地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街61 闇の出口

「皆川君、ちょっといいかな」

「何ですか」

「また保健室の春日井先生の邪魔をしにきてたってわけか」

「それが西村先輩に何か関係があるんですか?」



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 僕は姉さんの手を握り直すことで、目の前の情景を理解しようとした。

 制服姿の皆川君。声をかけたのは僕たちの学校名が背中に入った陸上部のジャージを着た西村だった。

 今度のタイムスリップの出口は皆川君が陸上部に途中入部した後の一コマのようだった。保健室の扉を閉めて中から出てきた皆川君を、廊下で待ち構えていた西村が捕まえたということのようだった。



 奇妙な陸上部だった。

 学園の理事長の息子神崎透を錦の旗印にした陸上部は、顧問の木島浩輔の下徹底した「護送船団方式」をとっていた。

 護送船団方式とはもともと海軍の戦術用語で、敵陣まで自軍の船が航行する時最も速力の遅い船に合わせて、その時々の戦局に応じた最適な陣形を取る事を言う。

 それが僕達の陸上部の姿そのものだった。



 当時新聞やテレビなどで、過度の競争を避けて落伍するものがないようそれぞれの企業を監督官庁が保護し、業界全体の存続と利益を実質的に保証する日本型の社会システムがアメリカから批判を浴びていた。僕たちは日本社会の綺麗な縮小相似形を僕たちの陸上部に見たのだった。

 足の遅い者もそれなりに馴れ合いのローテーションで競技会に出る事ができた。そして顧問の木島は理事長の息子神崎先輩の顔を最大限立てることで学園から莫大な予算を獲得し、部員たちは理事長の政治力でその殆どが高校卒業後、系列の大学ではなくスポーツ推薦枠で有名私立大学に推薦入学して行くという強固なシステムが確立されていた。




 皆川君はそのシステム全てを無視した途中入部の闖入者だった。

 もともと、目立たない生徒だった。というより真相は目立つことで余計な摩擦を回避して生きて行く事を皆川君は信条としていたようだった。それはもともとの皆川君の優しすぎる性格もあるのだろうけど、やはり小学生の時に受けた言われのないいじめが原因だったのだろうと思う。

 中途半端に目立つくらいなら自分の能力を隠して静かに学校生活を送りたい。多分それが皆川君の偽らざる思いだったに違いない。実際いったん学校でスターの側に分類されてしまうといろんな気苦労が多いのも確かだ。
 早い話、スターは常にスターでいる事を要求される。スターでないものを突き落とし、スターのスター性を自ら常に際だたせるということもしないといけない。僕の知る皆川くんにそれは最も似合わなかった。


 陸上部でいえば、他ならぬ学園理事長の息子神崎先輩がその役割だった。と言っても神崎先輩は足がずば抜けて速いわけではない。そのことは陸上部員は誰でも知っている。しかしお約束で誰もそのことは口にしない。そして誰も神崎先輩の種目、800メートルと400メートルの中距離で彼より速く走ってはいけないのだ。
 神崎先輩の顔を潰さず、この「護送船団方式」を維持して卒業していけばいいのだ。そうしていれば足の遅いものでもそれなりに日の当たる場所に出れるし、卒業後は有名私立大学が保証されるのだから。

 神崎先輩も自分が理事長の息子であるということで何を期待されているかもわかっていた。要するにお飾りスターという危うい地位を全うして父親の機嫌を損ねないように振る舞い、陸上部部員全員それぞれの利益を最大化する役割を演じていればいいのだ。

 考えてみればこれ程痛々しい役割もないと僕は入部してすぐに気がついた。それを平気でさせている顧問の木島には徹底的に人間的な嫌悪感も抱いた。でも僕自身そのことを口にすることはなかった。




 そんな状態に静かに抗っていたのが、マネージャーの佐藤淳子先輩だった。神崎先輩の彼女だ。正確にはだったなのかもしれない。神崎先輩のその辛さを全て理解した上で、護送船団方式の陸上部のマネージャーをこなしながら神崎先輩の恋人という存在だった佐藤先輩は、僕が入部した年の最後の方に陸上部をやめてしまった。いや、学校を退学してしまったので自動的に陸上部も退部になったと言うべきか…。
 何があったのかは僕たち一般の部員には分からなかったけど、その状況の板挟みに苦しんでいたようなことは、佐藤先輩のあの健気な様子を見ていていたい程よくわかった。




 皆川君は佐藤先輩の体部の後、学年が変わって間もなく途中入部してきたのだった。

 それまでの自分のキャラを捨てて。




 理由は、入部から一年も経たずに自ら命を絶ってしまった皆川君が抱いた、保健室のマドンナ春日井先生への純愛だった。

地下鉄のない街62 五人?

「毎日のようによくそんなに話することがあるね」

 自分の教室がある方向に向かおうとした皆川君を西村が遮った。廊下の壁に自分の右腕をつっかい棒のようにして突き出してもたれかかり、皆川君の行く手を邪魔しながら話しかけた。

「いろいろですよ、心理学と精神分析学とか興味あるし…」

 西村よりもやや上背のある皆川君は、西村の腕を強引に突破できなくもなさそうだったけど、ことを荒立てずに受け答えすることを選んだようだった。

「人間の心の奥底に興味があるかのかい」

 西村は薄笑いを浮かべながら粘着質の声で言った。

「ええ、まあ」



 表面上普通に受け答えを始めた皆川くんを観て西村は薄ら笑いを浮かべていた。

「俺も興味があるよ。といっても俺は心理学とかは興味はないんだ。もっとね、こう実際役に立つような実践的なものが好きだな。春日井先生のカウンセリングなんて所詮、現実に顔をまともに向けられないクズのマスターベーションの手助けだろうが。白衣を着たあのかわいい先生が、そのドアの向こうでメガネをかけたまま右手を使ってくれるのかな。いいなあ、皆川君は。保健室に毎日きたがるのもよく分かるよ」

 自分自身と春日井先生を同時に侮辱されて皆川君の顔に赤みが差した。目の奥で怒りをこらえているのがわかった。以前の皆川君にはなかった表情だった。皆川君は僕よりも先に正しく怒るということを覚えたようだった。



「西村さんの実際に役に立つものって、家族ぐるみで"はで"にやってる宗教ごっこのことですか」

 今度は西村の顔がみるみる憤怒で血に染まった。おそらくそこは西村の最大の急所のはずで、それがために誰一人としてこれまで西村にそんなことをいう人はいなかったのだった。



 黙っている西村に皆川君が追い打ちをかけた。

「それとも顧問の木島先生や神崎先輩と一緒に陸上部を自分たちのいいように食いものにしてることですか」

 その瞬間皆川君が廊下の反対側まで吹き飛び、歩いていた女生徒二人を巻き込んで倒れこんだ。
 僕も姉さんも一瞬何が起きたのか分からなかった。しかし西村がすぐに皆川君に追うように殴りかかっていったので、西村の拳が皆川君を吹き飛ばしたらしいことが分かった。


「お前に神崎さんの何がわかるんだ」

 西村が激昂しているのは自分の家の新興宗教のことを言われてのことでゃなかったらしい。あるいはその理由で殴りかかるにはてれもあったのかもしれないと僕は思ったが、そんなことよりも皆川君の顔は殴打を繰り返す西村の手の中でみるみる血にまみれていった。




 止めなきゃ皆川君が死ぬ!僕は飛び出しかけた。

 いやまてよ、タイムスリップしている僕にこの事態をなんとかできるんだろうか。

 僕が西村を止めようとした瞬間その根本的なことが頭をよぎった。これはあくまで外側の世界から眺めているだけのことなんだろうか。

 ここにくる前に姉さんの部屋に母さんがいきなり入ってきた時には、驚いて姉さんの手を引いて窓から飛び降りた。だから母さんに対して僕らが認識できるのか、実在の人間としてお互いからだが触れ合ったりするものなのかどうかは分からなかった。

 一瞬ためらって姉さんの方をみると姉さんも同じことを考えていたのか、不安そうな顔をして僕を見返した。





 その時、あつまりかけた野次馬のざわめきを一瞬で静かにさせる大声が廊下にこだました。

「何やってるんだ」

 尋ねているのではなく有無を言わずに静止させる、木島先生の怒鳴り声だった。

 野次馬はあっという間にいなくなり、皆川君、西村、木島先生の三人が無言で廊下に残された。







 いや、あと二人。

 この世界にとってどういう位置づけなのか、まだはっきりとは分かっていない僕と姉さんは、とりあえず向こうからの視覚に入らないように廊下の角に身を隠した。

地下鉄のない街63 もう一人の君島健太郎

「何をやってるんだ西村…」

 木島先生は皆川君を助け起こしながら、その出血のひどさに顔をしかめた。

「僕が神崎先輩のことを悪しざまに言ったことが我慢ならなかったようですね…」

 皆川君は意外にはっきりした口調でそう言った。

 木島先生は西村の顔を一瞥し、納得したような顔をした。無論西村の行動を認めたというわけではないようだが、少なくとも木島先生にとって西村が神崎さんのことで我を忘れるほど激昂する理由については心当たりがあるらしかった。

「取り敢えずきちんと手当をしよう。春日井先生、肩を貸してください」

 木島先生は僕と姉さんが身を隠している廊下の角を曲がった位置からは死角になっている保健室の方に向かってそう言った。騒ぎを聞きつけて春日井先生が中から顔を出してきたのだろう。

「…はい」という春日井先生の震えた声がした。保健室の養護教諭とはいえ、カウンセラーの先生には男子生徒の殴り合いやあの出血には普通でいられなかったのかもしれない。




 皆川君が保健室に中に担ぎ込まれ、西村が一人廊下に残った。

 大きな深呼吸のような溜息が聞こえた。

「佐藤さん…」

 西村の口からそう聞こえた。

 神崎さんの彼女で陸上部のマネージャーの佐藤淳子先輩?学校を退学してしまったあの佐藤先輩のことか…?なぜ今西村の口から佐藤先輩の名前が漏れたのだろう…。




 しばらくして中から木島先生が一人出てきた。

「取りあえず救急車を呼ぶような怪我ではなかったから止血の上、皆川には早退させることにした。事情説明のために俺も皆川の家まで送り届けに行くつもりだが、お前は今日は顔を出さない方がいい。同じクラスの君島健太郎を呼んで家まで一緒に肩を貸してもらうから、お前は後日改めて皆川君の親御さんに謝罪しろ」

 木島先生は静かにそう言い渡した。





『二年B組の君島君、至急保健室まできてください』

 構内放送が流れた。保健室から木島先生が放送の手配をしたのだろう。僕は動機が高鳴るのを感じた。

 さっき飛び出して皆川君を助けようとした時の疑問、僕と姉さんはこの世界の中でいったい何者なのかの回答が出るのかもしれない。

 もうすぐこの場に今校内放送で呼ばれた「僕」が姿を表すらしい。だとすれば、この世界に僕は二人いることになる。この世界の僕とこの僕が二人存在できるのだろうか…。

 放課後直後のこの時間、構内放送で呼ばれた僕は多分自分の教室から駆けつけてくるだろう。…ということは向こう側の廊下の角を曲がって「君島健太郎」が何事かと保健室に小走りに走ってくるはずだ。

 その時僕はいったい…?

 僕は姉さんの手を握った。

 「この世界の健太郎がくるのね」

 姉さんの緊張が手に伝わってくる。



「来た!」

 あれはもう一人の僕だ!いったいこのことをどう理解したら良いのだ。僕は単純に16歳の僕に転移したというわけではなかったのか!?

 廊下の先の君島健太郎の足が止まった。

 「この僕」に気がついたらしい。

 驚きの顔で目を見開いた僕が廊下の向こう側にいた。多分僕も同じような表情をしているはずだ。



「姉さん…」

 手をきつく握り直そうとすると握力がすっとなくなった。

 握るはずの姉さんの手は僕の掌から消滅していた。

 あたりは真っ暗になり、もう一人の僕も消え、僕は自分が闇の中で一人でいることに気がついた。

地下鉄のない街66 観ることは赦すこと

「姉さん」

「うん。大丈夫だよ。さっきの保健室の前。こっちの世界の健太郎は皆川くんを送って行ったよ」

 僕は自分で自分の顔を触ってみた。廊下の窓に映る僕はまた高校生に戻っていた。

「さっきのはいったいなんだったんだろう。父さんや母さんもいたようだし、トニーや失踪した春日井先生の弟さんまでいたみたいだった」

「うん。」

「姉さんにはあれが何処なのか分かってるのかい」

 姉さんは静かに頷いた。どこか寂しそうな、つらそうな微笑みだった。

「何処だったのかは多分もうすぐ分かるわ」

「いつその時何が起きるの?姉さんはどうしてそんなに寂しそうなんだい?」

 姉さんの目にすっと涙が浮かんで頬を伝った。




「もしかして僕以外の人はすべての事を知っているのかい?姉さんも春日井先生も木島先生も神崎先輩も西村も?」

 僕は焦燥感にかられて不機嫌な大声を出してしまった。姉さんは悲しそうに首を振った。

「違うのよ、健太郎。あなた以外の全員は何も知らなかったのよ。ずっと18年間。あたしもそうだわ。健太郎とこの世界を旅してお父さんの事やお母さんのこと、西村くんのラブレターのこと、何もかも知りつつあるの」

 姉さんのつらそうな顔に少しだけ優しさが混じった。

「ごめん。意味が全くわからない。僕は何も教えていない。姉さんと一緒にこの世界を観てきただけだよ。観たくもなかったこともたくさんあったよ」

 うん、と姉さんが小さく頷く。


「観ることは赦すことって皆川くんの声がしたわ」

「ああ」

「健太郎はそれを導いてくれたのよ、さっきいた全員に。みんなそれで救われつつあるわ」

 僕が何か言おうとすると姉さんは静かに首を振った。




「木島先生のところに行きましょう」

「なぜ?」

「皆川くんがそうしてって、あなたが目が覚める直前に」

「…」

「目を瞑って」

 姉さんは近寄ると僕のまぶたにそっと手を置いた。
ゆっきー
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