大人のピアノ

大人のピアノ そのろくじゅう 嵯峨野への冒険?

「その男の子はピアノを弾いたのね」

「ええ。もともとその子の父親が私のお祖父様、あなたの曽祖父様のお客様だったのよ」

「曽祖父様って、あの…」

「ええ。政治家だったからいろんなお客様が京都には出入りしてたわ。その子のお父さんはなんと、博徒の元締め」

「え?博徒って、あの丁半の…」

「そうなの。慶応年間からの続いてるそうだから明治維新より前から実家とは付き合いがあったみたい」

「お母様の京都の家は確かにそういうお付き合いがあっても不思議はないな…という気はするけどね」

「うん」

「じゃあ、その少年も?」

「6人兄弟の末っ子だったけどね、まあゆくゆくはそういう世界の人になることが決まっていた」

 母親はおもむろに立ち上がると、斎藤氏がいる応接間におかれたピアノより小さなアップライト型のピアノの前に座りその蓋を開けた。

「あの子がくるのが楽しみだったわ。こうやって一緒にピアノを弾いてた」



 ブルクミュラーの「こどものつどい」。なつみが小さい頃母親と一緒に練習した曲だった。

「その子も同じ曲を?」

「そうね。だから私を通じてその少年とあなたは同じ曲で繋がっていたのかも知れないわね」

『繋がっていたかものしれない?』

 なつみは母親の言葉に何か含みのあるものを感じた。




「ある日ね…」

 ブルクミュラーを続けて何曲か弾いたのち、母親は何も置いていない譜面台をじっと見つめて話し始めた。

「ある日、その子がピアノの練習に飽きた私を保津峡に連れて行ってくれたの」

「保津峡…。嵯峨嵐山の」

「ええ。その日はお祖父様もお父様もいらっしゃらなくて、何となく解放的な気分だったのね。中学校に入ったばかりで、制服を着ることを覚えて何だか自分たちも急に大人になったような感じがしてた」

「家からは電車よね…」

「そう。二十分くらいかしら。小学校の頃はその二十分の距離がとてつもなく大きかった。でも、ひょっとしたらもう私たちはそんな距離なんてひと跨ぎにできそうな気がしたのよ。どんな脈絡だったかは忘れてしまったけどトロッコ列車の話になったの」

「うん」

「その子が言ったわ。『行く?』って」

「頷いたのね」

「そう。今でも覚えてるわ。はっきり『行く』って頷いたの」



 なつみは今から数十年前、母親が保護者の誰もいない家で少年の冒険の誘いに頷いた様子を想像した。
 きっと、胸はときめきで溢れそうだったに違いなかった。顔は少しピンク色に上気して、目は遥か遠くを想像しながらも、しっかりと目の前の少年の瞳に焦点を結んでいる。



 母は今、まるで中学生のその時のように若やいで見えた。




つづく

大人のピアノ そのろくじゅういち トロッコ列車に乗って

「保津峡デートかあ」

「なつみは行ったことあったっけ、保津川あたり」

「うん。高校の時に嵐山から亀岡までトロッコ列車に乗って往復しただけ」

「ああ、そんなことあったわね。初めての友達だけの旅行だっけ」

「そうそう。親戚が京都だからっていうことで京都のエキスパートだと思われちゃってね。そんなことないのに、一週間の旅行のガイドさんみたいなことしたっけな。楽しかったよ」

 なつみの顔に無邪気な笑顔が浮かんだ。



「じゃあ、列車の中から保津峡下りの船とか見えたでしょ」

「見えた見えた。通るたびに船の方からみんな声をあげて列車に手を振ってくれたなあ」

「その保津峡下りの船って下ったあと今はトラックでまた上流に戻すんだけどね、戦前は渡月橋の南側の中ノ島に架かる渡月小橋の南詰めあたりから人足の人が交代で担いで上流に運んだのよ。」

「ああ、聞いたことある。なんだっけ」

「舟曳き道」

「ああ、そうだ、それ」

「河原から山路に入って行くと今でも小径があるのよ」

「お母様、詳しいのね」

「そんなはずじゃなかったんだけどね、じつはその時その小径を上流の保津峡から下り方向に歩いたの」

「え?その初恋の少年と?」

「そう」

「そんなつもりじゃなかったって…」

「そうなのよ。あたしたちも高校生なつみと同じで嵐山からトロッコ列車に乗ったの。保津峡駅で途中下車してお散歩したんだけどね」

「うん。いいね、ロマンチックで。中学生二人は人家もない保津峡で下車して散策かあ」

「最初はね…。実はあたしが帰りの列車の時刻表を間違えてメモしたのが事件の始まり」

「事件…?」

 事件といいながら、母親は楽しそうに思い出話を楽しむ表情だった。




「今でも覚えてるんだけど嵯峨野82号というのが最終の上りで17:51発だった」

「51分まで覚えてるんだ」

「そう。そこから計算して家までギリギリ7時前には着けるなってね、歩きながら何度も逆算してたわけ」

「なるべく長くいたかったわけね」

「そうね。ところが嵯峨野82号というのが日曜だけの臨時列車だったの」

「まさかその日は…」

「土曜日」

「それで歩くことにした…」

「新緑の季節でね。まだ17:51分は明るかったわ」






つづく

大人のピアノ そのろくじゅうに いっくんの苗字?

「じゃあ保津峡の駅に帰ってきた時に、あれ!電車が終わってる!!ってことになったんだ」

 なつみは八重歯をのぞかせて楽しそうに笑った。母親もつられて苦笑した。

「そう。二人ともしばらく無言で改札口の上に貼ってあるすこし赤茶けた紙の時刻表を見上げてたわ。」

「嵯峨野82号は運転されてなかった…」

「そう。お互い顔を見合わせたあと、すでにロープが張ってある改札越しにホームをみるとね、黄色い帽子をかぶった路線の保守点検のおじさんが、こうやってちりとりに片手にタバコの吸殻とかをきれいにしてたわ」

 実際に母親が箒でタバコの吸殻をちりとりにいれて見せたので、なつみは思わず吹き出してしまった。

「少年は…?」

 なつみの問いに今度は母親が笑い出した。

「あのね、じつは今のお掃除の仕草なんだけど、その時いっくんがやったことなのよ」

「いっくん?」

「そう、その少年ね」

「ああ、おちゃめな少年だね」

「たぶんあたしが真っ青になっていたと思うから、とっさに笑わせてくれようとしたんだと思うわ」

 なんとも言えない微笑を口元に浮かべて母親はそう言った。なつみはたしかにそのいっくんという少年は母親の大切な初恋の人なんだと思った。





「いっくん、本当の名前は何ていうの?」

 なつみはいっくんの、その不安にかられた母親を安心させようとひょうきんを装った顔を思い浮かべながら聞いた。

「伊佐夫くん」

「それでいっくんか」

「何、いっくんっていうの」






 何気なく話の続きに口に出した言葉に母親は一瞬言葉に詰まった。なつみには、母親が苗字を何も考えずに言おうとして慌てて飲み込んだように見えた。

 母親はなつみの言葉その部分だけがまるできこなかったかのように、二人がどうやって線路伝いに嵐山を目指したのかを語り始めた。

 その一瞬の会話の真空地帯を除けば、暮れかかる小径の雑草を踏みならし、初夏の奥嵯峨を汗を吹きながら下流の市街地目指して進む二人の様子は、数十年前の話なのにまるで昨日の出来事のようだった。






「ところがね…」

 話を続けていた母親がいったん言葉を区切ってなつみの反応を見た。

 しかしさっきの苗字を聞いた時の微妙な空気がどこか気になっていて、この時何が「ところがね」だったのか、なつみには一瞬話が見えなかった。

「うん」なつみは当たり障りのない相槌で先を促した。

「△□の崖からあたしが落ちてしまったのよ」

 "あなたのお母様に大事件発生です!" といった表情で母親はなつみの顔を覗き込んだ。





「ええ!?」

 なつみは反射的にそう言った。

 しかし本当は母親が崖から落ちたことよりも、さっきの微妙な真空地帯のことが気になっていた。




つづく




$ことばのあしあと

大人のピアノ そのろくじゅうさん 波乱の帰宅

「崖から落ちたって、怪我は?大丈夫だったの?」

 母親の話の呼吸に自分をあわせてなつみは言った。

「うん。もうそろそろ渡月橋につく頃だったわ。歩いてきた山の上から橋が見えた。それでちょっと油断したのね。もう陽はとっぷり暮れてた。そんな山歩きなんてするとは思ってもみなかったから底がツルツルの短靴だった。土と天然の岩でならされたなんの変哲もないゆるい階段だったんだけど、ずるっとすべっちゃった」

「あの平地におりてくる最後の山小径か…分かる。昼だったら何でもないのにね」

「そうなの。何でもない階段で足を取られて、そのままいっくんに捕まったらよかったんだけど、変な風にバランス取ろうとして脇の崖にね…」

「何でそうしなかったの?」

「う…ん」

 照れたように母親の瞳が揺れた。口がすっと恥ずかしそうにすぼんで、すぐに歯並びの良い前歯がこぼれた。




「捕まろうとした時にさ、いっくんの広い背中にすごく男の子の匂いを感じちゃってね」

 笑いながらそういう母親をなつみは新鮮な気持ちで見つめた。

 母がこんな話をするのは初めてだった。父親との馴れ初めやデートの話は、たいていの子供がそうするように自分からせがんでしてもらったことがある。思春期に入った頃、自分という不安定な存在が両親の愛情の末にここにあるんだということを実感として確かめたくて、なつみも何度も話してもらった。母はもちろん楽しそうにそれを語ってくれた。でもたぶん、こんな少女のような表情ではなかったように思う。

「意識しちゃって背中にしがみつけなかったってわけ?」

 なつみはおかしかった。

 母親とはもちろん仲の良い母娘であったが、いつも尊敬できる一人の女性として適度な距離を保っていた。それは別によそよそしいものでも不自然な感じもなかったが、なつみは今夜始めて母親の中の少女だった思い出や、多分まだ少女を残している部分に触れた思いだった。





「そうなの。おかしいわね」

 母親もつられて笑った。

「いっくんは?すぐに助けてくれた?」

「もちろんよ。慌てて斜面を降りてきてくれた」

「怪我は?」

「膝と肘に擦り傷かな。あと自分では気がつかなかったけど顔に木の幹の皮がついてたみたいで、いっくんが指で払ってくれた。その時は大丈夫だったんだけど、転げ落ちる時に木の幹に頬を打ったみたいであとらか少し青く腫れてきた」

 母親は右手ですこし頬をさするような仕草をした。

「いっくん、驚いたね」

「『だいじょぶか』って心配を抑えた声で助け起こしてくれたわ」

「うん。それで」

「思わずわって泣きながら抱きついちゃったわ。そんなことなら落ちる前に抱きつけば良かったのに」

 母親の冗談になつみは声を出して笑った。母親も照れたように笑った。





「でもよかったね。大したことなくて」

「うん…それがね…」

「骨でも折れてたの?」

「ううん。違うの…。暗闇の中渡月橋を渡ったわ。もう時間は10時をまわってた。満月に近い真っ白な月が碧暗い空に出てた。夏が始まっていた桂川の水嵩がずいぶん低かったのを覚えてる。中州が痩せた老人の肋骨みたいに月に照らされてた。」

 母親はまた遠くを見つめるようにすっと寂しげな表情をした。

 さっきまで手を伸ばせば触れられそうなところにあった少女の青春の思い出は、その瞬間すっともう取り返しのつかない確定した過去の出来事として母親の瞳の奥底に吸い込まれたようだった。



「家にたどり着いて、思ってた以上に話が大ごとになっていることにあたしたちはすぐ気がついたわ」

「…それは、そうよね」

「屋敷の門のところに母親やいっくんのご両親、近所の人ややじうまみたいな知らない人が固まっているのが見えたわ。あたしたちが門に近づいていくと、そのかたまりがふわっと崩れて父親が『慶子』って呼びながら走ってきたの」

「お祖父様、ほっとしたわね」

「…うん。それがね…途中で凍りついたように足が止まったの」

「え?どうして」

 なつみは訊いた。

「そしてゆっくりいっくんの前に歩いて行って、いっくんの目をじっと上から見下ろしたわ」

「どうして?」

 なつみは再び尋ねたが、今度も母親は直接それには応えなかった。

「そしていきなりいっくんを殴りつけた」

「え!?あのお祖父様が…」

「振り返ってもう一度あたしを見た時の、父の哀れむような悔しさを堪えたような視線で気がついたの」

「何に…?」

「腫れた頬、腕と膝の擦り傷、木にこすれて破れかかったブラウスの胸元」

「あ!」

「うん。ずっと夢中で帰ってきたから分からなかったけど、あたしはいっくんがむりやりそうしたような姿をしてたのよ」






つづく
ゆっきー
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