大人のピアノ

大人のピアノ そのさん 異変!?

 二人は教室のある駅で下車して道を急いだ。レッスンの時間は一人三十分。斉藤なつみ先生は、昼は普通の教室を運営していて、週二回火曜と金曜に「大人のピアノ」教室を開いている。サラリーマンがほとんどなので、時間は夕方6:00からの予約制だ。レッスン中の見学は自由なので、自分の予約時間より早く来たり、終わったあと残っていたりする生徒が結構いる。自分の刺激のために他の生徒の進捗状況を観たりするのだ。今日も9:30からが篠崎でその次が10:00から最終の平林が一緒の電車になったりする。

 夜半から雨の天気予報通り小雨がぱらつき始めた駅からの小道を、折り畳み傘を広げながら二人は歩き始めた。


「でもさ、あれだよね、平林さんは学生時代音楽やってたからいいよね」

 歩きながら篠崎がしみじみそう言った。到着までの間持たせのために振った話題というよりは、その声にはどこか切実なものがあった。

「そうですか?そんなこと全然ないですよ。だって僕サックスだから指の使い方の感覚なんてまったくピアノの運指には関係ないですし。譜面だって右手と左手一度に読み取るなんて芸当とても出来たもんじゃないですよ。サックスは自分のメロディ、ピアノの右手だけですから何とかなるけどピアノは泡食っちゃってとても楽譜なんか読めてません」

 篠崎の言葉の意図を確かめるようにゆっくりと平林が言う。

「そうなの?それは驚きだ。そういうもんなんだあ」

 雨が少し強く降ってきたこともあったのか、篠崎はそのまま歩いた。平林も並んで歩いたがおもむろに聞いてみた。

「どうしてですか?鉄人広告営業マンの篠崎さん、来週の発表会に向けて何か悩み事でも出てきましたか」

 笑いながら平林は話を継いだ。二人はタイプこそ違えど例のおっさん嗚咽泣きの飲み会の時席が隣だったこともあり、その後もケータイメールで何かと連絡を取り合ったりしていた。多分「大人のピアノ」で出会っていなかったら挨拶する機会さえなかった二人かもしれなかったが、二人はあの時互いのまなじりに浮かんだ微かな涙を覚えていた。社会人になって本当に数える程しかない、本当に心の防波堤ゼロの状態の一体感の余韻は、あの日ぐっと近くなった二人の距離をそのままキープしていた。

「俺さ、基本的に音楽の才能ねえなあって、この一年つくずく思ったのよ。まあ当時はピアノ云々よりも、会社やめたりそのことで家庭でさらにトラブったりしてさ、別の世界に逃げ込みたいっていうか、はっきり言ってなつみ先生とお近づきになることが目的だったから、ピアノなんてオマケだったわけだけどね」

「それが一年たってモーツァルトのトルコ行進曲じゃないですか、スゴイですよ。まったく鍵盤触ったこともなかったってことなんだから」

 お世辞ではなく平林はこの一年時々篠崎のレッスンを見学した時そう感じていた。この人はやっぱり、飲み会で先生の大拍手を引き起こすきっかけを作ってくれた神田さんが言ったように、「届かないかもしれなくても女性を思い続けるひたむきさ」みたいなのを確かに心の内側深くに持っていると思った。

「まあね~。まあ、それは俺も素直に嬉しい。ってか、自分で信じらんないし、ここだけの話自分でもカンドーしちゃったりしてる。家で練習終わったあとなんか、もうキモイナルちゃん状態外に出さないように気をつけてビールで一人乾杯。そのビールが美味いのなんのってさ」

 右手に持った傘をバンザイするように上にあげて白い歯をのぞかせて笑う篠崎は、ほんとにいい顔をしていた。

「そういう時、やっぱり奥さんと娘さんは…」

「あ、だめだめ。最初はオレもドヤ顔みたいなのあったけど、関係こじれちゃっててね。無視され続けてるよ」

「やっぱ天下の電報堂相談なしに辞めちゃったってのが効いてますかね…」

「そ、ね。あるかもな。会社に務めてた頃は全然知らなかったけど、奥さん連中で『ご主人どこお勤めです?』から始まる付き合いみたいのあったらしくてね。そんなの何十年も全然知らなかった。会社で失敗したあなたのせいであたしの人生公私ともども狂わされたってさんざんヒステリックになってたな。それならなんつっか、俺が会社で辛かった時もうちょっと優しくして欲しかったよなあ、とかね」

「そんなもんすかね」

「そ、そ。娘は自分じゃそういう価値観軽蔑してるんだけど、女同士でうんうん、お母さんかわいそう、みたいなね」

「家庭持ったら持ったで大変だよなあ。やたら結婚焦るのも考えものかもな」

 平林が薄くなりかかった自分の額をピタピタと戯けて叩きながらいうと、篠崎が平林の肩に手を回して「そうそう」と芝居がかった深刻な顔でうなずいた。

「いったん家庭持ったらどんな家庭にだって、人には言えない苦しみや恥部みたいなものができるもんさ。もしかしたらあの斉藤家みたいにお父さん外務省の役人でお母さん京都の老舗呉服屋のお嬢さんみたいな家でも深刻なドロドロがあったりとかな」

「まさか。一般論としてそういうのはあるかも知れないですけど、あのなつみ先生の天真爛漫さ、性格の良さでそれは想像しにくいなあ」

 冷やかされるのを覚悟で平林はあえて本音を言った。

「まあね、それはオレもそう思った。」

 案に反して篠崎は素で同意した。

「でもね、あれでなつみ先生が実は酸いも甘いも何かの苦労も知っててだったら、オレまじになるかもしれない」

「まじって、なんですか?」

「いや、女房子供捨ててもいい。まじで惚れる」

 篠崎が本気の顔をしてるのを確かめると平林は腹の底から爆笑した。

「あのさ、篠崎さん。相手の気持ちだってあるわけだし。それにとてつもない過去みたいなものなんてそうそう他人が背負えるものじゃないですって」

「ウルセー。独身者のお前に何がわかるってんだ」

「はいはい。分かりましたよ、さ、そんな馬鹿話している間に付きましたよ」

 二人はいつものように、これぞピアノ教師の令嬢の邸宅といった大きな門構えの洋館のインターフォンを鳴らした。古い洋館なのでインターフォンが少し古ぼけているのだが、かえってそういったところも成金じゃないホンモノ的な感じがした。


 ところがその日に限って、何度インターフォンを鳴らしても内側からは何の反応もなかったのだった。



つづく

大人のピアノ そのよん 先生のラブシーン?

「変ですね、どうしたんだろ。こんなことこれまで一度もなかったですよね」

 首を捻る平林は爪先立ちになって軽くジャンプして門中に明かりが灯っているか見ようとした。

「おい、やめとけって。不審者がいますってことで警備会社がすっとんでくるぞ」

 平林より十センチ程上背のある篠崎が首を上から押さえるようにして静止した。篠崎の右手の指先を眺めると確かにセコムのステッカーが貼ってあるセンサー感知可動式最新型の防犯カメラが平林を捉えていた。

「げ、すいません」平林が反射的に誤った。しかしあわててて頭を下げたのが篠崎じゃなくて防犯カメラだったのがご愛嬌だ。

篠崎も噴き出しながら
「まあ、このくらいじゃ大丈夫だろ。幸いオレたちは会社帰りのスーツ姿だし、そこまでセコムも暇してないだろ」と言って防犯カメラに軽く敬礼してみた。

「さってと、どうすっかな。平林さん俺の前のレッスンの人だれだっけ」

「ちょっと待ってください」

 身体をよじるようにして平林がスーツのズボンから携帯を取り出した。ずぼらな篠崎は次回の自分のレッスン時間だけを頭にいれて置くだけだったが、平林は毎回壁に張り出されたスケジュール一覧表を携帯のカメラで撮って保存していたのを思い出したのだった。

「えっと、神田さんですね」

「おっと、嗚咽宴会部長の神田さんか。神田さんのレッスンって無事終わったんだろうか。」

「ちょっと電話してみますね」

「お、頼む」

 メモリから番号を呼び出して平林が神田に電話をする。とことんまめな男だ。多分かけるかけない関わりなしに「大人のピアノ」生徒全員の携帯番号が「大人のピアノグループ」にでも登録されているのだろう。

 しかし平林は首を横に振った。

「ダメですね。留守電も契約してないみたいで、そのままなり続けてます。メールしてみましょうかね」

「うん、そうだな。オレちょっとこのお屋敷ぐるっと回って一周してくるよ。もしかしたら勝手口とかあるかもしれないし。呼び鈴があればそこでも鳴らしてみて反応があれば平林さんの携帯に電話する。」

「あ、分かりました。じゃあ僕は念の為にここにいますね。もしかしたらインターフォン越しにひょっこり『すみませんでした、手が離せなくって』とかなつみ先生の反応があるかもしれないし。」

「あ、うん。そうだな。じゃあちょっくら行ってくる。いくらこのお屋敷でも5分もあれば一周して帰って来れると思うよ」

「そうですね。じゃ、行ってらっしゃい」

「ああ」

 そう言って篠崎は時計と反対周りの方向に邸宅の外側の道を歩き出した。





 ところが平林が5分待てど10分待てど、篠崎は反対側から現れなかった。不安を感じた平林が15分後に篠崎の携帯に電話すると、長い長いコールの後やっと篠崎の「はい。もしもし」とまるであたりをうかがうような押し殺した声が聞こえた。

「もしもし、篠崎さん、どうしたんですか」平林も事情がわからないままついついあたりをはばかるような小声になってしゃべった。

「おう…ちょっとタイヘンなことになった。というか大変なものを見てしまった」

「篠崎さん、どうしたんですか」

「平林さんゆっくり、いや急いで屋敷の反対側に来てくれる?でも静かに気配殺して」

 気配を消してといわれても忍者でもない平林にはどうしたらよいか具体的にわからなかったが、とりあえず「分かりました」と小声で伝えて携帯を切り、小走りにさっきの篠崎と同じ時計と反対周りに屋敷の裏側を目指した。




 暗闇の中にうっすらと白いコートを着た篠崎が浮かんで見えた。まだ秋の終わりでそれ程寒くはない季節だったが、篠崎は張り込みの刑事のようにコートの襟を立てて、屋敷と反対側の公園の方を電柱の影に身を隠すようにして注視していた。

「篠崎さん…」

 その気配に胸騒ぎを覚えた平林は緊張した声で篠崎の名前を呼んだ。

「おう…」篠崎の表情は複雑な、しかし明らかにどこか呆然としたものだった。

「いったいどうしたっていうんですか」平林は内心の動揺を隠すように詰問するような口調で篠崎に向かって言った。

「あれを見てみろ」




 平林が篠崎の肩越しに公園の暗がりに目をこらすと、男女が肩を寄せて抱き合っていた。男は明らかに堅気者ではなくそっちの筋の者に違いなかった。

「あれがどうしたっていうんで…」

 平林は問いかけた言葉を途中で飲み込んだ。




 白いワンピースにベージュのシュシュのポニーテール。

 暗がりを通して横顔が平林のまなこにくっきり刻まれた。

「なつみ先生…ですよね」

「ああ」

 篠崎は沈鬱に言葉を返したが、その声はもう平林には聞こえていなかった。



つづく



 

大人のピアノ そのご 助っ人(?)登場

「どういうことっすか、これ…」

 しばらく呆然と無言だった平林が、やっと我を取り戻したように前を向いたまま篠崎に語りかけた。

「うん。とりあえず玄関口の方に戻ろう。事情がわからないところでここにオレ達がいることがわかったらもっややこしいことになるだろう…」

 そう言って篠崎は平林の肩を叩いて促したが、振り返った平林の顔は無表情に硬直していた。

「事情が分からないって、事情も何もないじゃないですか。僕たちのレッスンすっぽかしてヤクザ者と乳くりあってるだけじゃないですか」

 篠崎は『乳くりあってる』という平林の言葉に吹き出しそうになったがそれを必死にこらえた。言葉遣いは少し妙だが、独身者の平林がなつみ先生に憧れ以上の恋心のようなものを抱いていたとしても不思議ではなかったし、この様子では実際のところその通りだったのだろう。少なくとも篠崎自身もショックを受けたが、そのショック以上に平林が傷ついていることは想像に固くなかった。

「うん、確かそうだ。男と女が何をしようが当たり前だけどそんなものは人の自由だ。相手がヤクザであってもその原則は変わらないとオレは思う。男女のことはつまりそれがどんなものであっても誰も非難なんてできやしないと思う。しかしレッスン時間にレッスンほっぽり出してああいうのは良くないよな。平林さん裏切られたって気持ちだろうし、オレもあんたとまったく同じ気持ちだよ」

 硬直していた平林の顔がその言葉で涙で歪み、感情の発露に自分自身戸惑った平林はポケットのハンカチを探った。

 バックパックに入れてあったのか、ズボンのポケットにはハンカチは見当たらないようだった。篠崎が大きくたたんだしっかりした折り目のハンカチをポケットから出して平林に渡すと、平林は一瞬受け取るのを躊躇したあと「すみません」と言ってハンカチを受け取り、そのまま顔に当て、両手で量の目頭をじっと押さえつけた。

 まるで止血の応急措置のようなその仕草に篠崎は平林の傷つき方の大きさを再認識したが、涙の止血行為は虚しく、ハンカチを返してよこそうとする平林の意思を裏切って涙はさらに傷口から溢れ出た。

「いいよ、しばらく平林さんがもっててよ。それより、とりあえず…な…」

 平林は素直に頷くと、篠崎に手を引かれるようにして歩き出した。




 ちょうど表玄関のところまで二人がトボトボ歩いて帰ってきた時に、平林の携帯が鳴った。

「あれ、まずい。どうしよう」

 平林は困惑した顔を篠崎に向けた。

「どうした」

「さっき篠崎さんが裏に回っている間に神田さんにメール打った返信です」

「何だって書いてある」

「『まだ近くにいるからすぐそっち向かう』とのことです」

「何だって!ヤバイよそれは」

「すぐ断ります」

「いや待て」

「どうしてですか。さっきは取り乱して申し訳なかったですけど、このことは僕と篠崎さんの胸の内にしまっておきましょう。そうでなくてもあの人嗚咽宴会大成功から生徒全員への影響力絶大だし、自分も何かと仕切り屋したがってて面倒になること目に見えてるじゃないですか」

「いや、まあ、まったくもってその通りだ」

「だったら」

 さっきから大通りの方を眺めたままで受け答えする篠崎にイラつきながら平林が言うと、篠崎がこちらに向きなおった。




「もう遅い」

「え?」

 篠崎が見ていた大通りから一台のミニクーパーがこちらに近づいた。

 もったいつけるようにクラクションを三回も鳴らした後、中からおもむろに出てきたのは、もちろん神田さんその人だった。

 

大人のピアノ そのろく 大人のピアノの仲間たち

「どうも要領を得ないんだよねえ…」

 夜のファミレスの駐車場に車を入れると三人は取りあえず話し始めた。

 歯科医の神田は比較的時間が自由になるので食事は済ませているが、篠崎と平林は会社から直行なので、夕食もここで済ませることにした。篠崎はチキンのグリルソテーセットで、平林は天丼セットを注文した。

「ですから、僕がはやとちりして神田さんにメールしちゃいましたけど、夕方なつみ先生からメール入ってるの見逃してて、『急に入院中のお友達の具合が悪くなったから千葉まで行かなくちゃいけなくなった。ついては今日のレッスンはお休み』って事だったんですよ」

 天丼と盛り蕎麦とセイロご飯を律儀に三角食べしながら、平林は落ち着かない様子で神田にそう言った。

「じゃあ、篠崎さんところにも入ってたわけだ」

 神田は今度は篠崎の方に疑惑の目を向ける。

「ええ。まあ」

 チキンをあらかじめ五つほどにナイフでバラした篠崎は、箸を使って白ご飯を口に運びながら生返事をした。

「千葉って、お友達はなんで千葉なんですか?」

 ホットコーヒーをすすりながら、神田はフチなしメガネの端を少し掛け直すような仕草をして今度はメガネの奥の視線を平林に注いだ。

「それは僕だって分かりませんよ。なつみ先生はずっとあの屋敷だから小さい頃の転校して行った友達かもしれないし、音大時代の人かもしれない。そんなの僕にわかるわけないでしょ」

「それはまあ、そうですけどね…」

 なおも神田は何か言いたそうであった。仕切り屋の自分がすべての事態を把握していないかもしれないというのが嫌だったのだろう。

「まあ、そういう訳でご自宅に戻る途中を捕まえちゃって、神田さんにはご迷惑おかけしました」

 早々とチキンソテーセットを平らげた篠崎は紙ナプキンで口を拭うと灰皿を探しかけたが、禁煙席であることを思い出して、運ばれたばかりの食後のホットコーヒーにミルクをいれてかき回しながらそう言った。

「いやまあ、僕はいいけどね。家帰ってもすることないし」

 ようやく追求の手を緩めた神田は、うんうんと自分で小さくうなずき笑いをした。

「神田さんは来週の発表会にご家族来るんですか」

 話の流れが変わったことにホッとした平林が、話の流れを確定させるように神田のことに水を向けた。

「いやあ、それがねえ…。意外なことに女房も子供二人も来てくれることになりましてね。お父さんの一生のお願いだから発表会の会場で三人で爆笑するのだけはやめてくれって言ったんですけどね」

 破顔一笑とはこのことだろう。神田の表情からはさっきまでの猜疑心に満ちた渋面が跡形もなく消え、得意半分テレ半分のひとなつっこい表情が表に出た。

「それはよかったですねぇ」

「どうも」すかさず相づちうった篠崎に神田はちょこんと頭を下げて微笑んた。

「篠崎さんところは…」

 お約束通り自分に話が振られて、バツが悪そうに篠崎はちらっと平林を見た。

「いや、お恥かしい。女房にも子供にも「大人のピアノ」の件は完全にシカト食らってまして…」

「おや、そりゃまたなんで」

「う~ん。なんででしょうねぇ」

 いつもは平林を引っ張る形の篠崎が助け舟を求めるように平林に目を向けた。

「ほら、神田さんのところはお子さんもまだ高校生と中学生でしょ。ギリギリ家族イベントにも参加してくれる年齢ですよ。篠崎さんところはもう娘さんも来年は大学四年だし、パパがピアノ発表会なんて照れ臭いんでしょ」

「じゃあ、奥さんは?」

 せっかくの平林の絶妙のフォローは幸せの歯科医神田先生の一言で振り出しに戻った。

「いえ、女房はクラシックもカラオケも、およそ音楽全般好きじゃないんです」

 苦笑しながら篠崎が言うと「なるほど」と神田先生もやっと納得してくれたようだった。

「平林さんは誰か呼ぶの?」ホッとした篠崎は今度は平林に話を振った。

「僕は大学時代の友人が来てくれます。なつみ先生が何人連れてきてもいいっておっしゃってくれてましたので、お言葉に甘えて六人」

「ほぉぉ…それは楽しみですね。飲み会の時におっしゃってたJAZZ研のメンバーの方ですか」

「はい。僕はサックスを大学から始めたんですけど、中にはクラシックピアノを小さい頃からやってたなんてのもいて、一人に声かけたらあっという間に集まっちゃったんです」

「それは羨ましいなあ。ひょっとして誰も来てくれないのはオレだけだったりして…」

「篠崎さんご家族が冷たいんだったら、昔の恋人とか、告白できなかった幼馴染とか呼んじゃうっていうのもありなんじゃないですか?」平林がいたずらっぽく笑った。

「え?いやあ、そんなの考えたこともなかったなあ」

「いえ、意外とあるらしいですよ。そういうの」神田が身を乗り出した。

「…といいますと」篠崎が相づちを打つ。平林も興味深々だ。

「いえね、後でお見せしますけどこの『斉藤なつみ「大人のピアノ」発表会』って、パンフレットもチケットもプログラムも作りますでしょう。まあチケットは無料だし、パンフレットも表だけカラーで裏はモノクロですがパソコンで作ったものじゃなくて一応印刷物です。以前はパソコンで作ってたらしいんですけど、「斉藤なつみ大人のピアノ教室」の出身者で小さな印刷会社の社長さんがいるんですが、その方のご好意で無料で作っていただいてるんです」

「ああ、そういうわけだったんですか。広告マンとしては費用がどこから出てるのかな、なんて考えたことありましたから」

 篠崎が頷くと斎藤も「なるほど、しかし太っ腹ですね」と感心した。

「それがですね。この社長さん、三谷幸喜さんっていうんですけど、ええ、あの映画監督と同姓同名で。三谷さんが提案して作った初回は皆さんから費用集めたらしいんですよ。会場費とかと一緒に」

「そうでしょうねえ。しれがまたなんで無料に?広告出稿してもらうというのも、この媒体じゃ無理だろうし…」

「西田敏行なんですよ」神田先生はにんまりと笑った。嗚咽宴会部長の顔だった。

「三谷さん、ずっと独身だったんですけどね、刷り上がったパンフレットに『エリーゼのために 演奏者:三谷幸喜』っていう活字を見て、思い切って中学時代の初恋の人に連絡とったらしいですよ」

「勇気ありますね」平林が真剣な顔で聞き入った。

「そうなんですよ。それでね、西田敏行よろしく「思いのすべてを歌にして君に伝える」ってことしたわけです。それがご縁で…」

「まさか…」平林は身を乗り出した。

「そう。それが今の三谷社長夫人ってわけですよ。私も存じ上げないのですが、パンフレット作成の打ち合わせで三谷さんご本人に聞きました。当然コンサートには奥様もいらっしゃいます。二歳の坊ちゃん連れて。その幸せを与えてくた『斉藤なつみ「大人のピアノ」発表会』の印刷物はご祝儀で毎年無料ってわけ」

「うおぉぉぉ!いい話だなあ」

「平林さんもバンドのメンバーなんかじゃなくてそういうのにしたら良かったのに」

 篠崎がチャチャを入れると、平林は少し赤くなった。

「あ、もしかしてそのJAZZの仲間の中に好きだった人がいるとか?」神田がたたみかける。

「いえ実はそうなんです。その人に声をかけたつもりが、余計なのがあと五人もくっついてきちゃって…」

 神田と篠崎は目が合うと爆笑した。平林照れ臭そうに笑った。三人ともいい笑顔だった。

「あ、そう~それが大部隊の真相かあ。こっちなんか応援隊ゼロだから羨ましいもんだとか思ったけどおじゃま虫か」

「いえいえ、そんなことないですよ。結婚する時にはあの時のご縁でって同じメンバーに招待状出せるじゃないですか」

「いえ、そんな結婚だなんて」

「その人独身?」神田と篠崎が同時に聞いて三人はまた笑った。

「ええ、まあ」

「おおぉぅ。じゃあ可能性ありますよ。篠崎さんも銀座のクラブのママでもさそったらいいじゃないですか」

 神田がそういうと、篠崎はイエイエという感じで自分の顔の前で手を振った。

「でもせっかくだから誰かお世話になった人とか誘ったらいいのに」

 平林の言葉に篠崎はただ微笑んで頷いたが、お世話になった人という言葉で、あの千駄ヶ谷のいいかげん&まじめ社長と胸の大きい唯一の女性社員の懐かしい顔が浮かんだ。お世話になった人、自分の原点を作ってくれたのはあの人たちかもしれないな、篠崎はふとそんな風に思った。いいかげんでまじめ。そう言えばまだ仲の良かった頃妻に「オレのどこに惚れたんだ」と酔って聞いた時、妻は真顔で「あなたのいいかげんでまじめなところよ」と言ったことを思い出した。

 篠崎が感慨にふけっている間、平林と神田は仕切り屋神田先生が準備しているパンフレットの最終原稿を前に二人して盛り上がっていた。





◼斉藤なつみ「大人のピアノ教室」第7回発表会 ◼

主催者ごあいさつ 斉藤なつみ
来賓スピーチ   洗足音楽大学ピアノ科教授 岸谷貴史

~第一部 ピアノの歓びに触れて(初心者のチャレンジ)

~第二部 ピアノで歌おう(中級者の表現)

~第三部 ピアノは友達(教室OBの演奏)

講評 洗足音楽大学ピアノ科教授 岸谷行人
斉藤なつみ先生からの明日へのエール
生徒代表感謝の言葉



つづく






 
ゆっきー
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