大人のピアノ

大人のピアノ そのごじゅうはち 母親の初恋ばなし

「じゃあ、石橋さんは心配ないとおっしゃるわけね」

 ほとんど同時に母娘は同じ言葉を発した。

 斎藤氏が石橋と話をしていた客間の廊下を挟んだはす向かいにある、それよりは少し小さな応接室では、母親となつみ先生は斎藤氏がドアを開けるのを心待ちにしていた。そこにやっと斎藤氏が現れ、話の次第を聞かせたのだった。

「ああ。とりあえずは南方さんからの吉報を待つということで良さそうだ」

「分かりました」母親は静かに頷いた。

「よかったぁ。じゃあ、あたしから篠崎さんご夫婦とと朝子さんにお電話してもいいですか」

 なつみ先生が斎藤氏に訊ねる。

「ああ、そうだな。こっちはまだ石橋さんと話があるからそうしてくれるか」

「はい」

「それとな、石橋さん親分から連絡があるまではって一切飲み物に口つけないんだよ」斎藤氏が母親に向かって言った。

「あら、それじゃあ『入船』のお鮨でもとりましょう」

「うん。そうしてくれ」

「分かりました」

「よろしく」

 斎藤氏はまた石橋のいる客間に戻っていった。




「朝子さんはショックでまだ部屋で休んでるということだったから、篠崎さんにさっきのお父様のお話お伝えしました」

「ホッとされてたかしら?」

「ええ。そのようでした。いい知らせがきたらまた連絡くださいとのことでした」

 なつみ先生の言葉に母親も頷いた。

「そう。良かったわ。こっちもお鮨の手配終わったわ」

「お疲れ様でした」

「あなたもね」




 二人は程なく配達された出前を応接間に運び、自分たちも鉄火丼の夕飯を食べた。




「そういえば久しぶりね、あなたとこうして二人でゆっくりこんな風にお夕飯すませるの」

 あがりの濃いお茶で口を潤しながら二人はのんびりと向かい合って話をした。

「そうよね。なんか不思議。いつも顔合わせているのに夕食の時間は全部レッスンで埋まってるからね」

「今回は生徒さんにもだいぶお世話になって」

「篠崎さん、神田さん、平林さん…ほんとに感謝してるわ。騒動が終わったら改めてお礼のご挨拶しないと」

「そうね…。私も今度の土曜日のあなたの『大人のピアノ発表会』できちんとご挨拶するわ」

「ええ、ありがとう。お母様」

「はい、皆様に改めてきちんと謝りましょう」

「はい」



 レッスンを一週間すべて臨時休講にしたなつみ先生は、そのあとしばらく母親と取りとめのない話をしていた。

「そういえば、あなた誰かいい人いないの?」

 母親が唐突になつみ先生に訊いた。

「え?珍しいわね。お母様がそんなこと聞くの」

「そうかしら、だって年頃のあなたにそういう話があっても不思議じゃないでしょ」

「今はおつきあいしてる人はいないわ」

「ふーん。じゃあ気になる人は?」

 なつみ先生は母親に適当に相槌を打ちながら、なぜかボンヤリとあの飄々とした篠崎の顔が浮かんできて自分でも驚いて狼狽した。

「あら!なつみ、今誰かの顔思い浮かべたでしょ」

「そ、そんなことないわ」

 慌てたなつみ先生は思わず噛んでしまった。

「あら、あやしい…。ま、いいわ」

「お母様こそなんか変よ。急にそんなこと聞いたりして。どうしたの?」

 なつみ先生が苦し紛れに防戦すると、母親の表情からそれまでの茶化すような笑い顔が消え、口からは意外な言葉が出てきた。



「初恋のね…人のこと思い出してた」

「え!?いつ?」

「さっきお父さんが帰ってくるまで石橋さんのお相手している間よ」

「ええっ!?どういうこと?」

「うん…」




 なつみ先生がは母親の目が遠くの風景に泳ぐのを感じた。そこには「若き日の初恋のロマンス」という浮いた話ではなく、何かもっと切実な痛みのようなものが感じられた。

「どんな…お話なの?」恐る恐るなつみ先生がは訊いてみた。

「うん…」

 母親はどこから話をしようかと、言葉を遠くに探していた。





つづく

大人のピアノ そのごじゅうきゅう 一緒にピアノを弾いた少年

「あたしのお父様、あなたのお祖父様のお顔憶えてる?」

 母親の視線は遠くを見たままだった。

「もちろん憶えてるわ。もちろん、会ったのは一回だけだけど」

「そうね。あなたが11歳の時、あたしが生きている間に父に会ったのもその時が最後だったわ」

「二年後にもう一回同じパリ郊外のヌイイ•シュル•セーヌでお葬式だったね。結局日本には帰りたくなかったのかな」

「みんなそういうんだけどね。帰れなかったんじゃないかなあ、やっぱり」

「そうね、あたしもそう思う」

「うん。ありがとう…」


 なつみの祖父の話をする時にいつも二人の間を包む沈黙が、二人の間に静かに流れた。





「国語の教科書に載ってたお祖父様の文章の解説にも『ついに帰郷を選ばずに彼の地で没す』って書いてあったよ。子供ながらになんだかすごい人生なんだなって思った。お祖母様もお母様も日本に残してフランスに留学したまま帰ってこなかったんだもんね」

「そうね。将来を嘱望された二年の予定の国費留学生のはずが、最後はパリ郊外の日本語学校の教師だった」

「日本では"デカルトとパスカルの研究者、思想家"っていうことになってるよね」

「そうね。でも出版物は日本語でしか書いてなかったから、実際に暮らしていたフランスでは一日本語教師ということだったみたい」

「何でかな」

「うん」






「著作集にこんな言葉があったわね」

 母親が寂しそうな顔をして自分の父親の言葉を口にした。


 僕は死に直面しても娘などに来てもらいたくない人間にならなければならない。娘がどこかに存在している、というだけが僕のよろこびであり、慰めであるような人間にならなければならぬ。


「哲学者だからね。「娘」っていう言葉は一つの例だよ、やっぱり」

 もう何度も娘によって引用しされたこの言葉が口から出るたび、なつみはそれを打ち消すように、その本当の意味を語っていると思われる箇所を母にかわって祖父の著作集に探した。
 祖父の残した著作は体系的な哲学書ではなく、祖父が好んで引用したアランが残したような箴言集であった。だから、考え抜かれた思考が言葉になるとき一見すると真逆のように見える時もあるし、別の言葉の光を照らしてみると、そこにまったく別の意味が浮かび上がったりする。

 母親がさっきの言葉を引用したあとになつみが引用するのは、例えばこんな言葉だった。

「でもこんなことも言ってるわ。


自分の勝手で作り出した孤独ほど無意味でみにくいものはない。本当の孤独は孤独からは生れない。僕は孤独を耐えがたく思う人間なのである。


もう何度もご本に探したからソラで言えちゃう。この孤独が本音で、「娘」云々はそういう孤独を耐えがたいと思ってる自分をムチで叩いて鼓舞するためだよ」

「ありがと。あたしが悲しそうな顔するたびあなたは必死になって著作集をひっくり返して言葉を探して、お祖父様の本当に言いたかったのはこういう意味だよ、ってお母さんを慰めてくれた」

 母親はなつみを感謝の目で静かに見た。




「そう。すごーく国語力ついたわよ。あたしが国語の成績が常にトップだったのはそのおかげね。だから、この全集作ってくれた出版社の編集者の人の次にお祖父様の言葉に詳しいのはお母様じゃなくて、この私」

 なつみが"えっへん"とばかりに胸を張る。

「そうね。もしかしたら私のお父様よりも」

「そうよ。あたしが引用した言葉が本当に言いたかったことだよ」

「うん。ありがとう」




 普段口に出さなくても二人の間に流れている共通の時間はこうしていつでも再開できる。それはなつみが成長して行く中で折に触れこうして二人の間で母親の父、なつみの祖父にあたる人物の残した著作集をひもときながら、家族を捨ててフランスに骨をうずめてしまった真意をあれこれ想像していたからだった。


「こんなことも言ってるよね。何で日本に帰ってこなかったか聞かれて…。


パリに行って、"自分のために"なるように学べることは"全部"日本で学ぶことができるのだ。



「あなたのお父様が一番好きな言葉ね」

「お父様に言わせると、お祖父様は本当の意味での『教養』の意味を知ってる唯一の日本人だってことらしいわね」

「みんな"自分のために"なるようなこと探して留学したり、本を読んだり、コンサートや劇場や美術館に行ったりする。あなたのお父様はそういうの全否定だもんね」

「そう。だから一般的な教養崇拝者の洗足学園の岸谷先生とは喧嘩になるわけね」

「そうね」

 二人は大きな声でたのしそうに笑った。



「あのね、なつみ」

「はい」

 なつみは母親の初恋ばなしが、この祖父の話を経由することが必要なほどに母にとって本質的なことであることを理解した。そして、同時にかすかな胸騒ぎを覚えた。



「昔ね…。子供の頃に京都の実家で一緒にピアノを習っていた男の子と、やっぱりそんな話をしたことがあるのよ」

 二人の間にあの静かな沈黙が流れた。

「お祖父様の本を広げながら…」

「うん…そう」

「それが…初恋の人ね」

「そうよ」

「うん」


 なつみは母親の目を見た。静かに笑っていた。なつみはさっき感じた胸騒ぎがすっと曳いていくのを感じた。

 いい思い出なんだな。でも、なんでさっきそれを思い出したんだろう…。

 なつみは母親の言葉を待った。





つづく





*イタリックのなつみの祖父の哲学者の言葉は『森有正エッセー集成<1>~<5>』ちくま文庫 より引用いたしました。なお作中のエピソードはすべて創作です。

大人のピアノ そのろくじゅう 嵯峨野への冒険?

「その男の子はピアノを弾いたのね」

「ええ。もともとその子の父親が私のお祖父様、あなたの曽祖父様のお客様だったのよ」

「曽祖父様って、あの…」

「ええ。政治家だったからいろんなお客様が京都には出入りしてたわ。その子のお父さんはなんと、博徒の元締め」

「え?博徒って、あの丁半の…」

「そうなの。慶応年間からの続いてるそうだから明治維新より前から実家とは付き合いがあったみたい」

「お母様の京都の家は確かにそういうお付き合いがあっても不思議はないな…という気はするけどね」

「うん」

「じゃあ、その少年も?」

「6人兄弟の末っ子だったけどね、まあゆくゆくはそういう世界の人になることが決まっていた」

 母親はおもむろに立ち上がると、斎藤氏がいる応接間におかれたピアノより小さなアップライト型のピアノの前に座りその蓋を開けた。

「あの子がくるのが楽しみだったわ。こうやって一緒にピアノを弾いてた」



 ブルクミュラーの「こどものつどい」。なつみが小さい頃母親と一緒に練習した曲だった。

「その子も同じ曲を?」

「そうね。だから私を通じてその少年とあなたは同じ曲で繋がっていたのかも知れないわね」

『繋がっていたかものしれない?』

 なつみは母親の言葉に何か含みのあるものを感じた。




「ある日ね…」

 ブルクミュラーを続けて何曲か弾いたのち、母親は何も置いていない譜面台をじっと見つめて話し始めた。

「ある日、その子がピアノの練習に飽きた私を保津峡に連れて行ってくれたの」

「保津峡…。嵯峨嵐山の」

「ええ。その日はお祖父様もお父様もいらっしゃらなくて、何となく解放的な気分だったのね。中学校に入ったばかりで、制服を着ることを覚えて何だか自分たちも急に大人になったような感じがしてた」

「家からは電車よね…」

「そう。二十分くらいかしら。小学校の頃はその二十分の距離がとてつもなく大きかった。でも、ひょっとしたらもう私たちはそんな距離なんてひと跨ぎにできそうな気がしたのよ。どんな脈絡だったかは忘れてしまったけどトロッコ列車の話になったの」

「うん」

「その子が言ったわ。『行く?』って」

「頷いたのね」

「そう。今でも覚えてるわ。はっきり『行く』って頷いたの」



 なつみは今から数十年前、母親が保護者の誰もいない家で少年の冒険の誘いに頷いた様子を想像した。
 きっと、胸はときめきで溢れそうだったに違いなかった。顔は少しピンク色に上気して、目は遥か遠くを想像しながらも、しっかりと目の前の少年の瞳に焦点を結んでいる。



 母は今、まるで中学生のその時のように若やいで見えた。




つづく

大人のピアノ そのろくじゅういち トロッコ列車に乗って

「保津峡デートかあ」

「なつみは行ったことあったっけ、保津川あたり」

「うん。高校の時に嵐山から亀岡までトロッコ列車に乗って往復しただけ」

「ああ、そんなことあったわね。初めての友達だけの旅行だっけ」

「そうそう。親戚が京都だからっていうことで京都のエキスパートだと思われちゃってね。そんなことないのに、一週間の旅行のガイドさんみたいなことしたっけな。楽しかったよ」

 なつみの顔に無邪気な笑顔が浮かんだ。



「じゃあ、列車の中から保津峡下りの船とか見えたでしょ」

「見えた見えた。通るたびに船の方からみんな声をあげて列車に手を振ってくれたなあ」

「その保津峡下りの船って下ったあと今はトラックでまた上流に戻すんだけどね、戦前は渡月橋の南側の中ノ島に架かる渡月小橋の南詰めあたりから人足の人が交代で担いで上流に運んだのよ。」

「ああ、聞いたことある。なんだっけ」

「舟曳き道」

「ああ、そうだ、それ」

「河原から山路に入って行くと今でも小径があるのよ」

「お母様、詳しいのね」

「そんなはずじゃなかったんだけどね、じつはその時その小径を上流の保津峡から下り方向に歩いたの」

「え?その初恋の少年と?」

「そう」

「そんなつもりじゃなかったって…」

「そうなのよ。あたしたちも高校生なつみと同じで嵐山からトロッコ列車に乗ったの。保津峡駅で途中下車してお散歩したんだけどね」

「うん。いいね、ロマンチックで。中学生二人は人家もない保津峡で下車して散策かあ」

「最初はね…。実はあたしが帰りの列車の時刻表を間違えてメモしたのが事件の始まり」

「事件…?」

 事件といいながら、母親は楽しそうに思い出話を楽しむ表情だった。




「今でも覚えてるんだけど嵯峨野82号というのが最終の上りで17:51発だった」

「51分まで覚えてるんだ」

「そう。そこから計算して家までギリギリ7時前には着けるなってね、歩きながら何度も逆算してたわけ」

「なるべく長くいたかったわけね」

「そうね。ところが嵯峨野82号というのが日曜だけの臨時列車だったの」

「まさかその日は…」

「土曜日」

「それで歩くことにした…」

「新緑の季節でね。まだ17:51分は明るかったわ」






つづく
ゆっきー
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