大人のピアノ

大人のピアノ そのごじゅうきゅう 一緒にピアノを弾いた少年

「あたしのお父様、あなたのお祖父様のお顔憶えてる?」

 母親の視線は遠くを見たままだった。

「もちろん憶えてるわ。もちろん、会ったのは一回だけだけど」

「そうね。あなたが11歳の時、あたしが生きている間に父に会ったのもその時が最後だったわ」

「二年後にもう一回同じパリ郊外のヌイイ•シュル•セーヌでお葬式だったね。結局日本には帰りたくなかったのかな」

「みんなそういうんだけどね。帰れなかったんじゃないかなあ、やっぱり」

「そうね、あたしもそう思う」

「うん。ありがとう…」


 なつみの祖父の話をする時にいつも二人の間を包む沈黙が、二人の間に静かに流れた。





「国語の教科書に載ってたお祖父様の文章の解説にも『ついに帰郷を選ばずに彼の地で没す』って書いてあったよ。子供ながらになんだかすごい人生なんだなって思った。お祖母様もお母様も日本に残してフランスに留学したまま帰ってこなかったんだもんね」

「そうね。将来を嘱望された二年の予定の国費留学生のはずが、最後はパリ郊外の日本語学校の教師だった」

「日本では"デカルトとパスカルの研究者、思想家"っていうことになってるよね」

「そうね。でも出版物は日本語でしか書いてなかったから、実際に暮らしていたフランスでは一日本語教師ということだったみたい」

「何でかな」

「うん」






「著作集にこんな言葉があったわね」

 母親が寂しそうな顔をして自分の父親の言葉を口にした。


 僕は死に直面しても娘などに来てもらいたくない人間にならなければならない。娘がどこかに存在している、というだけが僕のよろこびであり、慰めであるような人間にならなければならぬ。


「哲学者だからね。「娘」っていう言葉は一つの例だよ、やっぱり」

 もう何度も娘によって引用しされたこの言葉が口から出るたび、なつみはそれを打ち消すように、その本当の意味を語っていると思われる箇所を母にかわって祖父の著作集に探した。
 祖父の残した著作は体系的な哲学書ではなく、祖父が好んで引用したアランが残したような箴言集であった。だから、考え抜かれた思考が言葉になるとき一見すると真逆のように見える時もあるし、別の言葉の光を照らしてみると、そこにまったく別の意味が浮かび上がったりする。

 母親がさっきの言葉を引用したあとになつみが引用するのは、例えばこんな言葉だった。

「でもこんなことも言ってるわ。


自分の勝手で作り出した孤独ほど無意味でみにくいものはない。本当の孤独は孤独からは生れない。僕は孤独を耐えがたく思う人間なのである。


もう何度もご本に探したからソラで言えちゃう。この孤独が本音で、「娘」云々はそういう孤独を耐えがたいと思ってる自分をムチで叩いて鼓舞するためだよ」

「ありがと。あたしが悲しそうな顔するたびあなたは必死になって著作集をひっくり返して言葉を探して、お祖父様の本当に言いたかったのはこういう意味だよ、ってお母さんを慰めてくれた」

 母親はなつみを感謝の目で静かに見た。




「そう。すごーく国語力ついたわよ。あたしが国語の成績が常にトップだったのはそのおかげね。だから、この全集作ってくれた出版社の編集者の人の次にお祖父様の言葉に詳しいのはお母様じゃなくて、この私」

 なつみが"えっへん"とばかりに胸を張る。

「そうね。もしかしたら私のお父様よりも」

「そうよ。あたしが引用した言葉が本当に言いたかったことだよ」

「うん。ありがとう」




 普段口に出さなくても二人の間に流れている共通の時間はこうしていつでも再開できる。それはなつみが成長して行く中で折に触れこうして二人の間で母親の父、なつみの祖父にあたる人物の残した著作集をひもときながら、家族を捨ててフランスに骨をうずめてしまった真意をあれこれ想像していたからだった。


「こんなことも言ってるよね。何で日本に帰ってこなかったか聞かれて…。


パリに行って、"自分のために"なるように学べることは"全部"日本で学ぶことができるのだ。



「あなたのお父様が一番好きな言葉ね」

「お父様に言わせると、お祖父様は本当の意味での『教養』の意味を知ってる唯一の日本人だってことらしいわね」

「みんな"自分のために"なるようなこと探して留学したり、本を読んだり、コンサートや劇場や美術館に行ったりする。あなたのお父様はそういうの全否定だもんね」

「そう。だから一般的な教養崇拝者の洗足学園の岸谷先生とは喧嘩になるわけね」

「そうね」

 二人は大きな声でたのしそうに笑った。



「あのね、なつみ」

「はい」

 なつみは母親の初恋ばなしが、この祖父の話を経由することが必要なほどに母にとって本質的なことであることを理解した。そして、同時にかすかな胸騒ぎを覚えた。



「昔ね…。子供の頃に京都の実家で一緒にピアノを習っていた男の子と、やっぱりそんな話をしたことがあるのよ」

 二人の間にあの静かな沈黙が流れた。

「お祖父様の本を広げながら…」

「うん…そう」

「それが…初恋の人ね」

「そうよ」

「うん」


 なつみは母親の目を見た。静かに笑っていた。なつみはさっき感じた胸騒ぎがすっと曳いていくのを感じた。

 いい思い出なんだな。でも、なんでさっきそれを思い出したんだろう…。

 なつみは母親の言葉を待った。





つづく





*イタリックのなつみの祖父の哲学者の言葉は『森有正エッセー集成<1>~<5>』ちくま文庫 より引用いたしました。なお作中のエピソードはすべて創作です。

大人のピアノ そのろくじゅう 嵯峨野への冒険?

「その男の子はピアノを弾いたのね」

「ええ。もともとその子の父親が私のお祖父様、あなたの曽祖父様のお客様だったのよ」

「曽祖父様って、あの…」

「ええ。政治家だったからいろんなお客様が京都には出入りしてたわ。その子のお父さんはなんと、博徒の元締め」

「え?博徒って、あの丁半の…」

「そうなの。慶応年間からの続いてるそうだから明治維新より前から実家とは付き合いがあったみたい」

「お母様の京都の家は確かにそういうお付き合いがあっても不思議はないな…という気はするけどね」

「うん」

「じゃあ、その少年も?」

「6人兄弟の末っ子だったけどね、まあゆくゆくはそういう世界の人になることが決まっていた」

 母親はおもむろに立ち上がると、斎藤氏がいる応接間におかれたピアノより小さなアップライト型のピアノの前に座りその蓋を開けた。

「あの子がくるのが楽しみだったわ。こうやって一緒にピアノを弾いてた」



 ブルクミュラーの「こどものつどい」。なつみが小さい頃母親と一緒に練習した曲だった。

「その子も同じ曲を?」

「そうね。だから私を通じてその少年とあなたは同じ曲で繋がっていたのかも知れないわね」

『繋がっていたかものしれない?』

 なつみは母親の言葉に何か含みのあるものを感じた。




「ある日ね…」

 ブルクミュラーを続けて何曲か弾いたのち、母親は何も置いていない譜面台をじっと見つめて話し始めた。

「ある日、その子がピアノの練習に飽きた私を保津峡に連れて行ってくれたの」

「保津峡…。嵯峨嵐山の」

「ええ。その日はお祖父様もお父様もいらっしゃらなくて、何となく解放的な気分だったのね。中学校に入ったばかりで、制服を着ることを覚えて何だか自分たちも急に大人になったような感じがしてた」

「家からは電車よね…」

「そう。二十分くらいかしら。小学校の頃はその二十分の距離がとてつもなく大きかった。でも、ひょっとしたらもう私たちはそんな距離なんてひと跨ぎにできそうな気がしたのよ。どんな脈絡だったかは忘れてしまったけどトロッコ列車の話になったの」

「うん」

「その子が言ったわ。『行く?』って」

「頷いたのね」

「そう。今でも覚えてるわ。はっきり『行く』って頷いたの」



 なつみは今から数十年前、母親が保護者の誰もいない家で少年の冒険の誘いに頷いた様子を想像した。
 きっと、胸はときめきで溢れそうだったに違いなかった。顔は少しピンク色に上気して、目は遥か遠くを想像しながらも、しっかりと目の前の少年の瞳に焦点を結んでいる。



 母は今、まるで中学生のその時のように若やいで見えた。




つづく

大人のピアノ そのろくじゅういち トロッコ列車に乗って

「保津峡デートかあ」

「なつみは行ったことあったっけ、保津川あたり」

「うん。高校の時に嵐山から亀岡までトロッコ列車に乗って往復しただけ」

「ああ、そんなことあったわね。初めての友達だけの旅行だっけ」

「そうそう。親戚が京都だからっていうことで京都のエキスパートだと思われちゃってね。そんなことないのに、一週間の旅行のガイドさんみたいなことしたっけな。楽しかったよ」

 なつみの顔に無邪気な笑顔が浮かんだ。



「じゃあ、列車の中から保津峡下りの船とか見えたでしょ」

「見えた見えた。通るたびに船の方からみんな声をあげて列車に手を振ってくれたなあ」

「その保津峡下りの船って下ったあと今はトラックでまた上流に戻すんだけどね、戦前は渡月橋の南側の中ノ島に架かる渡月小橋の南詰めあたりから人足の人が交代で担いで上流に運んだのよ。」

「ああ、聞いたことある。なんだっけ」

「舟曳き道」

「ああ、そうだ、それ」

「河原から山路に入って行くと今でも小径があるのよ」

「お母様、詳しいのね」

「そんなはずじゃなかったんだけどね、じつはその時その小径を上流の保津峡から下り方向に歩いたの」

「え?その初恋の少年と?」

「そう」

「そんなつもりじゃなかったって…」

「そうなのよ。あたしたちも高校生なつみと同じで嵐山からトロッコ列車に乗ったの。保津峡駅で途中下車してお散歩したんだけどね」

「うん。いいね、ロマンチックで。中学生二人は人家もない保津峡で下車して散策かあ」

「最初はね…。実はあたしが帰りの列車の時刻表を間違えてメモしたのが事件の始まり」

「事件…?」

 事件といいながら、母親は楽しそうに思い出話を楽しむ表情だった。




「今でも覚えてるんだけど嵯峨野82号というのが最終の上りで17:51発だった」

「51分まで覚えてるんだ」

「そう。そこから計算して家までギリギリ7時前には着けるなってね、歩きながら何度も逆算してたわけ」

「なるべく長くいたかったわけね」

「そうね。ところが嵯峨野82号というのが日曜だけの臨時列車だったの」

「まさかその日は…」

「土曜日」

「それで歩くことにした…」

「新緑の季節でね。まだ17:51分は明るかったわ」






つづく

大人のピアノ そのろくじゅうに いっくんの苗字?

「じゃあ保津峡の駅に帰ってきた時に、あれ!電車が終わってる!!ってことになったんだ」

 なつみは八重歯をのぞかせて楽しそうに笑った。母親もつられて苦笑した。

「そう。二人ともしばらく無言で改札口の上に貼ってあるすこし赤茶けた紙の時刻表を見上げてたわ。」

「嵯峨野82号は運転されてなかった…」

「そう。お互い顔を見合わせたあと、すでにロープが張ってある改札越しにホームをみるとね、黄色い帽子をかぶった路線の保守点検のおじさんが、こうやってちりとりに片手にタバコの吸殻とかをきれいにしてたわ」

 実際に母親が箒でタバコの吸殻をちりとりにいれて見せたので、なつみは思わず吹き出してしまった。

「少年は…?」

 なつみの問いに今度は母親が笑い出した。

「あのね、じつは今のお掃除の仕草なんだけど、その時いっくんがやったことなのよ」

「いっくん?」

「そう、その少年ね」

「ああ、おちゃめな少年だね」

「たぶんあたしが真っ青になっていたと思うから、とっさに笑わせてくれようとしたんだと思うわ」

 なんとも言えない微笑を口元に浮かべて母親はそう言った。なつみはたしかにそのいっくんという少年は母親の大切な初恋の人なんだと思った。





「いっくん、本当の名前は何ていうの?」

 なつみはいっくんの、その不安にかられた母親を安心させようとひょうきんを装った顔を思い浮かべながら聞いた。

「伊佐夫くん」

「それでいっくんか」

「何、いっくんっていうの」






 何気なく話の続きに口に出した言葉に母親は一瞬言葉に詰まった。なつみには、母親が苗字を何も考えずに言おうとして慌てて飲み込んだように見えた。

 母親はなつみの言葉その部分だけがまるできこなかったかのように、二人がどうやって線路伝いに嵐山を目指したのかを語り始めた。

 その一瞬の会話の真空地帯を除けば、暮れかかる小径の雑草を踏みならし、初夏の奥嵯峨を汗を吹きながら下流の市街地目指して進む二人の様子は、数十年前の話なのにまるで昨日の出来事のようだった。






「ところがね…」

 話を続けていた母親がいったん言葉を区切ってなつみの反応を見た。

 しかしさっきの苗字を聞いた時の微妙な空気がどこか気になっていて、この時何が「ところがね」だったのか、なつみには一瞬話が見えなかった。

「うん」なつみは当たり障りのない相槌で先を促した。

「△□の崖からあたしが落ちてしまったのよ」

 "あなたのお母様に大事件発生です!" といった表情で母親はなつみの顔を覗き込んだ。





「ええ!?」

 なつみは反射的にそう言った。

 しかし本当は母親が崖から落ちたことよりも、さっきの微妙な真空地帯のことが気になっていた。




つづく




$ことばのあしあと

ゆっきー
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