大人のピアノ

大人のピアノ そのなな 発表会のレパートリー談義しかし…

「えー、ちょっとそりゃ困るな。僕はそんな芸当できませんよ。ねえ、篠崎さん」

 本気で困った声に呼ばれて篠崎は回想から我に帰った。

「あ、ごめん。何が」慌てて二人の顔を交互に見る。

「だからこのパンフレットの最後に『生徒代表感謝の言葉』っていうのがあるじゃないですか」

「うん。あるね。当然神田さんがやるわけでしょ」

「いやそれが僕もそう思ってたんですけど、違うんですって」

「一番印象に残った演奏をした人がやるんですよ」神田がニヤニヤして言う。

「え?じゃあ原稿なしのアドリブってわけか」

「そうですよ。僕はそういうのは苦手です。まあ、最も印象深かった演奏という条件だから、僕なんか大丈夫だとは思ってますけどね。万が一考えたら緊張して演奏にも身が入らないかもしれないですよ」

「あれ、ずいぶん弱気だね。営業のくせに」

「いや営業と言っても僕のは人前のプレゼンとかじゃないから篠崎さんのとは違うわけです。結婚式の友人代表スピーチっていうのも一回やらされたけど、気になっちゃってご馳走が全然喉とおりませんでしたよ」

「う~む。まあ、苦手な人は苦手かもなあ。これって毎年そういうしきたりなんですか」

「そういうこと」





 篠崎も平林も発表会は今年が始めてで、パンフレットでいうところの『第一部 ピアノの歓びに触れて(初心者のチャレンジ)』っていうところで早々と出番は終わる。

 篠崎はモーツアルトの「トルコ行進曲」で平林はバッハの「主よ人の望みよ喜びよ」だ。どちらもテレビコマーシャルやドラマの主題歌などで誰もが一度は聞いたことがある名曲である。「トルコ行進曲」は指遣いは速いものの、音型つまり音のパターンは意外と繰り返しが多く、派手な割には頑張れば初心者でも格好良く弾ける。「主よ人の望みよ喜びよ」はスローだし指遣いは「トルコ行進曲」より簡単だけど、その分和音の響きを丁寧に意識しないと全体がのびたお蕎麦みたいな状態になってしまう。ペダルを踏みっぱなしにして初心者がよくこの茹ですぎた蕎麦をやってしまうのだが、このペダルをきちんと踏むには、耳で和音の響きの移る瞬間をある程度キャッチできている必要があり、これが意外に難しい。なので、楽器は違えども大学時代に経験のある平林向きだと言える。

 この辺りは、生徒の希望を最優先になつみ先生がじっくり生徒の個性、強みを見極めた上で話し合いの末決定する。ここらあたりが「大人のピアノ」の先生の本当の実力の出るところで、いわゆるピアノがお上手な音大出身者というだけでは務まらないところだ。まだ三十前のなつみ先生は若いながらも、このじっくりおじさんたちの人間性を含めて、そう…その人の中の西田敏行の正体を想像しながらコミュニケーションを取る能力が抜群だった。

 第二部ピアノで歌おう(中級者の表現)トップの神田は変り種でSMAPの「世界に一つだけの花」羽田健太郎編曲バージョンだ。羽田健太郎バージョンでポピュラー曲を課題曲や発表曲にする生徒も多い。三谷幸喜社長は第三部ピアノは友達(教室OBの演奏)で森進一の「冬のリビエラ」。教室では北島三郎や美空ひばりもオーケー。この分野だと、多分なつみ先生は生徒に言われて始めて知った曲というのがほとんどかもしれないが、CDを買ってきてはじっくり聞き込んで勉強するそうだ。

 二十代前半まで国際コンクール上位入賞の常連だったそうだが、なぜか最近はステージには立たないそうだ。クラシック界の謎の一つということで、その本当の理由をめぐってミステリアスな噂が飛び交っている。何でも本人の頑なな希望ということだが、コンサートピアニスト待望論は日本人クラシックピアニストの地位向上というシリアスな面でばかりではなく、ルックスの良さに期待する音楽業界、音楽ジャーナリズム界にも根強いのだった。

 来賓スピーチに名前の上がる洗足音楽大学ピアノ科教授岸谷貴史というのがピアニスト斎藤なつみの師匠であり、師匠は斎藤なつみの半引退生活の真相を知っていると言われるが口が硬くて本人を飛び越して情報は出てこない。ただ、師匠としてもこの一番弟子の復活を切望しているのは間違いない、というのが業界の定説であった。




「じゃあ、指名されちゃったらしょうがないってことだね」

 篠崎が平林の肩をポンと叩いた。

「その指名ってもちろんなつみ先生がするんですよね」顔をあげた平林が神田に尋ねる。

「もちろん」

「じゃあしょうがないっかあ」




 話が一息ついて、篠崎が冷めたコーヒーを飲み干すと、なんと篠崎は目の玉をむきだしていきなりむせたのだった。

「うわあ、大丈夫ですか?篠崎さん、ハンカチハンカチ」

 平林がさっきの涙を吹いた篠崎のハンカチをすかさず差し出す。

「あれ、どうしたんですか。顔色が青いですよ。コーヒーにあたったかな」

 反対側に座っている神田が篠崎の顔を覗き込んだ。

 その時平林も篠崎が青ざめてむせた理由をファミレスのドア口に発見して、同じように顔を青くした。



 怪訝そうな顔で二人を見比べた神田が体を反転してドアの方を見ると…





 千葉に容態が急変した友人を見舞いに行ってるはずのなつみ先生が、入店順番待ちの名前を書いているところだった。

 もちろん、その横には…

 あのヤクザ者が一緒だった。





つづく

大人のピアノ そのはち ラブシーンの真相

「おやおや、これは不思議なこともあるものですね」

 はなから篠崎と平林が示し合わせて何か隠し事をしていることは承知だったので、神田はことさら驚いたりはしなかったが、その代わりに半ば呆れ顔で非難がましく二人の顔を眺めた。

 平林は下を向いてがっくりとうなだれている。

「いや、まあ、なんといいますか。月並みな言い方になりますが、これにはいろいろと訳がありまして…」

 篠崎もあまりのタイミングの悪さにこういうのがやっとだった。

「ふむ…。まあ、私は別にあなた方を詰問する立場じゃないですし、どうやら斎藤先生のプライバシーに関わる問題のようですから特にどうこうしようというつもりもないんですが…」

「はい」

 神田の表情はそうはいいながらも、呼びつけられたにもかかわらず自分一人蚊帳の外状態というのが面白くなかったらしく、苦虫を噛み潰した顔をしている。



 重苦しい雰囲気を破ったのはなんと意外なことになつみ先生だった。

 平林と篠崎が顔を下にして、なんとかなつみ先生の視界に自分たちが入らないようにしていたのだが、あっさりなつみ先生がそれを見つけ、向こうから大きな声で呼びかけたのだった。

「あーーー篠崎さん、平林さん。こんなところにいらしたんですか!ちょっと家開けてまして本当にごめんなさい!急なことちょっとだけ家出まして、すぐに戻れると思ったんですが、長引いてしまって」

 といいながら、こちらにスタスタ歩いてきたのだった。もちろん、やくざ者も一緒にである。やくざ者はまるでなつみ先生の子分のように後ろからついてくる。さっきは背中からしか見えなかったがよく見ると服装はヤーさん風で上背もあるのだが、顔はジャニーズ系の好青年であった。そして近づいてくるにつれ分かったのは、そのジャニーズ系の地肌が隠れるほどに顔にアザがあることだった。

 男が近くまでくるとそのアザは先天的なものではなくて、後天的な、たぶんさっきケンカで殴られたといったところのあざだと分かった。
 さらに驚くべきことには、「こちらよろしいですか」と言いながら、なつみ先生が神田さんの隣に男と一緒に座ったのである。
 男はバツの悪そうな顔をして小さく会釈した。その会釈はヤクザ者のそれではなく、きっちりと幼少からしつけを受けてきたものの醸し出す気品のようなものすらただよっていたのだった。



「先生、いったい全体何が起きたんでしょうか。こちらはどなたさんで…」

 神田が青年の顔を覗き込みながらそういうと、それに答えたのは男の方だった。

「申し遅れました。私、斎藤武志と申します。姉がいつもお世話になっております。この度は皆様のレッスン時間を台無しにするようなことになってしまい、まことに申し訳ございませんでした」

「は?」

 平林と篠崎は目を丸くして男を見つめ、やがて同時にゆっくりと首をかしげた。



つづく

大人のピアノ そのきゅう 先生の弟武志

「うーん」

 神田、篠崎、平林三人の唸り声である。恐縮して何も注文しない斎藤武志に代わって神田が注文したレモンスカッシュは、量が減らないまま氷だけが溶けて、コースターはぐっしょり濡れている。その間武志はゆっくりと事の顛末を話した。話をするのに今の自分の境遇なども語る必要があったため、小一時間ばかりずっと話をしていたのである。

 三人は長い話に退屈するどころか、すっかり聞き入ってしまっていた。

「じゃあ、平林さんがでっち上げた『千葉の友達』ってのはあながち間違いじゃなかったわけだ。友達じゃないけど」と神田が少しいじわるく平林を見た。

 平林はバツの悪そうにすっと目をそらしたが、武志は気がつかぬ風で「そうです。千葉の船橋のクラブで住み込みで働いてました」と答えた。

「しかしなつみ先生の弟さんがクラブの、それも今聞いた話じゃあの蜷川会系列の店のマネージャーさんとは驚いたね」

 なつみ先生が面目なさそうにうつむいたのを見て、平林が「いいすぎでしょ」という目で神田を見る。

「おっと、これは失礼」

 平林の視線に気がついた神田は武志となつみ先生両方に頭を下げた。

「いえ、いいんです。家出して金も尽きた時世話になったクラブがどうもそっち系のしかも三大広域暴力団の店だと三ヶ月くらいで気がつきましたから。それでもズルズルそこにいたのは結局自分の責任です」

 なんだかんだ言って家庭の良きパパであり社会的な良識もある神田歯科医院の院長先生は、渋い顔をしている。

「まあ、変な仕事じゃなくてホールのマネージャーと言っても、専属ラウンジピアニストなわけでしょ」

 雰囲気にいたたまれず篠崎が助け舟を出す。

「はい。組の偉いさんが僕の弾くピアノがお気に入りで、かわいがってもらってました」

「さすがはなつみ先生の弟さんだね。ヤクザも心酔するピアノ弾きか」

「神田さん」今度は篠崎が口に出して神田を制した。神田は今度は何も言わずに不機嫌な顔で黙ってしまった。

「ずっと一緒に小さい頃からピアノを習ってまして、全国のコンクールの成績なんかも常に弟の武志の方が上位だったんですよ。年齢が上がって私もだんだんと音楽のなんたるかがわかり始めるころには、私なんかと弟では才能がまるで違うっていうことに気がつきました」

 なつみ先生が場を取りなすように言った。

「まるで違うってことは、つまり弟さんの方が断然上手だということなんですか」二人の顔を見比べながら平林がどちらへともなく質問した。

「はい」弟が何か言い出そうとする前になつみ先生がはっきり断定した。

「それは私だけではなくて、私たちの共通の師匠もそう認識してます」

「…師匠というとこのパンフレットにある洗足音楽大学ピアノ科教授の岸谷行人さんですか」

 さっきまで平林と盛り上がっていたパンフレットを再びカバンから取り出した神田は、尋問するように武志に問いかけた。

「はい。姉と一緒にずっとお世話になってました」

「ということは、お姉さんより才能あるってことだから、ピアノを普通に続けていればあなたも国際コンクールにどんどん入賞するピアニストになってたわけだ」

「はい、もしかしたら…」努めて淡々と話をしていた武志はこの時初めてかすかに苦渋の滲んだ顔をした。

「それが家出の原因でもあるんです。」なつみ先生が唇をきゅっとしめて小さく頷いたあと話し始めた。



 なつみ先生の話を要約すると、自分の才能にも自覚を持ち始めた当時有名進学校快晴高校二年の武志は、進路相談の時に普通の大学進学を希望せず、音楽大学を志望したらしい。当時すでに洗足音楽大学の学生であった姉のなつみ先生はそれとなくこっそり相談を受けていたが、両親、とくに外務官僚の父親は武志は当然しかるべき大学にすすむと考えており、できれは自分と同じ道を歩んで欲しいと期待していた。
 武志もすんなり自分の希望が叶えられるとは思っていなくて、両親にそのことを告げたのは国立大学の願書が締め切られた翌日だった。

 武志にしてみれば、正直に希望を言えば反対されるのが分かり切っていたので、勝手に高校とは話を進めており、親の署名や判子がいる書類は勝手に作って提出していたのである。
 息子が願書を出していないことに驚いた父親は、事の成り行きを問いただす中で明るみに出たこうしたやり方にカンカンになり、今度は意趣返しとばかり、武志の気がつかないところで秘密裏に、合格通知の届いた超一流音楽大学に片っ端から入学辞退の手続きをしてまわった。

 父親もおとなしくなり、自分の将来の希望を尊重し折れてくれたとばかり思っていた武志は、アルバイトで稼いだ金で入学金を払うて続きをしようとして初めて父親の復讐に気がついたのであった。


 カッとなった武志が家出をしたのはそんないきさつだった。



つづく

大人のピアノ そのじゅう 作戦会議

「武志君、でいいかな。だいたい事情はわかったよ。」

 話が一段落して、篠崎がつぶやいた。

「神田さんには申し訳なかったんですが、もう明らかになっちゃいましたけど、入院してたなつみ先生の千葉のお友達の容態が急変ってのは作りばなしでした」

 篠崎が頭を下げたので、平林も慌てて一緒に頭を下げる。

「あの…。あたしの千葉の友人の…ってなんでしょうか」なつみ先生が不思議そうに大きな目で二人に尋ねた。

「いえね、今日のレッスンなんですが途中の電車で平林さんと一緒になりまして、先生の御宅のインターフォンは二人で鳴らしたんです。でも全然反応がなかったので、もしかしたらお勝手口とかにもチャイムとかついてないかなってことで、お屋敷の裏手に回ったわけです」篠崎が平林に同意を求める。平林はコクっと頷いた。

「すると、なんていいますかお屋敷の裏手の小さな公園のベンチに、肩を睦まじく寄せ合っている男女を発見してしまいまして…」

 ここまでの話で武志の方はすべて事情がわかったようで、恥ずかしそうに苦笑して下を向いた。

「まあ、男の人と女の人が…」スーパー天然のなつみ先生はまだ気がつかない。

「時々女性は男性の顔に手をやって顔を愛おしそうに撫でたり、肩をさすったりと、なんていいましょうか、そのぅ…」

 篠崎は明らかに冗談モードに入って行った。平林は笑を堪えて下を向いた。神田はここで事情がわかったと見え、ふんふんと頷いた。同時に平林がなつみ先生の名誉のために自分に嘘をついたのだということがわかり、機嫌も直ったようだった。

 一人かわいいなつみ先生だけがまだ気がつかなかった。

「白いワンピースにベージュのシュシュのポニーテール。そう、ちょうどいまなつみ先生が着てらっしゃるようなお召し物のお美しい女性(篠崎は<にょしょう>と発音したので武志が吹き出した)が、顔はジャニーズ風だけどいでたちはヤーさん風の男となんと!激しい口ずけを…」

「篠崎さん、そこまででいいっすよ」武志が笑をこらえて言った。「姉貴、俺たちのこと言ってんだよ、分かる?」

「え!」

「だから最後のキスは冗談なんだけど、篠崎さんと平林さんは姉貴が俺の顔の傷を触ったり、殴られて乱れた洋服の袖さすったりしてたことを言ってるわけ」

「え?」なつみ先生はここでようやく気がついたようだった。

「キスなんかしてません!」ムキになって篠崎の方を向いた。

「だからさ、そこだけ冗談で、どっかの男とレッスンほっぽり出してイチャついてる斎藤先生を見ちゃったものだから、それかばってくれたってこと」

 武志が呆れ顔で解説したあと立ち上がって、「どうもご迷惑おかけしました」と篠崎、平林、神田の三人に深々と頭を下げた。

「いや、いいですよ、私は」神田はすっかり上機嫌だった。

「ほら、姉貴も一緒に頭を下げてくれよ」

「あ、はい。あの…どうもすみませんでした」

 篠崎と平林は顔を見合わせて笑った。

「なかなかよくできた弟さん…というべきか…」平林がいうと「かわいいお姉さん…というべきか」と篠崎が継いだ。

「どうもこの度は大変ご迷惑おかけしました」

 やっとすべての事態が飲み込めたなつみ先生が改めて頭を下げて、一同は笑って飲み物のお代わりをした。





「さてじゃあ、乗りかかった船ということもあるし、この後どうするのかっていうところの話をしましょうか」おもむろに神田がつぶやいた。

「いえでも、これは斉藤家の恥と言いますか、斉藤家のゴタゴタですので、これ以上皆様にご迷惑をおかけするわけにはまいりません」

 やっと調子を取り戻したなつみ先生が、きっぱりとそう言った。横で武志も頷いている。

「いえ、ここまで話を聞いて、はいさよなら。っていうのもかえって気になって後味が良くないですよ」神田が同意を求めるように篠崎と平林の顔を見た。二人とも思うなずいた。

「お役に立てることがあるかないかは別として、この後どうするおつもりなのかだけでも我々に聞かせていただけませんか」

 三人の総意としての神田の言葉に斎藤姉弟はしばし目で会話をしたが、やがて二人とも正面を向き直って揃って同意の頭を下げた。





つづく
ゆっきー
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