「トニーがね・・・」
姉さんはトニーの名前に少し首をかしげた。
脈絡が飛んでしまうのは僕がとても話しづらいことを話してている証拠だ。そのことを姉さんはよくわかってくれている。トニーがどうしたんだろう、姉さんは今までの断片的な僕の話を頭の中でつなぎ合わせようとしているようだった。
「トニーがどうしたの?」
「木島が裏で糸を引いているのを知ったきっかけはトニーなんだよ」
「トニーがなんで?」
僕はあの日の不思議な光景を今でもありありと思い浮かべることができる。
いつものように下校時はトニーとふたりきりだった。その日トニーは買いたいCDがあるということで、学校から電車でターミナル駅まで出た場所にある大きなレコード屋に僕を誘った。
ビルの上から下まで各ジャンルのCDを取り揃えている大型レコード店で、僕達はその日、飽きることなくかなり遅くまでCDを視聴したりしていた。帰りの電車に乗るために駅に向かったのはもう8時を過ぎた頃だった。
トニーは買いたいCDが全てあってご満悦だった。そこそこ洋楽も知っていた僕だけど、僕が知らないハードロックバンドのCDを見つけて「日本も捨てたもんじゃないな」と妙な褒め方をしていた。トニーに言わせると、あの大きなビルのレコード屋だけがアメリカのヒットチャートの影に埋もれている本当のいわゆるマニア受けするCDを置いているらしい。
僕は駅に向かう途中歩きながら、「ちょっとライナーノーツだけでも見せろよ」と僕はトニーに言って、買ってきたばかりのCDが入っている袋を開けさせようとした。
ところがトニーが視線を前に向けたまま何も反応しないので、おかしいと思った僕はトニーの顔を覗き込んた。
紺の詰襟のブレザー。もちろん僕も同じ物を着ていた。でも、夜のターミナル駅へ向かう路上で改めてトニーを見てみると、それはとても不思議な感じがした。
小さい頃、商店街のショーウインドウに青い目をしたマネキンが、路からそれを眺める僕の視線にはまったく無頓着に、僕の背をはるかに通り越して遠くを見ていたのを思い出した。マネキン人形はどんな人形でも僕には悲しそうにしているように見える。他の人がそう見えるのかどうか分らない。でも僕にはマネキン人形というのが、なにか別の世界から間違ってこの世に来てしまった孤児のようにしか思えなかった。
僕の背を、僕の視線の存在を全く無視して遠くをいつでも眺めているマネキンのその目の先は、多分どこにもない自分の故郷を見ていたのだと僕は思う。生まれたところ育った家も知らない。両親の顔も。しかし自分は日本という国の名もない商店街の何とか銀座という色あせた看板の近くの、一日に何人かしか客も来ないような洋装店のショーウインドウに立っている。
そして、何より僕が異様に感じたのは、そのマネキン人形は時々日本人しか着ない服を着せられている時のことだった。
七五三の時には七五三の和服やタキシードを。テレビで何か突発的なファッションが流行ればその格好を。夏には海水浴場に行くようなラフな格好にうきわを持たされていた。そして春が始まる季節には毎年学生服を着ていた。
僕はトニーの姿を毎日見ていたはずだけど、その時のような感じをトニーに重ねあわせたのはそれが初めてだった。
僕はその時何の脈絡もなく、トニーのこの日本での孤独というものを感じたのだった。そしてトニーが転校してきたその日トニーが一瞬で僕の何かを見抜き、自分と同類の何かを僕に感じたことを思い出した。
もしかしたらトニーもまたあの時、今僕が感じたような僕の中の孤独を感じ取ったのかもしれないとあの時思ったものだった。
トニーと目が合った。
トニーが笑った。
トニーはあの日教室で自己紹介をした後、僕を見つけて小さくだれにもわからないように微笑んだあの表情をしていた。 もしかしたら僕は孤独な人間だったのかもしれないな、と今更そんなどうでもいいことを思った。わかっていたけれど。それは僕が異様と感じたあのマネキン人形と同じくらい孤独だったのかもしれない。ただ、それを認めたくなかったのかもしれなかった。余りにも突き抜けた孤独は突き抜けた哀しさしかそこにない。ただ孤独がそこにあるという事実だけで何の意味も語りもしない孤独からは、多分人間は無意識のうちに目をそらすんだと僕は思う。
僕はターミナル駅付近で突然そんな気持ちにとらわれていた。
永遠に交わることのなかったあの幼い頃に見た青い目の人形。
多分その時僕とトニーは、交わることが極めて稀な眼差しをこの雑踏の中で交換してしまい、そのどうしようもない孤独をお互い確認してしまったのかもしれなかった。
その時トニーが僕の目を駅の方に誘導した。
僕は視線の先を追った。
驚いた。
視線の先にはもう一人マネキンのような目をして、僕達の方を向いている綺麗な女性がいたから。
隣にいたトニーと違い、雑踏の先にいたその人に気がつくことはもっとはるかに稀のはずだった。
でもあの人は確かにそこにいた。
そしてこちらを向いて微笑んでいる。見つけたのか見つけられたのか分からなかった・・・。
僕とトニーはなんとなく曖昧な会釈をした。
同類を見抜き合ったあの日の教室のように。
学校で見る時とは全く違った春日井先生が、僕たちに静かに優しい会釈を返してくれた。