春日井先生は肩にかけていたバッグを皆川くんのベッドの脇に降ろし、小さな丸椅子にちょこんと座って、皆川君が布団の上に置いたクリスティの『そして誰もいなくなった』を自分の膝に置いた。
「怪我のことはもう散々言われてると思うから、その話しは今日はナシにするわね」
先生は包帯だらけの皆川くんに気の毒そうないたわるような目を注ぎながら最初にそう言った。
「はい。その件は話すと長くなるし、話してもこんがらがるだけだし」
皆川くんは苦笑した。
「そうね…」
二人はおかしそうに笑った。
春日井先生はもちろん今は保健室にいる時のように白衣は着ていない。濃いベージュのニットに黒のカーディガンを羽織っている。白も似合うけど春日井先生のこういうシックな私服姿も素敵だなと健太郎は思った。
僕はトニーと一緒に和食料理屋のついたての後ろから、春日井先生と木島先生の話を盗み聞きした時のことを思い出した。学校でどんどん立場が悪くなっていく皆川君のことを相談するために木島先生が春日井先生を学校の外で呼び出し、
偶然木島先生と待ち合わせしていた春日井先生と駅でばったり会った僕たちは春日井先生の勧めでついたてを挟んで二人の話を聞くことになったのだった。 あの時も思ったけど、白衣を着ていない春日井先生はとても大人っぽく、もっとはっきり言えば性的に艶めかしい感じがした。着ているベージュのニットの網目から白いブラジャーが透けて見えている。いや実際は下着じゃないのかもしれないけど網目の隙間から下にのぞく真っ白な生地は先生の胸の形にそって押し上げられ、先生にそのつもりはなくてもそんな風に見えてしまう。
あの可愛らしいポニーテールは保健室で見る時にはちょこんと少女が無造作に結っただけに見えるのに、いま見ると髪を留めた紺色のシュシュが、変な話だけど女の人が脱ぎ捨てた時に小さく縮まった下着のように見えてしまった。
髪をかき上げて露わになった先生のうなじには、ポニーテールにまとめきれなかった綺麗な細かい生え際の毛が薄っすらと見え、その下にはなで肩の丸みを帯びた肩が続く。
シュシュに纏められた方の髪は不思議な存在感で、そこには先生の大人の匂いがぎゅっと凝縮されているような気がした。もし、あの髪を留めてあるシュシュを無造作に外してふぁさっと髪を解いたなら、その中に秘められた先生の匂いが部屋中に充満して僕はちょっとおかしくなってしまいそうな気がした。
そしてもちろん先生はただ単に白衣を脱いだだけであって、自分の印象がそこまでガラッと変わっていることになど全く気がついていないのだろう。
笑顔もあの保健室のマドンナのあの笑顔そのものだったから。しかし僕にはそれさえもがかえって、自分の性的魅力にまだ無自覚な大人になりかけの年頃の少女のような、淡いけれど強烈なエロティシズムの原型を感じさせるものに映った。
「推理小説が好きなの?」
先生は自分が発するそんな濃密なフェロモンには全く気がついていない様子で無邪気に皆川君に笑いかけた。
「いや、マニアってほどじゃないんですけど」
皆川くんは普通に答えた。
「あたしはミステリはあまり知らないんだけどこの話は知ってるわ」
パラパラとページをめくりながら先生が言った。
「ある無人島にバラバラにお客さんが招待された。お互いはお互いのことを全く知らない。でもそこには招待した人間だけが知っているある共通点があった」
皆川君の顔がパッと明るくなった。ミステリーの話ができると思って表情が変わったのだろうけど、僕にはあの先生の艶めかしい雰囲気をどうしたらいいか困っていたところにさっと別の空気が入ってきてホッとしたようにも見えた。
「ミッシングリンク」皆川君が楽しそうに答えた。
「え?」
「失われた輪っか、ですね。目に見えない糸で登場人物は結び付けられている。それをその人たちは知らない。ただそれを観客席から観ている読者だけが知っている」
「読者だけが知っている…」
春日井先生は深々とした瞳で皆川君を見つめた。
「はい。僕は思うんです。小説の世界だけじゃなくてこの現実世界も、それを外側から眺めている人だけがそこにいる人たちの見えないつながりを発見していく一つの舞台なんじゃないかって」
春日井先生はしばらくそっと黙って考えているようだったけれど、やがて口元を満足そうにキュッと引き締めて笑った。
「素敵ね、その考え方。いいことも悪いこともいまを一生懸命生きている私たちには分からないけれど…」
「はい。それを観ている読者はその意味を知っている。悲惨にしか見えない話も読者が、観客が遠くから優しい目でそれを観ることによって赦されている」
「このあたしたちの世界も?」
「はい」
「もっとその話がしたいわ」
春日井先生は嬉しそうだった。
お見舞いの退屈な沈黙がこれでなくなったという安堵ではなさそうだった。
春日井先生はその話を求めていたように僕には見えたのだった。