「西村さんはね、つまりうちの親父と同じだよ。僕が心の底から神崎さんに心服していないっていういいがかりさ」
僕は西村のあの小狡そうで神経質な目を思い出した。
「それってさっき言ってた隠れキリシタン狩りみたいなの?」
「そう。練習次第で僕が神崎さんよりも速くなりそうだっていうことはきつく口止めされてたから、僕自身も僕の走りを最初に見た部員も口をつぐんでた。だから後から入ってきた後輩なんかはそういうことはまるでしらない」
「うん」
「でもさ、言わないって言ってるのにそれを気にするってあるのかもね。犯罪の現場を目撃された犯罪者が不安でいても立ってもいられなくなって、ついに目撃者も殺しちゃうみたいなさ・・・」
姉さんは少し腑に落ちないという顔をした。
「それもまあ、分からないでもないけどさ。でもなんで、神崎さん本人じゃないの?」
僕はふぅと大きくため息を付いた。
「だからそういうことが木島先生の口から春日井先生に語られたりするわけなんだ。木島が作ったシステムだからね」
「どういうこと?」
「木島先生の言うには、神崎さん本人はあれでやむを得ない犠牲者みたいなところもあるらしい。何が何でも神崎というスター性を維持して学校内外にアピールし続ける必要があったみたいだね」
「何のために?」
「将来有望なスプリンターという伝説さ。まず陸上部にとってはそういう伝説にしておけば理事長の覚えめでたく陸上部には例年破格の予算が割り振られるから美味しい思いをする人も多くなる。それに互い的にも陸上競技界で大きな顔ができるとか、対外的には良い生徒を全国から集めやすいとかね」
姉さんは呆れた顔をした後僕と同じようにため息を付いた。
「でもさ、そんな虚しいことやっても結局記録が全てなんだから簡単にバレると思うけど。学内はあんたや皆川くんを封じたみたいに偽の1位という地位を保つことができても外ではそうはいかないでしょ」
「まあね。でも将来性っていうマジックワードがあってね。例えば野球にしても陸上にしても必ずしも全国大会で名前を残さなくても強豪の伝統校の大学には入れるんだよ。将来性があればね。甲子園に一度も出たことなくても六大学に行ってそこで鍛えられてプロで活躍している選手なんていうのは山ほどいるしさ」
姉さんは半分納得した顔をしながらもまだ半分は腑に落ちないという風だった。
「で、神崎さんが犠牲者っていうのは?」
「木島先生いわく、神崎さんはほとんど傀儡政権の旗印みたいなもんで、本人も大した才能もない自分がポジション的に都合良く利用されていることをよく自覚していたみたい」
「自覚って、まさかあんたや皆川くんみたいな有望選手のことを取り巻き連中が潰していくことも?」
「そういうこと」
姉さんは一瞬怒こったような顔をしたけどすぐに吹き出した。
「ばっかじゃないの。何なのそれ?」
「そう。ばかばかしいんだけど、それが木島の創りだした愛の互助システムらしい」
「は?愛の?」
僕が木島システムのことを昔みんながそう呼んでいたように言うと、姉さんは今度はたまらずゲラゲラと笑い出した。僕も一緒に笑った。笑えなかったあのシステムをこうやって腹の底から笑い飛ばすことがもし中学のことできたとしたら皆の、そして僕や姉さんのその後の人生も変わっていたんだろうな、僕は笑い終わると再びどんよりした重苦しい後悔の念に囚われた。
「西村はその木島システムのために、この際皆川くんと僕をもろとも抹殺してやろうと思ったわけさ。そういう不穏な動きについて春日井先生に問われるままに木島がいろいろしゃべってた。西村たちにとってみたらそういう栄光の、でかい顔できる、ついでに自分たちも陸上の推薦で有名大学にも運んでくれるもろもろのシステムが壊されるのは自分の現実や将来が壊されるのと同じだったってわけ。コバンザメは自分がひっつく親に頑張ってもらわないと自分が死んでしまうからね」
笑い終わると姉さんは僕の表情を気にしながらの呆れ顔でため息をついた。
「木島システム、愛のだっけ・・・。その馬鹿馬鹿しいシステムが誤作動してあんたが不幸になったり皆川くんが結局自殺することになったっていうわけなの?じゃあ健太郎もかわいそうな被害者なんだね」
簡単に言うとそういうことなんだ・・・。いや違う・・・。そうであってくれたらよかったんだけどね・・・。
でも、もうそろそろ言う時が来たみたいだね。
僕が姉さんとこうしてここでこんな話をしているのは、あれから二十数年間も僕の中でそのことが消えずに僕を苦しめ続けていたからなんだ。そして、そのことはさっきの西村と姉さんとの接点の話を聞いて、どうやら姉さんにも遠く関係しているらしい。
姉さんがこうしてここにいるのもきっと、このことに関係した理由があるに違いない。もう今が言うべき時なんだ。僕は観念した。
何十年分の深呼吸をして、僕は二十年来の固く封印した秘密を口にした。
「誤作動してよかったんだよ。もし誤作動していなかったら僕は確実に人殺しになっていたからね」
姉さんは一瞬無表情になった。そして静かに聞いてきた。
「どういうこと?あんたが誰を殺していたっていうの?西村さんを?」
僕は自分の気持を落ち着けるように何度も首をゆっくり振った。あれが幻でなかったことを体で実感するようになんどもそうした。
「違うよ。皆川くんをさ。僕は皆川君を殺すつもりだった。僕はシステムの誤作動によって寸前の所で皆川くん殺害の犯人にならずにすんだんだよ。そして自殺に追い込んだ。どっちにしても皆川くんを殺したのは僕なんだ」
ステレオのボリュームを急速にひねったように、この世界から音が消滅した。
僕は姉さんに手をひかれて公園のベンチに腰を下ろした。姉さんがおでこを僕の額にくっつけて何かささやくように言ったようだけど、僕は何も聞こえなかった。
僕はあの頃のように姉さんの胸に抱かれた。体中の力が抜けてすっかり姉さんに体を任せると、姉さんは僕を抱きかかえるように肩を抱いてくれた。
ジッ・・・
鋭い音がして蝉が一匹飛び立ったようだった。
なぜだかその音だけは耳をつんざくようにはっきりと聞こえた。
姉さんが頬を撫でてくれた。
僕は自分が姉さんの膝で痴呆のよう涙をたれ流していることに気がついた。
姉さんの膝で永遠にこのままでいたかった。