「じゃあ保津峡の駅に帰ってきた時に、あれ!電車が終わってる!!ってことになったんだ」
なつみは八重歯をのぞかせて楽しそうに笑った。母親もつられて苦笑した。
「そう。二人ともしばらく無言で改札口の上に貼ってあるすこし赤茶けた紙の時刻表を見上げてたわ。」
「嵯峨野82号は運転されてなかった…」
「そう。お互い顔を見合わせたあと、すでにロープが張ってある改札越しにホームをみるとね、黄色い帽子をかぶった路線の保守点検のおじさんが、こうやってちりとりに片手にタバコの吸殻とかをきれいにしてたわ」
実際に母親が箒でタバコの吸殻をちりとりにいれて見せたので、なつみは思わず吹き出してしまった。
「少年は…?」
なつみの問いに今度は母親が笑い出した。
「あのね、じつは今のお掃除の仕草なんだけど、その時いっくんがやったことなのよ」
「いっくん?」
「そう、その少年ね」
「ああ、おちゃめな少年だね」
「たぶんあたしが真っ青になっていたと思うから、とっさに笑わせてくれようとしたんだと思うわ」
なんとも言えない微笑を口元に浮かべて母親はそう言った。なつみはたしかにそのいっくんという少年は母親の大切な初恋の人なんだと思った。
「いっくん、本当の名前は何ていうの?」
なつみはいっくんの、その不安にかられた母親を安心させようとひょうきんを装った顔を思い浮かべながら聞いた。
「伊佐夫くん」
「それでいっくんか」
「何、いっくんっていうの」
何気なく話の続きに口に出した言葉に母親は一瞬言葉に詰まった。なつみには、母親が苗字を何も考えずに言おうとして慌てて飲み込んだように見えた。
母親はなつみの言葉その部分だけがまるできこなかったかのように、二人がどうやって線路伝いに嵐山を目指したのかを語り始めた。
その一瞬の会話の真空地帯を除けば、暮れかかる小径の雑草を踏みならし、初夏の奥嵯峨を汗を吹きながら下流の市街地目指して進む二人の様子は、数十年前の話なのにまるで昨日の出来事のようだった。
「ところがね…」
話を続けていた母親がいったん言葉を区切ってなつみの反応を見た。
しかしさっきの苗字を聞いた時の微妙な空気がどこか気になっていて、この時何が「ところがね」だったのか、なつみには一瞬話が見えなかった。
「うん」なつみは当たり障りのない相槌で先を促した。
「△□の崖からあたしが落ちてしまったのよ」
"あなたのお母様に大事件発生です!" といった表情で母親はなつみの顔を覗き込んだ。
「ええ!?」
なつみは反射的にそう言った。
しかし本当は母親が崖から落ちたことよりも、さっきの微妙な真空地帯のことが気になっていた。
つづく