地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街33 マネキン人形の目が見たもの

「トニーがね・・・」

 姉さんはトニーの名前に少し首をかしげた。

 脈絡が飛んでしまうのは僕がとても話しづらいことを話してている証拠だ。そのことを姉さんはよくわかってくれている。トニーがどうしたんだろう、姉さんは今までの断片的な僕の話を頭の中でつなぎ合わせようとしているようだった。

「トニーがどうしたの?」

「木島が裏で糸を引いているのを知ったきっかけはトニーなんだよ」

「トニーがなんで?」

 僕はあの日の不思議な光景を今でもありありと思い浮かべることができる。

 いつものように下校時はトニーとふたりきりだった。その日トニーは買いたいCDがあるということで、学校から電車でターミナル駅まで出た場所にある大きなレコード屋に僕を誘った。

 ビルの上から下まで各ジャンルのCDを取り揃えている大型レコード店で、僕達はその日、飽きることなくかなり遅くまでCDを視聴したりしていた。帰りの電車に乗るために駅に向かったのはもう8時を過ぎた頃だった。

 トニーは買いたいCDが全てあってご満悦だった。そこそこ洋楽も知っていた僕だけど、僕が知らないハードロックバンドのCDを見つけて「日本も捨てたもんじゃないな」と妙な褒め方をしていた。トニーに言わせると、あの大きなビルのレコード屋だけがアメリカのヒットチャートの影に埋もれている本当のいわゆるマニア受けするCDを置いているらしい。

 僕は駅に向かう途中歩きながら、「ちょっとライナーノーツだけでも見せろよ」と僕はトニーに言って、買ってきたばかりのCDが入っている袋を開けさせようとした。

 ところがトニーが視線を前に向けたまま何も反応しないので、おかしいと思った僕はトニーの顔を覗き込んた。
 紺の詰襟のブレザー。もちろん僕も同じ物を着ていた。でも、夜のターミナル駅へ向かう路上で改めてトニーを見てみると、それはとても不思議な感じがした。

 小さい頃、商店街のショーウインドウに青い目をしたマネキンが、路からそれを眺める僕の視線にはまったく無頓着に、僕の背をはるかに通り越して遠くを見ていたのを思い出した。マネキン人形はどんな人形でも僕には悲しそうにしているように見える。他の人がそう見えるのかどうか分らない。でも僕にはマネキン人形というのが、なにか別の世界から間違ってこの世に来てしまった孤児のようにしか思えなかった。
 僕の背を、僕の視線の存在を全く無視して遠くをいつでも眺めているマネキンのその目の先は、多分どこにもない自分の故郷を見ていたのだと僕は思う。生まれたところ育った家も知らない。両親の顔も。しかし自分は日本という国の名もない商店街の何とか銀座という色あせた看板の近くの、一日に何人かしか客も来ないような洋装店のショーウインドウに立っている。

 そして、何より僕が異様に感じたのは、そのマネキン人形は時々日本人しか着ない服を着せられている時のことだった。

 七五三の時には七五三の和服やタキシードを。テレビで何か突発的なファッションが流行ればその格好を。夏には海水浴場に行くようなラフな格好にうきわを持たされていた。そして春が始まる季節には毎年学生服を着ていた。 

 僕はトニーの姿を毎日見ていたはずだけど、その時のような感じをトニーに重ねあわせたのはそれが初めてだった。

 僕はその時何の脈絡もなく、トニーのこの日本での孤独というものを感じたのだった。そしてトニーが転校してきたその日トニーが一瞬で僕の何かを見抜き、自分と同類の何かを僕に感じたことを思い出した。

 もしかしたらトニーもまたあの時、今僕が感じたような僕の中の孤独を感じ取ったのかもしれないとあの時思ったものだった。

 トニーと目が合った。

 トニーが笑った。

 トニーはあの日教室で自己紹介をした後、僕を見つけて小さくだれにもわからないように微笑んだあの表情をしていた。

 もしかしたら僕は孤独な人間だったのかもしれないな、と今更そんなどうでもいいことを思った。わかっていたけれど。それは僕が異様と感じたあのマネキン人形と同じくらい孤独だったのかもしれない。ただ、それを認めたくなかったのかもしれなかった。余りにも突き抜けた孤独は突き抜けた哀しさしかそこにない。ただ孤独がそこにあるという事実だけで何の意味も語りもしない孤独からは、多分人間は無意識のうちに目をそらすんだと僕は思う。

 僕はターミナル駅付近で突然そんな気持ちにとらわれていた。

 永遠に交わることのなかったあの幼い頃に見た青い目の人形。

 多分その時僕とトニーは、交わることが極めて稀な眼差しをこの雑踏の中で交換してしまい、そのどうしようもない孤独をお互い確認してしまったのかもしれなかった。



 その時トニーが僕の目を駅の方に誘導した。

 僕は視線の先を追った。


 驚いた。

 視線の先にはもう一人マネキンのような目をして、僕達の方を向いている綺麗な女性がいたから。

 隣にいたトニーと違い、雑踏の先にいたその人に気がつくことはもっとはるかに稀のはずだった。

 でもあの人は確かにそこにいた。

 そしてこちらを向いて微笑んでいる。見つけたのか見つけられたのか分からなかった・・・。



 僕とトニーはなんとなく曖昧な会釈をした。

 同類を見抜き合ったあの日の教室のように。



 学校で見る時とは全く違った春日井先生が、僕たちに静かに優しい会釈を返してくれた。

地下鉄のない街34 木島との待ち合わせ

「実はトニーもね、保健室の住人だったんだ。なんとなくクラスに馴染めない雰囲気は帰国するまで続いたし、彼が外国人だったせいもあって、時々トニーが保健室で過ごしていたのは教師もクラスの皆も暗黙の了解みたいなところがあったんだ」

 僕はつぶやいた。

「それで春日井先生を雑踏の中ですぐに見つけたのか」

 姉さんは頷いた。

「そうだね。それとその後すぐわかったんだけど、トニーと先生はあの駅で前にも出くわしたことがあるらしいんだ」

「へえ、それはどうして?」

「うん、トニーの音楽の趣味と春日井先生のそれが同じでさ、春日井先生も僕らが行ったレコード屋に日本では手に入りにくいアメリカのマイナーバンドのCDをよく買いに行ってたらしい」

 姉さんは納得顔になった。

「じゃあ、保健室でサボって買ってきたCDでも聴いてたのかな」

「うん。あるいはそうかもしれない」

 僕はトニーと先生の間に、保健室の養護の先生と生徒という関係に加えてある種のかすかな交流関係のようなニュアンスを感じていたのだけど、それはあの時にはっきりしたのだった。

 春日井先生はトニーの右手にあのレコード屋の紙包みを見ると、ああ、と笑いかけた。トニーも紙包みを自分の肩まで上げてにっこり頷いていた。そのまま駅の方向に僕らは歩いて行き、先生が立っていた駅前のロータリーの所で立ち話をした。トニーも春日井先生も僕の知らない音楽の話を楽しそうにした。バンドン名前は幾つか出てきたけど、僕には聴いたこともない名前だった。

 春日井先生との結びつきをなんとなく羨ましく思った時だった。春日井先生が僕に話しかけてきたのだ。

 春日井先生は僕に陸上部での皆川くんのことを聞いてきた。話の主要な部分は終始顧問の木島先生についてだった。

「しばらく木島のことを聞いた後ね、『これから実は木島先生に会うの』って皆川先生は僕らに言ったんだ」

 僕は姉さんにそう言った。

「それで学校からあえて離れた駅で待ち合わせか・・・」

「うん、それでね。実はあなた達にも関係のある話だから、一緒に話を聞いてみてはどうかって言われたんだ」

 姉さんは話の展開に少し驚いたようだった。

「なんで同席させたかったんだろう。それに、偶然道であんんたたちに出くわしたのに、木島先生との待ち合わせに学校の生徒をいきなりつれていくってなんか強引だなあ」

 当然だった。

「そうさ。だから・・・というか、もっと強引なのかもしれないんだけど・・・」

「どうしたの?」

「春日井先生は僕らに、自分たちが話しているすぐ後ろの席あたりで気付かれないように話の内容を聞いていればいいって言ったんだよ」

「!?。なんだかおかしな話になっていったんだね」

「そうさ」

 僕はあの時の春日井先生の、不思議と淡々とした表情を思い出しながら頷いた。

地下鉄のない街35 同級生

 学校以外で見る先生というのはとても不思議な感じがしたよ。

 ううん、そうじゃない。春日井先生が普段と違っていたのはもちろんさ。養護の先生だから普段は白衣を着てるよね。あの白衣って独特の感じがしたんだよ。あの頃の僕ら男子生徒にとって。ああ、姉さんたちもかい。そうかもね。なんていうのかな、僕たちの話に出てきた言葉で言うと、聖職者ザビエルみたいなね、あの皆川先生の白衣が、教科書のザビエルみたいに現実世界との間に何かはっきりした境界線を作っているようにも思えたんだ、少なくとも僕にはね。

 姉さんはわかるよ、といった顔で頷いてくれた。

 でもね、僕とトニーが春日井先生のシナリオ通り先に待ち合わせの店、うん、和食の座敷のある店だったんだけど、完全な個室じゃなくってお客さんが立ち上がっても顔をつき合わすことがないような背の高い屏風のようなついたてで仕切られてたんだ。そうそう。だからこっちが静かにしていれば隣の座敷でしゃべっている人たちの声ははっきり聞こえるんだよ。そこに約束の時間より少しだけ遅れてきた木島先生を僕とトニーも一瞬だけ、先生が予約していた座敷の場所を確認するために入り口のレジのところで確認した時にね、ちらっと見たんだ。

 木島先生の姿もやっぱり学校とは違ってたよ。だから白衣のせいだけじゃないんだなって僕は思ったんだ。僕はね、変な想像をしたんだ。学校ってさ、なんだか巨大な演劇の舞台なんじゃないかって。学校での役割を離れたところでは、ふたりとも少し別の人間にも見えたんだ。

 例えばさ、姉さん。姉さんと僕がどこか遠いところに旅行して、その旅先で絶対に会わないはずの人にあった時に僕達はどうするかな。例えばその旅先で普段近所ですれ違うと挨拶している人にあったとしたら。そうさ。僕らは多分声はかけないと思う。なんていうか、普通のプライバシーの侵害よりももっと罪深いことのような気がする。本人さえ滅多に覗き込むことのない秘密の世界に土足で足を踏み入れるみたいな感じがしないかい?例えばそれはその人の生まれ故郷だったのかもしれない。そこには普段挨拶だけしているおばちゃんの青春の思い出やらなくなった両親の思い出やら、忘れてしまいたいこと、忘れられないことなんかがたくさんあるはずなんだ。だから僕らは声をかけることがばからられてしまうんだと思う。

 学校というのももしかしたらそんなところなんじゃないんだろうか、そんなことをぼんやりと思ったんだ。蛍の光、我が師の恩、友との別れ、永遠の友情、純真な恋。そんな思い出の場所。でも不思議だね。そんな思い出は実際にはどこにもないんだよ。みんなそんなものが嘘っぱちだって知っている。でも、かつて一度もそういうものがあった試しがなかったのに、僕らはそういう学校生活を過ごしたんだって、卒業から遠ざかれば遠ざかるほどそんな気がしてくる。一種の信仰かもしれないね。自分の青春時代は美しかったっていう。

 みんな不可侵の思い出を持っている。そしてありもしないそういう場所を大事に守って育てていく。そんな奇妙な舞台が学校っていうところなんじゃないかなって、春日井先生と木島先生を和食店という場所に置いて観た時、僕はそんな気がした。

 ふたりとも自分の過去の何かを投影しながら、学校に戻ってきたんだよ。まだ舞台は終わっていなかったんだよ、きっと彼らにとっては。


 卒業してから教師という職業を選択してその思い出を現実の歴史に接穂しようとしている人達がいる。もともと造花だったにもかかわらず、そこに自分たちの生身の手で枝を継いでみれば、その枝がやがて贋物だった台木の造花すらも自分たちのもってきた穂木で美しくうやむやにできるとでも信じているみたいにね。そして、それは先生たちの世代のまたその前の先生たちも同じようにしてきたことなんじゃないかなって。だから学校というのは、いつかそれが舞台でなくなることを信じている特殊な演劇青年たちが、舞台の作り方を伝承している特殊な空間なんじゃないんだろうか。

 そして、毎日僕らを付きあわせては、こう言うんだ。「俺達が学生の頃はそうじゃなかった」とか、「俺達もお前たちが今感動したのと同じように感動したんだ」とかね。些細なことを捕まえては、自分の思い出と照合して何かを確認しようとしてるんだ。だって彼らはそのために学校に戻ってきたんだからね、多分・・・。そして僕らがシナリオ通りに動かないと自分の思い出すらも穢されたように感じるのかもしれない。

 そのたびに僕らはその舞台に付き合わされていることを思い出す。そして、卒業という大きな幕が降りるまではその舞台から決して逃れられない。そのことをときどき絶望的に確認するんだね。


 そう考えてみれば、春日井先生が僕らを自分たちの会合の場所に呼んだのもそんなに特殊なことじゃないのかな、なんて思ったりもしたよ。

 そうさ、課外授業だね、いわば。

 学校での演劇を外の舞台で演じてみせるというだけだったのかもしれない。いや、そうじゃなくてもっと絶望的に・・・僕らにはもしかしたら学校の外にも自由はなかったのかもしれない。

 その証拠にね・・・。





 僕はあの時の驚きを思い出していたので、目の前の姉さんに相槌を求めることもなくここまで一気に話をした。




「その証拠にねあの二人は同じ中学の卒業生だったんだよ。」

「え?」

 姉さんはさすがに驚いた顔をした。





『久しぶりね』

『そうだね、春日井さんとはうちの学校でも二人で喋ったことはなかったね。』

『そう。こうやって二人でしゃべるのは中学以来よ』


 僕の耳に二人の親密そうな声が蘇った。

地下鉄のない街36 姉さんと西村

「 先生たちの話を聞いているうちに、春日井先生が僕たちを誘ったわけはだんだんとわかってきたよ。確かに僕にもトニーにも関係のある話だった。
木島先生としてはね、皆川くんの一件にかかわらず、トニーも時々避難所にしていた保健室のという場所をなくしてしまいたいというのが本音みたいだったんだ。

 いや正確には保健室を、怪我の手当や気分の悪くなった生徒を回復させる場所に限定したかったということかな。メンタルな部分はいつも閑古鳥のないている、学校の外部から専門家を呼んで常駐させているカウンセリングルームの仕事にさせたかったみたいなんだ。

 そうそう。一応そういう場所ってあったよね。でもさ、人に言えないメンタルな部分をさ、学校がお墨付きを与えたそういう場所に誘導してガス抜きさせるってなんか変な話だよね。春日井先生の保健室は心が壊れそうな生徒が自分の鼻で探り当てた信用できる場所だった。でもあのカウンセリングルームって、いかにも学校側の機関っていう匂いがプンプンしてて気味悪かったよね。そんな場所は生徒は信用しないよ。

 木島先生はね、皆川君みたいにクラスから浮いちゃった生徒はどんどんカウンセリングルームに放り込んで、クラスに順応できるように再教育したかったみたいだね。そのために学校がかなりの予算を割いてそういう場所を作ったんだからっていう話を木島がしてたよ。やんなっちゃうよね。やっぱり僕らの鼻は正しかったんだ。あのカウンセリングルームは学校の秩序を維持するために僕らを洗脳する場所だったわけさ。」

 姉さんは、そうだねと小さく相槌をうって頷いた。

「例えばトニーがカウンセリングルームに行ったら、クラスにうまく溶け込めない外国人生徒の悩みっていうことで、教科書の棒読みたいなカウンセリングが行われるってわけね」

 僕は先生たちの話を聞いていたトニーの顔を思い出しながら笑った。

「そうさ。トニーも衝立て越しに先生たちの話を聞きながら、そういう学校側にだけ都合のいい目論見はあり得ないって感じで首を横に振ってたよ」

 姉さんも苦笑する。

「そっかあ。それで木島先生は、保健室に用もないのに押しかける皆川君憎しの生徒の動きを利用して、保健室の機能そのものを麻痺させようとしたんだね」

「そうみたいだね。保健室が溢れかえっていろいろと支障が出てるからっていうことで、学校お墨付きのカウンセリングルームっていう生徒の心の収容所を復権させようとしたわけ」

姉さんはやれやれと言った顔をした。

「トニーに関係しそうなのはわかったよ。春日井先生はそういう現状をなんとかしたいと思っていて、でも自分一人の力では状況的にどうすることもできないかなり不利な立場に追い込まれていた。だから保健室の常連さんのトニーに何か協力して欲しかったのかな」

「多分そうだね」

「じゃあ、あんたに関係ある部分ってなんだろう。さっきそう言ったよね。春日井先生が呼んだのは自分にも関係あることだったって」

「うん。話が進む間にね、木島の口からポンポン僕の名前がで始めたんだよ」

僕はあの時の戸惑いとやり場のない怒りを思い出していた。

「なんで健太郎の話が?」

「陸上部のスター神崎さんの腰巾着西村さんだよ。」

「皆川君が凄いタイムで走り終わった後にタオル持って行って、そのタオルを皆川君に叩きつけられちゃった人ね」

 姉さんは何か少し含んだような笑い方をした。

「そうそう。その西村さんが陰で僕を陥れようとあれこれやってる話が出てきたんだ」

「西村君ね…」

「あれ?姉さん何か西村さんのこと知ってる?」

 別にどうでもいいことなんだけど、そんな表情でこくりこくりと姉さんが何度か頷いた。

「実は何度か手紙をもらったことがあったんだ」

「え?手紙ってラブレター?」


 今度は姉さんはふふと鼻で笑った。

「そ。返事も何もしなかったんだけど随分もらった。それっきりだったからさっき皆川くんのところにタオルを持っていった話で西村くんの名前が出た時も聞き流したんだけどね」

「あれれ、それは知らなかった。知らなかったけど・・・」

「そう。なんだかあたしも関係してきたみたいね」

 姉さんが少し真面目な顔に戻った。

「ラブレターに何か書いてあったの?」

「うん。まあね。・・・。でも後でいいよ。その話は。まずは健太郎の話の続きを教えて」



 僕は頷いた。
 
 僕はまた、僕と姉さんがここで再開した本当の理由に近づいてしまったような気がした。
ゆっきー
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