえって、自分の性的魅力にまだ無自覚な大人になりかけの年頃の少女のような、淡いけれど強烈なエロティシズムの原型を感じさせるものに映った。




「推理小説が好きなの?」

 先生は自分が発するそんな濃密なフェロモンには全く気がついていない様子で無邪気に皆川君に笑いかけた。

「いや、マニアってほどじゃないんですけど」

 皆川くんは普通に答えた。

「あたしはミステリはあまり知らないんだけどこの話は知ってるわ」

 パラパラとページをめくりながら先生が言った。




「ある無人島にバラバラにお客さんが招待された。お互いはお互いのことを全く知らない。でもそこには招待した人間だけが知っているある共通点があった」

 皆川君の顔がパッと明るくなった。ミステリーの話ができると思って表情が変わったのだろうけど、僕にはあの先生の艶めかしい雰囲気をどうしたらいいか困っていたところにさっと別の空気が入ってきてホッとしたようにも見えた。

「ミッシングリンク」皆川君が楽しそうに答えた。

「え?」

「失われた輪っか、ですね。目に見えない糸で登場人物は結び付けられている。それをその人たちは知らない。ただそれを観客席から観ている読者だけが知っている」

「読者だけが知っている…」

 春日井先生は深々とした瞳で皆川君を見つめた。




「はい。僕は思うんです。小説の世界だけじゃなくてこの現実世界も、それを外側から眺めている人だけがそこにいる人たちの見えないつながりを発見していく一つの舞台なんじゃないかって」

 春日井先生はしばらくそっと黙って考えているようだったけれど、やがて口元を満足そうにキュッと引き締めて笑った。

「素敵ね、その考え方。いいことも悪いこともいまを一生懸命生きている私たちには分からないけれど…」

「はい。それを観ている読者はその意味を知っている。悲惨にしか見えない話も読者が、観客が遠くから優しい目でそれを観ることによって赦されている」

「このあたしたちの世界も?」

「はい」

「もっとその話がしたいわ」






 春日井先生は嬉しそうだった。

 お見舞いの退屈な沈黙がこれでなくなったという安堵ではなさそうだった。

 春日井先生はその話を求めていたように僕には見えたのだった。

地下鉄のない街75 本当の春日井先生?

「多分僕なりの解釈になっちゃうけどいいですか」

 楽しそうに春日井先生に笑いかける皆川くんは多分保健室でもこんな感じなんだろうなと僕は思った。

「もちろんよ。あたしはそのアガサクリスティの有名なお話も題名くらいしか知らないし、皆川くんの話が聞きたいわけだし」

 さすがに先生も聞き上手だ。

「分かりました」



 皆川くんは話し始めるために自分の寄っかかっているベッドの背もたれに姿勢を直した。

「『そして誰もいなくなった』は密室トリックの話です」

 自分がさっきまで読んでいた文庫本を、春日井先生の手元から拾い上げるように手に取り皆川くんが言った。

「密室ってあの内側から鍵がかかってるのに中で人が殺されちゃってるみたいなの?」

 意外そうな声をあげた春日井先生に皆川くんが満足そうに微笑む。期待した通りの答えだったのだろう。

「はい。無人島とか古い洋館にゲストが招待されてそこで殺し合いが起きるみたいな話はたくさんあるんですけど、ただ生き残りバトルの悲惨さってわけじゃないんですよね、このクリスティのは」

「うん。というと?」

「この話では無人島に招待された10人がひとりまたひとりと殺されていくわけですけど、みんな次に自分が殺されるかもしれないと思って犯人探しをするわけですよ」

「それはそうね。犯人を挙げないと自分が殺されちゃう」

「はい。被害者候補が全員犯人候補で、なおかつ全員が探偵役なんです」

「あ!そっか。そうなるわね。ずいぶん変わったミステリーなんだ」

「そうですね。アガサクリスティなのに有名なポワロさんも出てこないんです。ずば抜けた知能を持つ探偵が真相を快刀乱麻よろしく事件を解き明かすっていうんじゃないんですね」

 春日井先生は興味深そうに頷きながらしばらく小さく腕組みをして考えているような仕草をしていた。



「自分の隣にいる人は本当はどんな人間なんだろうって疑心暗鬼になったり、いつその人から傷つけられるかって怯えたり、もしかしたら自分も加害者になっちゃったり…。なんか無人島の異様なシチュエーションといいながら、あたしたちの現実世界に似てる…」

 先生はあえて皆川君に同意を求めずに自分で頷きながらそう言った。

「はい。きっと先生ならそう感じてくれると思ってました」

 皆川君の手にあった『そして誰もいなくなった』の文庫本をもう一度自分の手に取ると先生は速読するようにさーっとページをめくった。




「でもどうして密室なの?」

 皆川君が待ってましたと微笑む。

「島全体が密室なんです。内側から鍵がかけられて探偵役が中に入れなくなっているんじゃなくて、ドアの外側から鍵がかかっていて中の人が外に出れない」

「あ、そっか。確かに密室だ」

「はい」

 春日井先生はまたさっきのように腕を組んで考え込んだ。今度はさっきより考えている時間が長かった。




「ねえ、皆川くん」長い沈黙の後先生はため息と一緒に言った。

「はい」

「さっきあたしが『あたしたちの現実世界に似てる…』って言った時あなたは『きっと先生ならそう感じてくれると思った』って言ったわ」

「はい」

「じゃあ、あたしたちが生きているこの世界もまた密室なのかしら…。外側から鍵かけられちゃって、中の人が必死にもがいてる…」

「僕はそう思います。」

「じゃあ、このつらい世界を外側から眺めている人がいるのかしら」

「僕はそんな風な気がしてます。子供の頃からずっと。本当の自分を観ている人がいる…」





 先生はまた静かに腕を組んだ。こういう時の先生のは不思議だ。遠くを観ているというわけでもない。ぼんやりしているわけでもない。ただすっと、世界から時間というものが消えてしまったような感覚を周りに醸し出していた。

「本当の自分かあ」

「…」






「ねえ。あたしの話していいかな。」

「先生の話ですか」

「うん。噂は聞いたことあるでしょ、たぶん。保健室の春日井先生の普段とは違うもうひとりの<私>の噂…」





 はい。という微かな声よりも皆川君の喉がなる音の方が大きく聞こえた。

 さっきまでの可愛らしく腕組みをした春日井先生はそこにいなかった。

「そう、じゃあ話は早いかもね」

 先生の形の良い唇から、妖艶な吐息のように言葉が漏れた。



 僕もまた自分の喉が緊張でゴクリと鳴る音を聞いた。

地下鉄のない街76 二人の話

「噂、聞いたことあるでしょ」

 皆川くんの表情は「ついにきたか」という動揺を隠そうとしてこわばった。

「何の…」

「何のことですか」とはっきりおしまいまで言えなかった皆川くんの声は、かすれながら尻きれトンボに宙を舞った。春日井先生が見舞いに訪ねてくる前に西村から吹き込まれた、佐藤先輩が学校を辞めるきっかけになったという事件、その事件は今の皆川くんと同じ立場におかれた神崎の競技会記録を破りそうになった男子生徒が関係していたという話が皆川くんの頭をよぎったはずだ。

「僕の知っている人の話ですか」

「そうね。…多分。でもどの話を言ってるのかしら…?」

 どの話?あの話以外にもやっぱりいくつもある?僕の心臓は不安で波打つ。

 気まずい沈黙が病室を支配した。


「いいわ。多分数えきれないもの。保健室にやってくる生徒と私との噂は…。違うか、噂じゃなくて実話かな」

 春日井先生は皆川くんが自分のいろいろな話を知っているという前提で話を切り出そうとしているらしかったけど、多分はっきりとした話としては西村から聞いたあの話のさわりしか知らないはずだ。

 僕は嫌な予感がした。

 春日井先生は皆川くんも知っている自分の病的な側面について隠し立てをせずに自分の真実を語ろうとしているのだろうけど、皆川くんにしてみればまだ知らない、多分知りたくはない憧れの先生の真実をその人の口から聞かされようとしている。

 先生はしばらく淡々と話をしていた。

 僕にとって衝撃的だったのは、先生はプライバシーに配慮して生徒の誰かが特定できないようにしていたけれど、その中には明らかにトニーのことが含まれていたことだった。皆川くんは気がつかなかったようだけど、僕は断片的に聞いていたトニーのエピソードから、先生が関係を持った生徒の一人にトニーが含まれていたことを知ってしまったのだ。




 皆川くんは黙って聞いていた。

 佐藤先輩がなぜ陸上部のマネージャーを辞めるばかりでなく退学し、今木島先生と一緒に暮らしているのか、その話も皆川くんは黙って聞いていた。




「そういうわけなの」

 長い話が終わった。

 先生は静かだった。

 皆川君も静かだった。





「今の話…」

 顔をあげ何か言おうとした皆川君の表情は意外なことに晴れやかで、かすかに笑みも浮かんでいるようだった。





「こんなことをあなたに今話したのは…」

 あたしの正体を知って、あなたに目を覚まして欲しいから。だからもう…。先生の口からその言葉が出る直前寸前のところで皆川君は先生の言葉を遮った。




「先生、今度は僕の話も聞いてもらっていいですか」

 先生は自分の言葉を飲み込んだ。






「ええ。聞かせて」

 皆川君は安堵した表情を一瞬見せたあと、小さくでもはっきりと頷いた。
ゆっきー
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