地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街63 もう一人の君島健太郎

「何をやってるんだ西村…」

 木島先生は皆川君を助け起こしながら、その出血のひどさに顔をしかめた。

「僕が神崎先輩のことを悪しざまに言ったことが我慢ならなかったようですね…」

 皆川君は意外にはっきりした口調でそう言った。

 木島先生は西村の顔を一瞥し、納得したような顔をした。無論西村の行動を認めたというわけではないようだが、少なくとも木島先生にとって西村が神崎さんのことで我を忘れるほど激昂する理由については心当たりがあるらしかった。

「取り敢えずきちんと手当をしよう。春日井先生、肩を貸してください」

 木島先生は僕と姉さんが身を隠している廊下の角を曲がった位置からは死角になっている保健室の方に向かってそう言った。騒ぎを聞きつけて春日井先生が中から顔を出してきたのだろう。

「…はい」という春日井先生の震えた声がした。保健室の養護教諭とはいえ、カウンセラーの先生には男子生徒の殴り合いやあの出血には普通でいられなかったのかもしれない。




 皆川君が保健室に中に担ぎ込まれ、西村が一人廊下に残った。

 大きな深呼吸のような溜息が聞こえた。

「佐藤さん…」

 西村の口からそう聞こえた。

 神崎さんの彼女で陸上部のマネージャーの佐藤淳子先輩?学校を退学してしまったあの佐藤先輩のことか…?なぜ今西村の口から佐藤先輩の名前が漏れたのだろう…。




 しばらくして中から木島先生が一人出てきた。

「取りあえず救急車を呼ぶような怪我ではなかったから止血の上、皆川には早退させることにした。事情説明のために俺も皆川の家まで送り届けに行くつもりだが、お前は今日は顔を出さない方がいい。同じクラスの君島健太郎を呼んで家まで一緒に肩を貸してもらうから、お前は後日改めて皆川君の親御さんに謝罪しろ」

 木島先生は静かにそう言い渡した。





『二年B組の君島君、至急保健室まできてください』

 構内放送が流れた。保健室から木島先生が放送の手配をしたのだろう。僕は動機が高鳴るのを感じた。

 さっき飛び出して皆川君を助けようとした時の疑問、僕と姉さんはこの世界の中でいったい何者なのかの回答が出るのかもしれない。

 もうすぐこの場に今校内放送で呼ばれた「僕」が姿を表すらしい。だとすれば、この世界に僕は二人いることになる。この世界の僕とこの僕が二人存在できるのだろうか…。

 放課後直後のこの時間、構内放送で呼ばれた僕は多分自分の教室から駆けつけてくるだろう。…ということは向こう側の廊下の角を曲がって「君島健太郎」が何事かと保健室に小走りに走ってくるはずだ。

 その時僕はいったい…?

 僕は姉さんの手を握った。

 「この世界の健太郎がくるのね」

 姉さんの緊張が手に伝わってくる。



「来た!」

 あれはもう一人の僕だ!いったいこのことをどう理解したら良いのだ。僕は単純に16歳の僕に転移したというわけではなかったのか!?

 廊下の先の君島健太郎の足が止まった。

 「この僕」に気がついたらしい。

 驚きの顔で目を見開いた僕が廊下の向こう側にいた。多分僕も同じような表情をしているはずだ。



「姉さん…」

 手をきつく握り直そうとすると握力がすっとなくなった。

 握るはずの姉さんの手は僕の掌から消滅していた。

 あたりは真っ暗になり、もう一人の僕も消え、僕は自分が闇の中で一人でいることに気がついた。

地下鉄のない街66 観ることは赦すこと

「姉さん」

「うん。大丈夫だよ。さっきの保健室の前。こっちの世界の健太郎は皆川くんを送って行ったよ」

 僕は自分で自分の顔を触ってみた。廊下の窓に映る僕はまた高校生に戻っていた。

「さっきのはいったいなんだったんだろう。父さんや母さんもいたようだし、トニーや失踪した春日井先生の弟さんまでいたみたいだった」

「うん。」

「姉さんにはあれが何処なのか分かってるのかい」

 姉さんは静かに頷いた。どこか寂しそうな、つらそうな微笑みだった。

「何処だったのかは多分もうすぐ分かるわ」

「いつその時何が起きるの?姉さんはどうしてそんなに寂しそうなんだい?」

 姉さんの目にすっと涙が浮かんで頬を伝った。




「もしかして僕以外の人はすべての事を知っているのかい?姉さんも春日井先生も木島先生も神崎先輩も西村も?」

 僕は焦燥感にかられて不機嫌な大声を出してしまった。姉さんは悲しそうに首を振った。

「違うのよ、健太郎。あなた以外の全員は何も知らなかったのよ。ずっと18年間。あたしもそうだわ。健太郎とこの世界を旅してお父さんの事やお母さんのこと、西村くんのラブレターのこと、何もかも知りつつあるの」

 姉さんのつらそうな顔に少しだけ優しさが混じった。

「ごめん。意味が全くわからない。僕は何も教えていない。姉さんと一緒にこの世界を観てきただけだよ。観たくもなかったこともたくさんあったよ」

 うん、と姉さんが小さく頷く。


「観ることは赦すことって皆川くんの声がしたわ」

「ああ」

「健太郎はそれを導いてくれたのよ、さっきいた全員に。みんなそれで救われつつあるわ」

 僕が何か言おうとすると姉さんは静かに首を振った。




「木島先生のところに行きましょう」

「なぜ?」

「皆川くんがそうしてって、あなたが目が覚める直前に」

「…」

「目を瞑って」

 姉さんは近寄ると僕のまぶたにそっと手を置いた。

地下鉄のない街65 何処?

「ここはどこなの姉さん」

 僕はまだ暗闇の中にいた。暗闇の中だったけれど姉さんの声ははっきり聞こえた。それから人の気配がした。数人いる。誰だろう…?何処かに横たわっている僕の顔を覗き込むように、数人が代わる代わる僕の顔に影を作っているようだった。

「姉さん、僕はまだあたりが真っ暗で何も見ないよ。ここはあの姉さんが事故にあった踏切なんだろ」

『意識が戻りました』

 誰かがつぶやいた。さっき僕を覗き込んでいた人たちが「ああ」という安堵の声を漏らした。安堵した声の中に父さんと母さんのため息が混じったような気がした。まさか?

「僕は気絶して学校から運ばれたのかい?姉さん。じゃあ、この世界と接点がでてきたの?」

 姉さんのすすり泣く声がした。




『君島くん、分かるかい?トニーだよ』

「トニー?なんで君がここに?君は飛行機事故で亡くなったんじゃないのかい?

 僕は懐かしさのあまり大きな声を出した。トニーはそれには答えなかった。代わりにトニーの鼻を啜る音がした。前よりもずっと日本語が流暢になっているようだった。




『君島くん』

 別の声がした。

「まさか、皆川くん?」

『ああ、久しぶりだね。ここに神崎先輩も西村さんもいるよ。それから木島先生と春日井先生も』

 さっきの人の気配はそれだったのか。




「父さんと母さんもいるのかい」

『あたしの横にいるわ、健太郎』

 懐かしい姉さんの声がする。さっきまで一緒にいたのに何十年ぶりかに声を聞いたような気がするのはなぜだろう。ここはいったい何処なんだ。




「ここはあの世かい?僕は暗闇の中で電車に轢かれて死んだのかい?」

『違うよ、君島くん、君はもっとずっとずっと長い眠りから目を覚ましつつあるんだ』

「その声は皆川くんだね、いったいどういうことだい?」

『姉さん、そろそろまた寝かさないと』

 姉さん?誰かの弟さん?さっき最初に『意識が戻りました』と言った人だ。


『そうね、あんまり長くならない方がいいわね。』

 春日井先生の声だ。ということは、この人は失踪した春日井先生の弟さん?







『そうだな、また来るからな、君島』『ああ』『またな』

 木島先生に神崎先輩と西村さん?





「待ってくれ、みんな何処へ行くんだい?僕はどうなるの?姉さん」

『あたしと皆川くんはまだここにいるわ。あなたにはそれが今必要だから』

「必要だから…?」

『僕と一緒に来てくれ、君島くん』

「皆川くんと?」

『もちろん君の姉さんも一緒さ』

「何をしに何処へ?」

『君が望んでいる場所さ』

「…そこで僕は何をすればいい?」

『見ていてくれたらいいんだ』

「何を?」





『アキレスが亀に追いつくかどうかをさ』

「…?」




 またすっと意識が遠のいた。

地下鉄のない街64 あの踏切

 あれは本当に僕だったんだろうか。もし僕だったとするならば、21年前の僕が38歳の僕を見たという記憶があるはずだ。しかし16歳の時の僕にそんな記憶はない。
 皆川君が西村にいろんな嫌がらせを受けた中に、確かに保健室前でキレた西村に殴られて血まみれになったということはあった。校内放送で呼ばれた僕は確かに保健室に急いだ。その記憶は確かだった。

 姉さんが消えてしまったことはどう解釈すればいいのだろう。僕が疲れきった38歳のサラリーマンを生きる世界から今のこの世界にきた時も、遠眼鏡で姉さんの部屋を一緒に覗いて自分たちが育った家に空間移動した時も姉さんは消滅したりしなかった。

 今回は16歳の僕自身が現れ、その僕がおそらく僕自身を見て驚愕したという事実が今までとは違っている。今までは言ってみれば僕たちは観客席から侵犯のできない舞台を眺めていたのだった。
 だから高校生の僕が今の僕、今の僕と言っても姿形は姉さんの一つしたの高校生になっているわけだけど、その僕を見て驚いたというのは自分と全く同じ存在を舞台から見て、役者が舞台上で驚いてしまったという劇の進行に致命的な影響を与えてしまったということになる。

 もし実際の舞台で、役者が実人生で子供の頃に生き別れた自分の母親を見つけたと仮定しよう。その役者は自分が舞台の中で一人の役を演じていることを思わず忘れてしまって、「お母さん!」と叫んでしまったとしよう。舞台はめちゃくちゃになり、取りあえず劇は中断して、騒ぎ出した観客席は舞台の上からおりてきた緞帳で舞台から遮断される。

 そうだ、舞台の上と観客席は「お母さん!」という叫び声によって接続されてはいけないのだ。さっきそれが起きたのだ。僕は向こう側の世界の僕に発見されてしまった。16歳の僕は「あ、もう一人の君島健太郎だ!」と叫びそうになった。そこで舞台の緞帳のようなものが、時空の混乱を防ぐための緊急の安全装置のように作動し、僕は観客席の側に隔離された。もともとこちら側の住人だった姉さんは、そうすると緞帳の向こう側にいるということになる。

 自分を落ち着かせようとここまで考えてきて、僕は確かに少し落ち着いてきた。しかし今度は混乱に替わって深い恐怖心がざわざわと僕に取り憑いた。

 姉さんにもう一度会えるんだろうか。

 この暗闇の中で僕は生きて行くんだろうか。

 16歳の僕は向こう側の世界で生きており、かといって38歳のもともとの僕の世界にも戻らなかった僕はいったい何なのだろう。おそらく38歳の僕は今のこの僕が戻ることなく、その生活を続けているのだろう。

 じゃあ、この僕はいったいなんなんだ。この真っ暗な世界では、僕という存在はただ、「僕」という意識、記憶だけだった。この世界には出口がない。
 僕は自分の顔にいきなりビニール袋をかぶせられたような錯覚を覚えて呼吸困難になりそうになった。



 何としてでも出口の手がかりを発見しないと、僕の意識はこの場で狂ってしまいそうだった。

 恐怖にとらわれた頭で必死に手がかりを探す中、昔読んだ小説の一節が頭に思い浮かんだ。

「音のない真の闇は、かえって鋭い金属音のような音を錯覚させる」

 誰だっただろう。三島由紀夫だったような気もするが違うかもしれない。でもその作家は今の僕と同じような真の闇を想像できる作家だったのだ。確かに自分の意識すらこの世に存在するのか疑わしくなるほどの闇の中、どこか遠いところで、「キーン」という金属音が聞こえるような気がした。

 僕はその金属音を逃さないように意識を集中した。今の僕にとって藁にもすがる思いのまさにその藁が、この金属音だったからだ。唯一僕の意識の外にあって、僕という意識が幻でないことを証明してくれるものだ。この金属音がなくなったら僕の意識そのものも消滅して、この僕はどの世界からも消滅するのだと思った。これが人間が死ぬということなのだろうか…。



 音が少し大きくなったような気がする。死を前にした恐怖のためにありもしない音がさらに大きくなったと思い込みたいのかもしれない。だとすればそれこそが僕の意識が錯乱しはじめた証拠であり、ロウソクの火が完全に消える前に一瞬だけその火の輪郭がぼうっと拡大するようなものなのかもしれない。眼球の瞳孔がカッと見開かれたのち永遠に視力を失うように、この金属音が拡大し切った時、突然僕の意識は終わるのではないかと感じられた。



 音は確かに大きくなってきた

 そして確かになってきた

 金属のこすれる音がする

 今度は金属のこすれる複数の音が反響する

 オーケストラが舞台の上で最終のチューニングをしている時のように複数の音が混じり合い、混沌からの世界の誕生を錯覚させた。

 音はかすかだがリズムを刻みはじめた

 リズムは心臓の鼓動のようだった

 どこか眠気を誘うようなの馬蹄のリズミカルな躍動感のある音



 僕は助かるのか?



 馬蹄の生命力にまた金属音が混じった

 轡のガチャガチャという音だ

 車輪が回転するようにガシャンガシャンとリズミカルに音を刻んでいる

 何かが僕に近づいているのか?

 それは何だ?




 この感覚は幻なんかじゃない!

 僕は助かるんだ!

 僕は助かるし僕は気が狂ってなどいない!

 まだわからないけど、この何かが迫ってくる金属音は確かに僕の記憶の一番深いところで僕の内部に存在する。これは現実の記憶なんだ!




 僕は力が湧いてきた

 姉さんにももう一度会えるはずだ

 この音の正体が確かめられた時

 この音が一枚の風景となった時!




 金属音に警笛の音が混じった

 低い音は最初どこかのどかにも聞こえた

 絵本で見た蒸気機関車が鳴らすような悠々とした音だった

 何度も警笛がなるうちに、それは焦燥の色を帯びてきた

 そして狂ったように連続して警笛は鳴った

 発狂しそうになっている運転士の引きつった顔が見える

 音はいつしか耳をつんざくような高音になっていた

 調弦の狂った弦楽器に音程を外した管楽器の音が混じり合い、ティンパニーは力の限りデタラメに殴打された。






 姉さん、また会えたね。

 よかった

 僕ね

 死ぬかと思ったよ

 ホントに…





 電車の長く持続する急ブレーキの音が警笛の絶望的な低音と混じり合った。踏切のカンカンという音が誰も踊らない舞踏の伴奏をしているかのように滑稽に鳴り続けている。

 救急車の音、群衆の悲鳴と叫び声。だれかが怒鳴っている声は不思議ととても遠くの声のように聞こえる。



 よく覚えているさ

 ここはあの踏切だね…姉さん


「来たんだね、健太郎」

「うん」
ゆっきー
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