地下鉄のない街 第一部完結

地下鉄のない街108 投資哲学

 例えて言うなら戦前からの古い伝統のある私立学園の理事長室のようだった。厚手の思い漆喰のドアを内側に押すように開くと、西村の個室はそんな風情で皆川君を迎えた。昔のしっかりした建物が皆そうであるように、天井も外に向かって開かれた窓もかなり高く、窓の一番上には梯子でも使わなくては開閉ができないような喚起窓があった。西村の言いつけ通りその小窓がすべて綺麗に内側に倒され、爽やかな風が部屋に入り込んでいた。




「ただいまコーヒーでもお持ちいたしますね」

 南堂はすたすたとサイドボードのコーヒーソーサーに向かったが、小窓を開ける時に使った脚立が壁際に出しっぱなしになっているのに気がつき、すぐ片付けます、と大袈裟に恭しく西村に黙礼をし、部屋の奥のドアの向こうに消えていった。


「どこまで演技でどこまで本当なんだろ…そう思ったかい?」

 南堂を目で追う皆川君を見て西村はそう呟いた。皆川君が振り返ると西村は応接セットの椅子に腰掛け、右手で自分の対面のソファを皆川君に勧めた。




「変わった人ですね」

 部屋の中をぐるっと見渡しながら皆川君が腰をおろした。未来の教団トップが使う部屋。ここはどんな部屋なんだろう。窓際には重厚な木製の執務机が据えられており、綺麗に片付いた机の上には書類を留めておくための像の文鎮が置かれている。

「うん。まあね。案外ああいう雰囲気に善良な人がころっと騙されちゃうんだから分からないもんだなあ」

 僕はさっきの西村の話を思い出した。羽振りが良かった頃の純金投資詐欺のことを言っているのだろう。人ごとのように言っているが、いまでは教団が南堂の訴訟費用を負担していると言っていた。いくら教団を頼ってくる信者のためとはいえ、普通はそこまでやらないだろう。いったい、教団と南堂との間にはどんないきさつがあるのか。



「おや、騙すとか何とか人聞きの悪い言葉が聞こえましたよ」

 顔にへばりついたような笑みを浮かべて南堂が四角いお盆にコーヒーを乗せてきた。

「いや、ごめん。南堂さんのことじゃないよ」

「またまたあ。いいんですよ、西村本部長」




 本部長と言われた西村はそれまでの飄々とした表情から露骨に不快な顔になり、不機嫌そうに南堂を見た。

「あ…。ところで私の話ですが、どんな風にお話すればいいでしょうか」

 西村の表情に慌てた南堂は本題に入ろうとした。


 コーヒーをすすりながら西村は気を沈めているようだった。女系教祖の『東方暁の雫』では、父親を含めた男性幹部は事務方だということだったが、本部長という役職はきっとその頂点か、父親のすぐ下くらいの地位を思わせた。とにかく西村はその呼ばれ方が嫌いらしい。



「そうだね、南堂さんが逮捕直前に社員と投資家400名を集めてやったていう、あの伝説の演説でももう一度やってみたら?」

「え?あれをですか。意地悪ですねえ。西村さんも。あれは…」

「いいじゃない。何も立ち上がって演説口調でやってくれと言ってるわけじゃない。もしかしたらこれは詐欺なんじゃないかって血相変え説明を求めてる投資家や、不信や不満で爆発寸前の社員全員があなたの演説が終わったあと感動でむせび泣いたというあれをやってよ」






 南堂は西村の本意がどこにあるか探るような目をしたが、すぐに笑顔になった。

「分かりました。では、我が社の投資哲学をお話ししましょう」

 西村は満足そうに頷いた。

地下鉄のない街112 意外な接点

 渡辺すゑさんは、600人近くは入っている純金天下家族会セミナールームの一番前に座っていたようだった。純金天下家族会職員の若いスーツ姿の男に肩を添えられ、舞台脇にある小さな階段でちょこちょこと壇上に上がって行く。92歳、不労所得720万円のおばあちゃんの背中は生き生きとして見えた。背中は少し丸くなっていたが、薄い黄色のツーピースを無難に着こなしていた。壇上の女性司会者が手を引こうとすると、上品な仕草で首を振り、自分の足でゆっくりと壇上に向かった。




「それではご紹介いたします。先ほど南堂がご紹介させていただきました渡辺すゑさんです。皆様どうか盛大な拍手でお迎えください」

 会場が拍手で包まれる。さっきまで冷ややかな空気は潮が引きようにすっと消え、にっこりと微笑む品のいい老婦人の笑顔に会場に安堵の空気が流れ込んだ。女優の森光子さんを思わせるような明るい、笑い顔が素敵なお婆さん。まるでさっきまでの南堂の演説までもが、この老婦人の登壇で信憑性を獲得したかのようだった。

 老婦人は自己紹介をした。夫の軍人恩給で慎ましやかに暮らす中、渡辺すゑさんの自宅のチャイムをいきなり鳴らした純金天下家族会柿内というセールスマンと出会ったのはもう十年近く前だったという。寝たきりになっていた夫の介護で疲れ果てていたすゑさんが純金天下家族会のセールスマンを自宅に上げたのは、強引さではなくて、久しぶりに会いにきた孫がおばあちゃんに接するような朴訥な態度だった。午前中やってきたセールスマンは、結局夕方の六時まですゑさん宅にいたのだった。炊事をしたり、溜まっていた洗濯を片付けたり、ねたきり老人の身体を拭いたり、大きなゴミをまとめて回収業者を手配したり、押し付けがましくもなく、ごく自然にそんなことをしてくれたという。

「ではここで、本日会場整理にあたっている弊社柿内をご紹介します」

 司会の女性がそういうと、会場入口付近のにいた西村と皆川君のすぐ横にスポットライトが当てられた。柿内というセールスマンがライトの中に浮かび上がり、会場には大きな暖かい拍手が湧いた。柿内さんは照れたように黙礼をしただけで、再びすゑさんの体験談が続いた。


「私も夫も世間からは忘れられた、今はただつつがなく天寿を全うすることだけの毎日を過ごす老夫婦です。しかし、だからと言って、ぼけてしまっているわけじゃありません。私は親切な柿内さんとおっしゃるその方が、お昼ごはんをご一緒した時に鞄から出した純金を売りにきた人だということを理解していました。悪くいえば、そんなに良くしてくれるのは、私たちが貯めた軍人恩給が目当てであることは間違いないのですから。」


 会場はすゑさんの言葉に聞き入っていた。

「ですから、もしみなさんの御宅に親切そうな若いセールスマンがやってきて身の回りの世話をしてくれたり、話し相手になってくれたからといってすぐに信用しちゃダメですよ。あの方達はそれが作戦なんですから」


 森光子さん似の渡辺すゑさんがそう言ってにっこり微笑むと、一瞬の戸惑いの沈黙のあと、会場は好意的な大爆笑の渦に包まれた。みんなが実は信用したくて堪らなかった、この純金天下家族会のうさんくささを、渡辺すゑさんはわずか五分ですっかり何処かへ追いやってしまったのだった。

 会場に詰めかけた投資者たちは、自分がもう後戻りできないところまでお金をつぎ込んでいる現実に、何とかして信憑性のお墨付きが欲しかった。この際中身は後回しでもいい。とにかくこの自分のモヤモヤを誰かなんとかして欲しい。誰もがそう思っていたのだった。もしかしたら、自分も親切そうな若いセールスマンに騙されたのかもしれない。しかし、そうでもなさそうな感じがしてきた。
 すゑさんの冗談に、壇上奥のパイプ椅子に座っている南堂社長が大げさに頭をかいて苦笑して見せている。「すゑさん!何てこと言うの!」慌てふためいてコミカルにオロオロしている南堂社長の様子は、演技とわかっていてもさらに大きな爆笑を誘ったのだった。


 すゑさんの巧みな体験談は続いた。演技でもいい。すゑさんと南堂社長の醸し出すこの雰囲気に自分のどす黒い疑心暗鬼を消してもらいたい、投資者でも何でもない僕にはそんな集団心理を巧みに利用した演出がよく見えたのだが、会場は完全に渡辺さんムード、いや、純金天下家族会ムード一色になっていた。





 しかし、会場は一瞬で静まり返った。

「そんな生き生きとした生活を与えてくださった純金天下家族会なんですが、セールスの柿内さんがいらっしゃった時には実は、いえ、具体的にはその次の日に、私たち老夫婦は無料心中する予定だったんですよ」

 水を打ったように静まり返った会場はすゑさんの言葉を待った。

「辛いお話を少しだけさせてくださいね。その方が、私の純金天下家族会の体験談も一層皆様のご判断のお役に立つのではないかしらと思いますので。私たちがそんな決意をした理由お話するには、私たちの一人娘と、悪魔のような心理カウンセラーの話をしないといけません」




 西村がそこでとなりの皆川君の脇腹を肘でつついた。

「驚くなよ。意外な接点がここで出てくるんだ。その悪魔のような心理カウンセラーというのはお前も知ってる綺麗な女性カウンセラーなんだが、誰だかわかるかい?」

 皆川君は西村の不気味な笑みに表情をこわばらせた。

「そう。皆川の想像通りだ。春日井恭子先生のことさ」

地下鉄のない街113 すゑさん、僕、春日井先生

「子供の名前はここではいいですね。一人娘です。私が今年92歳ですから、ご想像のように娘ももう、70を少し越えております。ですから娘と言ってもお婆ちゃんですね。私どもにとってはいつまでも幼い娘といった思い出と一緒ですから、今でも会えばすっと年齢のことは忘れてしまいます。娘が独身でいるせいもあるでしょうね。ですから、わたくしども老夫婦にとっても、そしてまた娘にとっても「家族」という言葉は特別なのですね。わたくしは、この純金を通した会が「家族」という名前を含んでいることがとても心温まることのように思えるのですよ。
 南堂社長は少し誤解を受けるタイプの方かもしれませんが、お話をよくよく聞いてみれば、この会を本当の家族のように思い、みなさんの幸せを一緒に育み、共に発展させて行こうというお気持ちが、わたくしにはよく伝わってくるのですよ。
 それはわたくしども老夫婦が迎えた家族の試練があったからよけいなのかもしれませんね」




 すゑさんはここで会場を穏やかな目で見渡した。誰の目にもすゑさんの落ち着いた雰囲気は心地よかった。あの穏やかな目の奥に、当時どんな苦しみがあったというのだろう。




「みなさんも多分ご経験があるでしょう。子供の頃、きっかけははっきりとは覚えていなくても、なんだか突然世界中から見放されたような気分になって、それが何の脈絡もなく『わたしってこの両親の本当の子じゃないんじゃないか』っていう恐怖に変わった思い出。わたし自身もございますのよ。こんな歳になっても、そのときの胸の鼓動と、突然自分が住んでいる家、自分の部屋が偽物に見えてしまったあのこわい気持ちはよく覚えています。両親の笑い声もどこか演技のように聞こえる。そんな気分になってしまった理由はただ一つ。あたしが本当の子供じゃなくて、何かのきっかけでこの家にたまたま住むことになったからに違いない。だからきっと、両親は明日にでも私にそのことを告げるに違いない。私には一つ上の兄がおりましたが、もちろん兄に相談できるはずもありませんでした。だって兄は本当の子。そして私だけこの家族に中に紛れてしまったよその子、そうとしか思えなかったのですから。」



 会場の人々は、純金ビジネスの説明会で思いがけず聞くことになったすゑさんの話に、すっかり引き込まれていった。



「夕食に呼ばれても、私は部屋の隅で膝を折って頑なに食卓に行こうとはしませんでした。もちろん両親は心配します。兄も困った顔で笑いかけながら一緒に夕食を食べようと言ってくれます。でも私にはその誘いまでもが、三人で示し合わせて私に、私がもらわれっ子だということを隠そうと優しくしているとしか思えなかったのでした」



 僕は会場を見渡しながら、僕の家族のこと、両親、ねえさんのことあのスパイ映画を観た時の恐怖と春日井先生、そして春日井先生の弟さんのことを思い出していた。

地下鉄のない街114 暗がり

「笑ってしまいますわね。代わる代わる心配そうに私の様子を部屋に覗きに来た家族も私の心配の元を聞くと大声で笑い出しましたよ。私はそれでも気持ちがふさいでいたのですが、その時あたしのお腹がぐうーっとなったの。また三人は大笑いしましたわ。今度は私も一緒に笑いました。涙を拭きながら四人で思いっきり笑いました。ぺったんこのお腹がさらにぺったんこによじれるくらいに」



 気持ちの良い笑い声が会場に谺した。会場の人たちは、幼いすゑさんに「心配しなくていいんだよ」とあの時笑ったすゑさんの本当の家族と同じように、92歳のすゑさんをもう一度笑い飛ばすように、すゑさんを暖かい笑い声で包んだのだった。すゑさんにとってその会場の笑い声は多分あの時の部屋の暗がりの中に響いた笑い声と同じだったに違いない。すゑさんも涙をハンカチで抑えながらマイクを離して愉快そうに壇上で笑った。南堂社長は…。南堂社長もいい笑顔ではしゃぐように笑っていた。

「みなさん、暖かい笑い声をありがとう。その笑い声こそが私の根拠のない不安を消し飛ばしてくれたんです。ありがとう。みなさん」



 誰か一人が拍手をした。

 拍手は渦のように会場を包んだ。


「だから今度はわたしの娘が『私はお父さんとお母さんの本当の娘じゃない』って真剣な顔で言った時には、私はすぐ笑い飛ばそうとしたしたんですよ。ああ、この子も同じだ。わたしと同じだ。わたしもこの子を笑い飛ばして、そのあと主人と三人で思いっきり笑おう。私はそう思ったんですよ。」

  会場は再び笑に包まれた。

「でもね、私と違ったのは、私がそう言ったのは四歳の時。でも私の娘がそう言ったのは今から15年前。私が77歳の時」


 会場の笑い声のトーンが少し低くなった。すゑさんが77ならその時娘さんは…?


「みなさん、あれ?とお思いになったことでしょうね。そう。その時娘はもう50も後半です。それまでなに一つ手のかからない、私たち夫婦にしてみたらかえって手がかからなすぎて、ある時ふっとかえって不安になるくらいでした。従順で反抗めいた言葉ひとつ口にしたことがない。そんな子でした。たったひとつだけ自分の我を最後まで通したのは、ガンとして縁談の話にのらなかったことくらいですね。その娘がいきなりそんなことを言ったのは、今にして思えば大きなわけがあったんですの。決して笑い飛ばすことが出ないような」

 会場の笑い声はすっかり消えて、人々はすゑさんの次の言葉を待った。


「あの子は私と二人っきりの部屋の中でこう言いました。『私はお父さんとお母さんの本当の娘じゃない。それはお父さんからそう聞いた』。そしてこうも言ったのです」


 すゑさんの顔からも一切の笑が消えた。


『その証拠に、お父さんは血の繋がっていない私に性的ないたずらをし続けてきた。血が繋がっていないんだから良いんだって、そう言ってた。私はその事をずっと無意識の底に封じ込めてきたけれど、最近知り合った心理カウンセラーの人と話すうちにそのことを思い出してしまった』


 娘はこう言いました。

 笑い飛ばそうと準備していたわたしは、反対に真っ暗闇に突き落とされたようでした。その暗さは、四歳の時のあの部屋の暗がりと同じでした。
ゆっきー
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