地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街28 遠眼鏡

「お姫様がその後どういう事情で吉原の住人になったのかはその物語には書いてなかったんだ。でもあたしはそれで正解だったと思うんだよね。あたしが子供ながらにその物語に異様にのめり込んで、でもなんだかとても怖くて大好きな健太郎にも結末までは話せなかったは、お姫様が人並みに苦労してそれまでの幻想の中を生きてきたことは無意味だったんだとかいう教訓めいた話を読み取ったからじゃなくて、遠眼鏡を大事にし続けたお姫様のことに心が奪われちゃったからなんだ」

 さっきまでの春日井先生は消えてなくなり、今度はそのお姫様が姉さんの形を借りて何かを語りかけようとしているように思えた。

「お姫様は普通にお客をとっていたつもりだったんだけど、もともとがそういう出自だし、器量や気立ての良さもそういう環境でも全く汚されなかったみたいでね、お姫様は吉原の女帝のような存在に祀り上げられそうになってたの」

「そうになっていたというのは、じゃあ実際にには違うんだね」

「うん。お客さんや遊郭の実力者たちの受けが良くても、いまでいう同僚、遊女たちの受けがあまりよくなかったみたい」

 姉さんは寂しそうな顔をしてうつむいた。

「やっかみとかあったかな」

 顔を上げた姉さんはよくぞ言ってくれたといわんばかりの顔をしていたので、僕は一瞬たじろいでしまった。

「お姫様はね、お客がいないとき、ううん、いるときでもぼんやりとあの遠眼鏡を使っていつもそこから見えるお城を見てたんだ」

「お城って自分が住んでいたお城かい」

「ううん。吉原からは江戸城しか見えないから違うんだけど、何も見えないはずの海がある方向に遠眼鏡を向けて、お客さんが何を見ているのか訝しがるまでずっと楽しそうに飽きずに眺めていたんだ。何が見えるんだいと聞かれると、いつでも綺麗なお城が見えるって」

 僕はさっき姉さんが寂しそうな顔をしたわけがわかった。お姫様は昔舞台だと思っていた側の遊郭の欄干に、はだけた赤い襦袢をなびかせながら自分がいたお城を今度は舞台のように眺めていたんだろう。

「それじゃあ、贔屓のお客さんは大目に見てくれても、他の遊女たちには受けはよくないかもしれないね」

「うん。とても気味悪がられていたらしい。それとああいうところだから妙な迷信とか信じる人も多くて、性病が流行ったりとか、仕送りしている田舎で大飢饉があったりとか、そういうことがいつの間にか全部このお姫様のせいだみたいな話になっていったんだ」

「気味が悪いを通り越しちゃったんだね」

「うん。遠眼鏡で見えないお城を見ている時のお姫様はそれこそ昔の本当の大名のお姫様だった時のように神々しかったみたいで、お客にしたらそれも一興、でも遊女たちにとったらほとんどヨーロッパの魔女狩りの魔女みたいな不気味さだったんじゃないかな」

「そっか。男にとっては聖女。でも実際には悪魔と契約した厄災を撒き散らす魔女・・・か」

「実際ね、五十歳過ぎくらいになってもお姫様はどう見ても二十代くらいに見えたらしい。それもこれも・・・」

「遠眼鏡で怪しい妖術を使っていたみたいな?」

 僕は姉さんがなぜ皆川くんやトニー、そして僕の話からこのお姫様の話を連想したのか分かった。

「自分たちとは別の世界を持っている人間。お姫様はね、ある日長時間にわたって拷問のように苛まれた状態で隅田川に浮かんじゃたんだ」

 そっか、やっぱり・・・。

「遠眼鏡はめちゃくちゃに壊されて、バラバラの破片が巾着に入れられてお姫様の首に巻きつけてあったそうよ」




 皆川くんの学校一の脚力
 
 トニーのアメリカ

 僕の姉さん


 お姫様の遠眼鏡・・・。


 僕はそろそろ僕の犯した許しがたい罪を告白する時が来たんだと思った。

地下鉄のない街 42 春日井先生のトラウマ

「君の中ではまだ解決してないのかい」

 春日井先生のすすり泣きに木島の声が混じった。

「木島君気がついていたよね。相談に乗るうちに青田君がだんだんとあたしに精神的に寄りかかった状態になっていったこと」

 木島のかすかな溜息が聞こえた。

「ああ。横で見ていてよく分かったよ。僕たちが付き合っていることはクラスの人間は知ってたからね、青田も最初は遠慮があったと思うんだけど、だんだんと僕と三人であっている時にも君への精神的な依存を隠そうとしなくなっていったように見えたよ」

「そうね。」

「最初は三人で何とかして行こうっていういい雰囲気だったのにね。俺も教師たちの手のひらを返したような態度は許せなかったし」

 春日井先生が少しだけ笑った。

「あたしには分かるよ。いろいろ頑張った木島君が結局青田君を救えなくてどれだけ自分のこと責めたか。」

 木島の自嘲気味の苦笑が聞こえた。

「いや、あの時の自分の心理状態はそんな立派なものじゃないんだ。一言で言って幼かったんだけどさ、僕は青田が僕の前でもどんどん君に寄りかかって行くのが我慢ならなくなっていったんだ。『青田、もっと強くなれ、逆境なんか跳ね返せ』って励ましたり、教育委員会に直訴に行ったりっていうのは、多分青田を君から引き離したかったっていうのもあったと思うんだ」

 僕は衝立越しの木島の声にある種の痛いほどの悲壮さを感じてトニーを見た。トニーはかすかに頷いた。トニーも多分単純で狡猾な学校権力の犬だと思っていた木島の意外な肉声を聞いて、僕と同じような気持ちになったのかもしれない。

「だから僕は青田を救って苦しんだとかいう風に自分のあの頃を振り返ることはできないんだ。力もないくせに、しかも自分の嫉妬心も混じった感情で中途半端な行動をしていたんだ。何か自分がとてつもないいいことをしているような気になってね。今僕が生徒たちに、昔の僕みたいな青臭い余計なことを考える暇もなく学校の管理教育の中に埋没して生活していくようにしているのは、やっぱりあの頃の自分の中途半端さを処罰したいからなんだと思う。中途半端な青臭い中高生の反抗ほど、学校生活の中で大きな悲劇を生むものはないんじゃないかと思ってるから・・・」


「あたしはどうすれば良かったのかな」

「ごめんな。春日井さんにもずいぶんひどいこと言った。実は青田と俺と二股かけてるんじゃないかとか言ったこともあったね。今思い出しても自分が嫌になるよ」

 すすり泣きをいったんリセットするように春日井先生が小さく鼻を鳴らした。

「いいんだよ。そう言われても仕方ないような態度、あたしもとってたもん。何か精神的に頼られてしまうと断ることができない、自分の中にそういう自分でどうしようも無い弱い部分があるってあの時はっきりわかったんだよ。だから、誘われるままにホテルにも・・・あの時は言われちゃったよね。まるで君は聖女か娼婦みたいだって。」

「・・・僕も君と別れることになった後もずっと、うん、高校や大学に入ってからもそのことを本で探して読んだりしたよ。やっぱり幼い時の弟さんのことから来てるのかな」




 また少し沈黙が流れた。

「そうだね。活発で明るい弟だったんだけどね、何だか学校生活がうまく行かなくなっちゃった。部屋にひきこるようになってしまって、たまに訪問してくれる先生やクラス委員の子や、しまいにはうちの両親との接点は全部あたしを通してっていうことになっちゃってた」

「口にしにくいことだったんだと思うんだけど、僕には教えてくれたね。その時もっともっと君の心の傷について僕は深く受け止めるべきだったんだ」

「ううん、いいんだ。それは。でもね、やっぱりあの時のことからずっと続いているんだと思うんだ。ある日の夜。夕ごはんを届けに弟の部屋に行くとそのまま手を取られて部屋の中に入れられた。すこし思いつめた表情だったな」

「ご両親は結局気づいてなかったんだっけ」

「お盆に載せた夕食をおっことして大きな音がしたから母親が廊下まで来たよ。大丈夫って・・・」

「うん・・・」

「しばらくベッドの上に押し倒されたままになってたんだけど、あたしはその母親の声を聞くまでは、なんとなくそうして弟を胸に抱いているのが自然のような気さえしてたんだ。でも、母親の声を聞いた途端、自分でも気が付かないうちに弟を着き飛ばしてた・・・もし、あのままそっと気の済むまで抱いてあげてたら・・・」




 僕の頭の中に、蝉の声が鳴った。




「その夜以来弟さんに会ってないんだよね」

「うん。最初は怯えたような小動物みたいな目。次に、あたしが今まで出会った人間の目で一番悲しそうな目をした。そして最後は絶望かな・・・。あたしを突き飛ばして外に出ていってしまった」

「捜索願も出したけど、それ以来・・・」

「そう。もう7年以上たってるから届出を出せば死亡扱いになるんだけど、いまだにそうしてないんだ。両親はまだ弟の失踪をきっかけに始めた新興宗教の教えを守ってるからね。祈り続けて帰ってくるのを待ってるわ」


 二人の話は一段途切れた。中居さんが飲み物のおかわりを聞いている。木島がビールを追加したようだった。


「今日僕が誘ったわけは分かるよね」

「うん。分かる」

「弟さん、青田くん、そして・・・」

「うん、そうだよね。今度は皆川くんだよね。」

「ああ。僕が心配しているのは皆川くんの問題に直面することで、君はまた過去の辛いことを繰り返すんじゃないかっていうことなんだ。君は僕は僕自身を罰するよりはるか以前に弟さんのことで自分を罰し続けてきたんだよ。だから、青田に対してもああいう態度になったんだと思う」

「うん・・・」


 蝉の声はまだ僕の頭の中になり続けていた。

地下鉄のない街71 『地下鉄のない街』を紡ぐものたち

 皆川君!?そこにいるのは皆川君かい?

 向こうを向いて下を向いていったい何をやっているんだい?

 おかしいんだよ、みんながね、僕に「ありがとう」って言うんだよ。

 何のことだか君にはわかるかい?

 そういえば変だね…。

 さっき地下鉄の踏切の中で僕が轢かれそうになった時に、君だけいなかったね。ここでこうしていたのかい?一体何をやってるんだよ。何かを一生懸命書いているんだね。一体何を熱心に書いているんだい?


 何を書いているんだか見てもいいかい?

 


「僕を見ててよ」

「僕に追いつけるかな」





「みんな今生まれたばかりだから」

「だから大丈夫さ」

「見えすぎる目は閉じていい」

「聞こえすぎる耳はふさげばいい」

「過去は忘れればいい」

「たまには本当のことを言ってもいいのさ」

「隠さなくてもいいよ」

「きっとゆるしてくれるさ」

「敵の神も泣いている」

「失うことできっと見つかるさ」





 これは…

 姉さんと僕がタイムトリップの中で聞いた君の声だ。

 





「僕が見えるかい」

「見えるならまだ大丈夫」

「観ることは赦すことだ」

「そして、君がやることが分かるはずだ」

「君が僕を追い越す時、それを一番大切な人に見てもらうんだ」

「その瞬間はくる。見ることは赦すことだから」

「世界の速さが消える時、君は君の依存していたものから自由になる」







 これはさっき姉さんが読みながら泣いていたあの『地下鉄のない街』じゃなか。じゃあ君がこの物語をずっと書き綴っていたのかい?

 ねえ、皆川君!

 顔をあげて答えてくれよ!

 皆川君!!







「君がそれに気づく時、過去は未来に接続され、未来はここでないあそこに移動する」

「その時君はすべてを知る」

「すべてはもともとそこにあったんだ」






 皆川君!皆川君!

 聞こえてるんだろう!皆川君!

 顔をあげて返事をしてくれよ!皆川君!






 「君も僕も、ただそれがたまたま君であり、僕であったという以外になんの意味もない。そしてつらい過去も現在も、それが過ぎ去った日々であり、今であるという以外になんの意味もない。
 忘れたくないことを忘れないでおくことが尊いことなのではないんだよ。むしろずっそれを憶えておこうとすることこそが、その人を決定的に遠ざけてしまうことなんだ。眠ろうとすることが、深い眠りから人を遠ざけていくようにね。」









 眠りだって?

 一体誰が眠っているんだい?








「それはだから別れとは違うんだ」

「僕を見ててよ」

「その時君には分かるはずだ」

「ホントはね…」

「追いつく必要なんてなかったんだ」








 僕はなぜだか分からないけれど、生きている場所が揺さぶられるような不安を感じて、大泣きしていた。

 生まれてくる赤ん坊はきっとこんな風になるんだろうなと思った。

 いま、子宮という自律的で自己完結的な世界が崩壊する

 きっと僕の図と地が反転するんだ

 外のない世界に閉じ込められていた僕は何かを知ろうとしている

 この異世界の本当の意味を、姉さんの導きの意味を…。








 皆川君がそっと顔をあげた。





「いま僕が書く分はこれでおしまいだ」

「え…どういうことだい?」

「春日井先生に渡してくるよ」

「なぜ」

「次は春日井先生が書く番だからさ」

「みんなでこの『地下鉄のない街』というファイルを完成させるのかい?」

「そうさ。みんな君のおかげで救われるんだ」

「みんなって?」

「さっき君にありがとうって言ってたみんなだよ。そしてもちろん僕もさ。今回は僕の順番だったから僕はさっきの踏切事故の様子を含めてここに記録した」

「いったい何のために?」

「それ最後に分かる。最後に完成させるのは君だからさ」

「……」






「君は深い深い眠りからもうじき醒めるんだよ、君島健太郎君」

地下鉄のない街74 遠くから優しい目で

「それを観ている読者はその意味を知っている。悲惨にしか見えない話も読者が、観客が遠くから優しい目でそれを観ることによって赦されている…。ポエムみたいだわ…。」



 春日井先生はさっき皆川君がクリスティの『そして誰もいなくなった』についてしゃべった言葉を静かに繰り返した。

 春日井先生の声で語られた言葉は、皆川くんの言葉をそっくり繰り返しただけじゃなくて、まるで先生自身の言葉のようだった。



「その言い方気に入っちゃったんですか。なんだか照れます。別に特に詩的な言葉なんかじゃないです。」

 少し赤みがさした頬を自分で撫でながら皆川君が無邪気に笑った。

「あたしはミステリーというのはほとんど読まないから分からないんだけど、自分も本を読んでいる時にそんな世界に憧れてるのかもなって思ったの」

 春日井先生の形のよい唇から出てくる言葉も、まるで遠くの世界から語られた詩のように僕には思えた。

「先生はどんな本を読んだりするんですか」




  人類は小さな球の上で
  眠り起きそして働き
  ときどき火星に仲間を欲しがったりする

  火星人は小さな球の上で
  何をしてるか 僕は知らない
  (或はネリリし キルルし ハララしているか)
  しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
  それはまつたくたしかなことだ

  万有引力とは
  ひき合う孤独の力である

  宇宙はひずんでいる
  それ故みんなはもとめ合う

  宇宙はどんどん膨らんでゆく
  それ故みんなは不安である

  二十億光年の孤独に
  僕は思わずくしゃみをした







 春日井先生の口から静かに流れるように言葉が出てきて病室を満たした。

 皆川君は穏やかな顔でしばらくじっと黙っていた。




「谷川俊太郎さんよ」

「はい」

「地球人は火星人のことを遠くから優しい目でそれを観てる。火星人もあたしたちは気がつかないけど、観客が遠くから優しい目で地球を観てる。でもお互いのことは知らない」

「はい」

「ほら、皆川君の言葉って谷川俊太郎さんと同じよ」

 皆川君の朗らかな笑い声が部屋にこだました。

「まさか、谷川俊太郎さんと並べられても困ります」

「いいのよ。きっと谷川俊太郎先生も許してくれるわ。あと火星人も」

「火星人も?」皆川君は一瞬あっけに取られた後、おかしそうに大きな声で笑った。春日井先生も自分で言った言葉に吹き出していた。




「ねえ、どんな話だったっけ。あたしもなんとなくは聞いたことがあるように思うんだけど」

「あ、はい。『そして誰もいなくなった』ですね。孤島に呼び出された十人がそれぞれの過去に犯した罪でひとりまたひとりと殺されていくんです。順番にね。次々と招待された人が殺されていく。残された人間は過去の自分の反芻しながらもがき苦しみます。
 読者は読むことでそれをしっかり観ることを強要されるんですね。当たり前ですけど、決して物語の中に介入して殺人をやめさせることはできない。」

「うん」

 手元の『そして誰もいなくなった』を春日井先生がパラパラとめくる。

「それで?」

「続きですか?じゃあ、かいつまんでお話します」

 先生が嬉しそうに顔をあげてにっこりする。



 窓の外はさっきまでの薄い夕陽がすっかり消えて、いつの間にかすっかり暗くなっていた。
ゆっきー
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