地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街115 「愛」がばらばらになる

「私は最初は娘が何を言っているのか分かりませんでした。あの子の顔を某然と見ていたのだと思います。そしておぼろげながら言っていることの意味がわかりかけた途端、私はもう一度笑い飛ばそうとしました。それでも、あの子の真剣な顔をみるとその笑いはまるで上から墨を塗られたように真っ黒なりました。次に私は、気が動転していたのか、今の娘の言葉がまったく聞こえなかったふりをしようとしました。別の話を無視して始めようとしました。ズルいですね。恥ずかしいと思います、そんな見え透いた嘘。次に私は娘を思いっきりしかり飛ばそうとしました。でもそうしようとしてあの子の顔を見ると、今度は私は娘の頬を伝う涙に怒りを引っ込めなければならなかったのでした。」


 会場は咳払い一つなく、すゑさんの息遣いだけが広い会場の空気を揺らした。


「そこで私はやっと、とにかく娘の話を聞かなければならないと思えたのでした。主人はその頃すでに脳血栓の後遺症で寝たきりの生活でしたから、娘との話を聞かれる心配はなかったのですけど、私はあの子の部屋でじっくりと夜中になるまで話を聞いたのでした。」


 70代の親が50代の娘の反抗期に戸惑う。そんな感じだろうか。でもかなり深刻でいったいすゑさんはどう対処したのだろうか。いろんな家庭があるものだな。僕は父さんと母さんの不仲を思い出した。


「わたしは自分の部屋から古い日記帳を持ってきました。わたしは何十年もめくったことのない自分の日記帳をめくりました。どのページにも娘の名前が踊らない日はありませんでした。漢字一文字の当時としてはハイカラな名前でしたね。わたくしお話をする前に娘の名前は言わなくてもいいですね、と言いましたが「愛」という字を書いて「めぐみ」と言うんですの。少し当て字のようですが、夫が可愛がってもらっていた陸軍士官学校の先輩につけていただいたのでした。愛と書いてめぐみ。わたしども夫婦の幸せの証、いえ、生きてきた証そのものですね。でも、その文字を見ればみるほど、なんだか「愛」という字がバラバラに見えてきました」


 すゑさんは、愛という字を右腕で大きく会場のみんなに向かって、虚空に書いて見せた。


「みなさんもご経験が一度はおありになるのではないでしょうか。漢字って不思議ですよね。普段何も気に留めていない時は、普通に違和感がありません。でも、何かの拍子に、そう…。あれ、この漢字って点を打つのだっけ、それとも打たないのだっけとか、書いてる途中に不安になって字引など引きます時に、しげしげとその漢字をながめていると、漢字そのものがばらばらに見えてくる。「愛」だったらカタカナの「ノ」の下にカタカナの「ツ」。かんむりを書いたすぐ下に「心」そして「久しい」。そう書いて「めぐみ」。本当にめぐみっていう感じはこれで良かったのかしら、わたしはとても不安になりました。私の知っている特別な漢字。私の幸福な記憶そのものと言っていい「愛」という字が「ノ」と「ツ」と「心」と「久」にバラバラになって、私に不気味に笑いかけているように感じられてきて怖くなりました」





 壇上にいる南堂社長はおそらくこの話も詳しく知っているのだろう。神妙な面持ちで、下を向いてうつむいていた。

地下鉄のない街116 デジタル時計

「私は日記帳や写真を指差しながら、娘に向かってあなたがどれだけ愛されてきたのか。私たち夫婦にとってかけがえのない宝物だったかをゆっくりと話し始めました。わたしは徐々に心が落ち着いてきました。小学校に入学した時のことや誕生日をお祝いしたこと、一つ一つが頭に思い浮かびました。


 でも娘は無表情でそれを聞いているだけでした。わたしはともかくも日記やアルバムのページをめくりました。


 そのうちにだんだん恐ろしいことが起きてきました。さっきの「愛」という文字がバラバラになった感じと同じように、日記帳がバラバラに感じられてきたのでした。日記はほぼ毎日、何十年に渡って書いてきました。日記帳だけで一つの本棚の何列かの棚が埋まっているほどです。だからその日付はずっと何十年も繋がって、何十冊にも渡って今の私たちに繋がっているはずです。本棚をみると、背表紙にあの子が生まれた頃からつけ始めた年代から今の年代まで、見た目はずっと繋がっているんですね。でも何だか繋がってない。わたしは落ち着かない気持ちで、あの子の節目節目の出来事を探しました。賞をとったピアノの発表会や受験の合格発表、夏休みに外国に旅行したこと、確かに探せばその一つ一つは日記の中に見つかりました。


 そして、この思い出の出口が今目の前にいるこの子に繋がっている、それを確かめたくてわたしは古い日記に書かれた私の字を見ながら、何度も娘を見ました。もちろん日記に書かれているのは子供の頃。今目の前にいるのはもう初老にさしかかったあの子です。でも、さっきまではその年をとったあの子の中に、わたしはいくらでも小さかった頃のあの子を、ごく自然に重ね合わせることができたのです。


 恐ろしいことに、日記帳のエピソードがバラバラになって見えてきただけではなくて、この日記帳と今目の前にいる娘のとの、そのつなぎ目が見えなくなってきたんです。




『私はお母さんの本当の娘じゃないわ』

 まさにそう思った瞬間に、また娘が静かにわたしにそう言いました。


 確かに私はあの子のすべてを知っているわけではない。日記の日付は綿々続いている。でもその間は私は知らないのです。ちょうどデジタル時計のように、10:00分も12:30分も夜の21:40分も日記には書いてあります。でも、それはあの子の人生の瞬間を、自分に都合良く、自分がいいと思ったことだけ、自分に理解可能なところだけ、自分が残したいところだけ自分の都合で切り取っただけかもしれない。膨大なあの子の全体の姿を私は確かに知らないのかもしれない。


 わたしはもう一度日記帳の背表紙を見ました。

 アナログ時計針のような滑らかな繋がりはなくなって、本棚にはバラバラな書類をまとめた束が日記の姿をして無造作に並んでいるだけのように見えてきました。娘をみると、そこに私の知らない表情をした娘に似ている初老の一人の人間が座っていました。


『あなたはあたしのことを何も知らない』

 わたしは自分でしゃべることをやめ、目の前の私とは別人格を持った一人の女性の話を聞き始めました。」

地下鉄のない街117 娘の変貌

「娘は言いました。
『私の人生を返して欲しい』と」

 すゑさんは、穏やかな笑みを浮かべながら静かにそう言った。



「娘がその人に会ったのはほんとの偶然だったそうです。あの子はいつもお昼ご飯を済ませたあと二時間ほど近所の喫茶店に行くんですの。独身生活ですから、多少暇を持て余しているところもあったのでしょう。わたしども親としましても、あの子が外の空気に触れるのは必要なことだと思っていましたので、あの子が『行ってきます』と出て行くのをいつも笑顔で送り出していたのです。

 あの子が昔から好きな本がありまして、あの子は喫茶店に行く時はいつでもその本を持って行ったのです。『かもめのジョナサン』という本ですの。若い方はあまりご存知ないのかしら。いっときは大ベストセラーだったよう記憶しております。でもブームが去ったあとでもあの子は繰り返し繰り返しあの本を読んでいました。よほど気に入ったのでしょうね。ある時などは『私がお墓に入る時にはこの本を一緒にいれて』なんて真面目な顔してわたしたちに言うものですから、これには寝たきりの主人も苦笑しながら『おいおい、愛は私たちより先に死んでしまうつもりなのかい』ってわざと多少怒った口ぶりで言いました。これにはあの子も笑い出して『あれ、あたしおかしなこと言ったわ。ごめんなさい』と舌を出してました。そして三人で愉快に笑いましたわ。



 そんなある日、あの子が嬉しそうに顔を輝かせて帰ってきました。あまり嬉しそうなので尋ねてみますと、喫茶店で『かもめのジョナサン』を読んでいる若い女の人を見かけたと言います。フチなしの知的なメガネをかけた、髪をポニーテールに結った魅力的な人だったそうですわ。何でもまだ大学を出たばかりで、大学の先輩が開業している心療内科のクリニックでカウンセラーの見習いのようなことをしてらっしゃるとか。すごく気があったようで、娘は毎日その人とおしゃべりするために喫茶店に通うようになったようです。二時間くらいで戻ってきたのが、夕方まで帰ってこないこともありました。ずっと話し込んでいた時もあったし、その方が持ってきてくださった色々な本を読んで過ごしていた時もあったようです。

 娘は日に日に見違えるように明るく、外交的になって行きました。私も主人もそれは喜びましたわ。手のかからない子ではあったのはよかったけれど、欲を言えばもっとわがままに、活発に、自分のやりたいことをどんどんして欲しいな、そんな風にも思っていましたし、あの子がおとなしく年をとりそのまま老いて行くのを間近で毎日見ていますと、ああ、もしかしたら私たちはこの子の育て方をどこか根本的な部分で間違っていたなんてことはないんだろうかって、そんな不安にとらわれることもありましたから。」



 嵐の前の静けさ。僕にはすゑさんが穏やかに話している様子がそんな風に感じられた。すゑさんの話し方というのは、穏やかで静かな海面のようだった。でもその海面の下には深い海が途方もない深さまで続いていて、何かの拍子でパックリと口を開けた海原は小舟を一瞬で飲み込んでしまう。




「今にして思えば、きっと普通のご家庭が思春期を迎える我が子を見るような、そんな時期だったのかもしれませんね。あの子はそのポニーテールの魅力的なカウンセラーの方に会ってから急速に変わりました。とても意思的な目をして、自分で何か困難を克服しようとするような、私たちには分からない大事なものを追い求めるような。親から自立して行く準備を始めた子どものたくましさ、その反面の自分の手を離れて行くのだという親としての恐れ、そんな気持ちをあの子が十代の頃には持ったこともありませんでした。

 でも、あの頃、それを強烈に感じました。主人も同じ感じを持っていました」




「そんなある日でした。喫茶店から帰ってきたあの子が『私の人生を返して欲しい』と静かに言ったのは。あの日は聞き違いかと思って聞き流してしまいました」

 静かな水面にパックリと深淵が開こうとしていた。


「二人っきりの暗くなりかけた部屋で、娘はその時と同じ言葉を同じ口調で口にしました。今度は私の耳にもはっきりと聞こえました。」

地下鉄のない街118 誰の涙?

「娘の話は七十歳を過ぎたわたしにはかなりしんどいものでありました。いえ、しんどいなどとわたしがいってはいけないのですね。娘はそのことに苦しんできたのですから。といっても、話は自分が本当の子どもじゃないとか、父親に云々というのはなかなか出てこなかったんですよ。あの子のがそれこそ堰を切ったように話し始めたのは、もっとありふれた…、あら、だめですね。そういう言い方こそ自分があの子にしてきたことをきちんと反省できていない証拠みたいなもの。あの子にとっては私の何気ないつもりの一言や、よかれと思ってしたことのほとんどすべてが、重荷であり、苦痛であり、取り返しのつかない足かせ、母親からの呪いのようなもにだったのに違いないのですから」




 会場は静かにどよめいた。すゑさんが目頭を押さえたと思うとそのまま声をあげて泣き出したからだ。
 これまで落ち着いた口調で、ときに海千山千の南堂社長も鼻づらをひきまわされるようなユーモアたっぷりだったすゑさんだった。性的ないたずら云々の娘さんの衝撃的な告白を聞かされた話の時も悲しい顔はしていたがその声は深々と落ち着いていた。


 すゑさんは嗚咽を圧し殺しながら懸命に話を続けた。まるでそれが自分に与えられた処罰であるかのような厳しい表情をしていた。


「あなたに似合わないからおよしなさい。あなたはそんな子じゃないわ。…あらやだ、何やってるの、イヤらしい、色気付いてはしたない。お母さんが悲しむのがわからないの?あなただったらお母さんのいう事分かるわよね。まあすごい…でももっとこうした方がいいわね。…」


 会場は某然として、泣き崩れながら次々にすゑさんの口をついて出てくる、おそらく娘さんがすゑさんに向けて泣きながら訴えた言葉を我がこととして聞くことになったのだ。これまですゑさんの巧みな話術にほとんど感情移入しきっていた数百人の会場の聴衆すべての人は、自分自身が、あるいは自分の娘から、あるいは息子からの声を聞くような思いでその嗚咽を聞いた。または自分が何十年も前に自分の親の膝を叩いて、胸ぐらをつかんで叫びたかったあの言葉をすゑさんの涙声の中に聞いたのだった。


「あの子は何度も『返して!あたしの人生返してよ』と涙を拭いてはそう言いました。反抗したことも初めてなら、こんなことを口にした事も初めてでした。いえ、それより何よりわたしは、その時まであの子がそんな苦しみを抱えてあの五十過ぎ迄生きてきたなんてことは想像もしてなかったのでした。親失格ですね」

 会場は無言だった。細かい事情の状況の説明はいらなかった。それはだれもが少なくとも一度は自分でその声を発しようとし、または子供からの声を聞こえないふりをしてきた覚えのあるあの言葉だったから。


「あの楽しかった想いでは、ひょっとするとわたしの、わたしと主人の一方的な思い込みなんだろうか。デジタル時計の一瞬一瞬、わたしは自分の都合の良い想い出だけを日記に書き、写真をアルバムに収め、そうして時々自己満足でそれを引っ張り出しては、自分が知ろうともしなかったあの子の空白の時間を、自分勝手な絵の具で勝手に色を塗っていた。真実は別にあって、あの子はわたしとはまったく別の人生を歩んでいたのだろうか。わたしは申し訳ない気持ちを通り越して、恐ろしい気持ちにかられました。自分自身をこれ以上ないほどに罰したい気持ちにとらわれました。そんなことない、この子の思い込みだという言葉が出かかる度に、その自分勝手な気持ちがこの子をこの歳まで苦しめ、このこの青春時代や、あり得たかもしれない結婚生活や子育ての楽しみを奪ったのかもしれない。でももし、そのわたしの幸せだったと錯覚していた記憶が偽物だとしたら、今こうして生きている私は一体なんなのでしょうか。生きてていいんでしょうか。そんな気持ちになりました」





 南堂社長が舞台奥から自分の座っていた椅子をすゑさん壇上のところまで運び、すゑさんの肩をだいて優しくいたわるように座らせた。


 会場にはわざとらしい拍手はもう起こらず、一同は南堂社長の自然な優しい心遣いに静かに感動して、今度は、知らず知らずのうちに流していた自分自身の涙を拭いたのだった。
ゆっきー
地下鉄のない街 第一部完結
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