大人のピアノ

大人のピアノ そのご 助っ人(?)登場

「どういうことっすか、これ…」

 しばらく呆然と無言だった平林が、やっと我を取り戻したように前を向いたまま篠崎に語りかけた。

「うん。とりあえず玄関口の方に戻ろう。事情がわからないところでここにオレ達がいることがわかったらもっややこしいことになるだろう…」

 そう言って篠崎は平林の肩を叩いて促したが、振り返った平林の顔は無表情に硬直していた。

「事情が分からないって、事情も何もないじゃないですか。僕たちのレッスンすっぽかしてヤクザ者と乳くりあってるだけじゃないですか」

 篠崎は『乳くりあってる』という平林の言葉に吹き出しそうになったがそれを必死にこらえた。言葉遣いは少し妙だが、独身者の平林がなつみ先生に憧れ以上の恋心のようなものを抱いていたとしても不思議ではなかったし、この様子では実際のところその通りだったのだろう。少なくとも篠崎自身もショックを受けたが、そのショック以上に平林が傷ついていることは想像に固くなかった。

「うん、確かそうだ。男と女が何をしようが当たり前だけどそんなものは人の自由だ。相手がヤクザであってもその原則は変わらないとオレは思う。男女のことはつまりそれがどんなものであっても誰も非難なんてできやしないと思う。しかしレッスン時間にレッスンほっぽり出してああいうのは良くないよな。平林さん裏切られたって気持ちだろうし、オレもあんたとまったく同じ気持ちだよ」

 硬直していた平林の顔がその言葉で涙で歪み、感情の発露に自分自身戸惑った平林はポケットのハンカチを探った。

 バックパックに入れてあったのか、ズボンのポケットにはハンカチは見当たらないようだった。篠崎が大きくたたんだしっかりした折り目のハンカチをポケットから出して平林に渡すと、平林は一瞬受け取るのを躊躇したあと「すみません」と言ってハンカチを受け取り、そのまま顔に当て、両手で量の目頭をじっと押さえつけた。

 まるで止血の応急措置のようなその仕草に篠崎は平林の傷つき方の大きさを再認識したが、涙の止血行為は虚しく、ハンカチを返してよこそうとする平林の意思を裏切って涙はさらに傷口から溢れ出た。

「いいよ、しばらく平林さんがもっててよ。それより、とりあえず…な…」

 平林は素直に頷くと、篠崎に手を引かれるようにして歩き出した。




 ちょうど表玄関のところまで二人がトボトボ歩いて帰ってきた時に、平林の携帯が鳴った。

「あれ、まずい。どうしよう」

 平林は困惑した顔を篠崎に向けた。

「どうした」

「さっき篠崎さんが裏に回っている間に神田さんにメール打った返信です」

「何だって書いてある」

「『まだ近くにいるからすぐそっち向かう』とのことです」

「何だって!ヤバイよそれは」

「すぐ断ります」

「いや待て」

「どうしてですか。さっきは取り乱して申し訳なかったですけど、このことは僕と篠崎さんの胸の内にしまっておきましょう。そうでなくてもあの人嗚咽宴会大成功から生徒全員への影響力絶大だし、自分も何かと仕切り屋したがってて面倒になること目に見えてるじゃないですか」

「いや、まあ、まったくもってその通りだ」

「だったら」

 さっきから大通りの方を眺めたままで受け答えする篠崎にイラつきながら平林が言うと、篠崎がこちらに向きなおった。




「もう遅い」

「え?」

 篠崎が見ていた大通りから一台のミニクーパーがこちらに近づいた。

 もったいつけるようにクラクションを三回も鳴らした後、中からおもむろに出てきたのは、もちろん神田さんその人だった。

 

大人のピアノ そのろく 大人のピアノの仲間たち

「どうも要領を得ないんだよねえ…」

 夜のファミレスの駐車場に車を入れると三人は取りあえず話し始めた。

 歯科医の神田は比較的時間が自由になるので食事は済ませているが、篠崎と平林は会社から直行なので、夕食もここで済ませることにした。篠崎はチキンのグリルソテーセットで、平林は天丼セットを注文した。

「ですから、僕がはやとちりして神田さんにメールしちゃいましたけど、夕方なつみ先生からメール入ってるの見逃してて、『急に入院中のお友達の具合が悪くなったから千葉まで行かなくちゃいけなくなった。ついては今日のレッスンはお休み』って事だったんですよ」

 天丼と盛り蕎麦とセイロご飯を律儀に三角食べしながら、平林は落ち着かない様子で神田にそう言った。

「じゃあ、篠崎さんところにも入ってたわけだ」

 神田は今度は篠崎の方に疑惑の目を向ける。

「ええ。まあ」

 チキンをあらかじめ五つほどにナイフでバラした篠崎は、箸を使って白ご飯を口に運びながら生返事をした。

「千葉って、お友達はなんで千葉なんですか?」

 ホットコーヒーをすすりながら、神田はフチなしメガネの端を少し掛け直すような仕草をして今度はメガネの奥の視線を平林に注いだ。

「それは僕だって分かりませんよ。なつみ先生はずっとあの屋敷だから小さい頃の転校して行った友達かもしれないし、音大時代の人かもしれない。そんなの僕にわかるわけないでしょ」

「それはまあ、そうですけどね…」

 なおも神田は何か言いたそうであった。仕切り屋の自分がすべての事態を把握していないかもしれないというのが嫌だったのだろう。

「まあ、そういう訳でご自宅に戻る途中を捕まえちゃって、神田さんにはご迷惑おかけしました」

 早々とチキンソテーセットを平らげた篠崎は紙ナプキンで口を拭うと灰皿を探しかけたが、禁煙席であることを思い出して、運ばれたばかりの食後のホットコーヒーにミルクをいれてかき回しながらそう言った。

「いやまあ、僕はいいけどね。家帰ってもすることないし」

 ようやく追求の手を緩めた神田は、うんうんと自分で小さくうなずき笑いをした。

「神田さんは来週の発表会にご家族来るんですか」

 話の流れが変わったことにホッとした平林が、話の流れを確定させるように神田のことに水を向けた。

「いやあ、それがねえ…。意外なことに女房も子供二人も来てくれることになりましてね。お父さんの一生のお願いだから発表会の会場で三人で爆笑するのだけはやめてくれって言ったんですけどね」

 破顔一笑とはこのことだろう。神田の表情からはさっきまでの猜疑心に満ちた渋面が跡形もなく消え、得意半分テレ半分のひとなつっこい表情が表に出た。

「それはよかったですねぇ」

「どうも」すかさず相づちうった篠崎に神田はちょこんと頭を下げて微笑んた。

「篠崎さんところは…」

 お約束通り自分に話が振られて、バツが悪そうに篠崎はちらっと平林を見た。

「いや、お恥かしい。女房にも子供にも「大人のピアノ」の件は完全にシカト食らってまして…」

「おや、そりゃまたなんで」

「う~ん。なんででしょうねぇ」

 いつもは平林を引っ張る形の篠崎が助け舟を求めるように平林に目を向けた。

「ほら、神田さんのところはお子さんもまだ高校生と中学生でしょ。ギリギリ家族イベントにも参加してくれる年齢ですよ。篠崎さんところはもう娘さんも来年は大学四年だし、パパがピアノ発表会なんて照れ臭いんでしょ」

「じゃあ、奥さんは?」

 せっかくの平林の絶妙のフォローは幸せの歯科医神田先生の一言で振り出しに戻った。

「いえ、女房はクラシックもカラオケも、およそ音楽全般好きじゃないんです」

 苦笑しながら篠崎が言うと「なるほど」と神田先生もやっと納得してくれたようだった。

「平林さんは誰か呼ぶの?」ホッとした篠崎は今度は平林に話を振った。

「僕は大学時代の友人が来てくれます。なつみ先生が何人連れてきてもいいっておっしゃってくれてましたので、お言葉に甘えて六人」

「ほぉぉ…それは楽しみですね。飲み会の時におっしゃってたJAZZ研のメンバーの方ですか」

「はい。僕はサックスを大学から始めたんですけど、中にはクラシックピアノを小さい頃からやってたなんてのもいて、一人に声かけたらあっという間に集まっちゃったんです」

「それは羨ましいなあ。ひょっとして誰も来てくれないのはオレだけだったりして…」

「篠崎さんご家族が冷たいんだったら、昔の恋人とか、告白できなかった幼馴染とか呼んじゃうっていうのもありなんじゃないですか?」平林がいたずらっぽく笑った。

「え?いやあ、そんなの考えたこともなかったなあ」

「いえ、意外とあるらしいですよ。そういうの」神田が身を乗り出した。

「…といいますと」篠崎が相づちを打つ。平林も興味深々だ。

「いえね、後でお見せしますけどこの『斉藤なつみ「大人のピアノ」発表会』って、パンフレットもチケットもプログラムも作りますでしょう。まあチケットは無料だし、パンフレットも表だけカラーで裏はモノクロですがパソコンで作ったものじゃなくて一応印刷物です。以前はパソコンで作ってたらしいんですけど、「斉藤なつみ大人のピアノ教室」の出身者で小さな印刷会社の社長さんがいるんですが、その方のご好意で無料で作っていただいてるんです」

「ああ、そういうわけだったんですか。広告マンとしては費用がどこから出てるのかな、なんて考えたことありましたから」

 篠崎が頷くと斎藤も「なるほど、しかし太っ腹ですね」と感心した。

「それがですね。この社長さん、三谷幸喜さんっていうんですけど、ええ、あの映画監督と同姓同名で。三谷さんが提案して作った初回は皆さんから費用集めたらしいんですよ。会場費とかと一緒に」

「そうでしょうねえ。しれがまたなんで無料に?広告出稿してもらうというのも、この媒体じゃ無理だろうし…」

「西田敏行なんですよ」神田先生はにんまりと笑った。嗚咽宴会部長の顔だった。

「三谷さん、ずっと独身だったんですけどね、刷り上がったパンフレットに『エリーゼのために 演奏者:三谷幸喜』っていう活字を見て、思い切って中学時代の初恋の人に連絡とったらしいですよ」

「勇気ありますね」平林が真剣な顔で聞き入った。

「そうなんですよ。それでね、西田敏行よろしく「思いのすべてを歌にして君に伝える」ってことしたわけです。それがご縁で…」

「まさか…」平林は身を乗り出した。

「そう。それが今の三谷社長夫人ってわけですよ。私も存じ上げないのですが、パンフレット作成の打ち合わせで三谷さんご本人に聞きました。当然コンサートには奥様もいらっしゃいます。二歳の坊ちゃん連れて。その幸せを与えてくた『斉藤なつみ「大人のピアノ」発表会』の印刷物はご祝儀で毎年無料ってわけ」

「うおぉぉぉ!いい話だなあ」

「平林さんもバンドのメンバーなんかじゃなくてそういうのにしたら良かったのに」

 篠崎がチャチャを入れると、平林は少し赤くなった。

「あ、もしかしてそのJAZZの仲間の中に好きだった人がいるとか?」神田がたたみかける。

「いえ実はそうなんです。その人に声をかけたつもりが、余計なのがあと五人もくっついてきちゃって…」

 神田と篠崎は目が合うと爆笑した。平林照れ臭そうに笑った。三人ともいい笑顔だった。

「あ、そう~それが大部隊の真相かあ。こっちなんか応援隊ゼロだから羨ましいもんだとか思ったけどおじゃま虫か」

「いえいえ、そんなことないですよ。結婚する時にはあの時のご縁でって同じメンバーに招待状出せるじゃないですか」

「いえ、そんな結婚だなんて」

「その人独身?」神田と篠崎が同時に聞いて三人はまた笑った。

「ええ、まあ」

「おおぉぅ。じゃあ可能性ありますよ。篠崎さんも銀座のクラブのママでもさそったらいいじゃないですか」

 神田がそういうと、篠崎はイエイエという感じで自分の顔の前で手を振った。

「でもせっかくだから誰かお世話になった人とか誘ったらいいのに」

 平林の言葉に篠崎はただ微笑んで頷いたが、お世話になった人という言葉で、あの千駄ヶ谷のいいかげん&まじめ社長と胸の大きい唯一の女性社員の懐かしい顔が浮かんだ。お世話になった人、自分の原点を作ってくれたのはあの人たちかもしれないな、篠崎はふとそんな風に思った。いいかげんでまじめ。そう言えばまだ仲の良かった頃妻に「オレのどこに惚れたんだ」と酔って聞いた時、妻は真顔で「あなたのいいかげんでまじめなところよ」と言ったことを思い出した。

 篠崎が感慨にふけっている間、平林と神田は仕切り屋神田先生が準備しているパンフレットの最終原稿を前に二人して盛り上がっていた。





◼斉藤なつみ「大人のピアノ教室」第7回発表会 ◼

主催者ごあいさつ 斉藤なつみ
来賓スピーチ   洗足音楽大学ピアノ科教授 岸谷貴史

~第一部 ピアノの歓びに触れて(初心者のチャレンジ)

~第二部 ピアノで歌おう(中級者の表現)

~第三部 ピアノは友達(教室OBの演奏)

講評 洗足音楽大学ピアノ科教授 岸谷行人
斉藤なつみ先生からの明日へのエール
生徒代表感謝の言葉



つづく






 

大人のピアノ そのなな 発表会のレパートリー談義しかし…

「えー、ちょっとそりゃ困るな。僕はそんな芸当できませんよ。ねえ、篠崎さん」

 本気で困った声に呼ばれて篠崎は回想から我に帰った。

「あ、ごめん。何が」慌てて二人の顔を交互に見る。

「だからこのパンフレットの最後に『生徒代表感謝の言葉』っていうのがあるじゃないですか」

「うん。あるね。当然神田さんがやるわけでしょ」

「いやそれが僕もそう思ってたんですけど、違うんですって」

「一番印象に残った演奏をした人がやるんですよ」神田がニヤニヤして言う。

「え?じゃあ原稿なしのアドリブってわけか」

「そうですよ。僕はそういうのは苦手です。まあ、最も印象深かった演奏という条件だから、僕なんか大丈夫だとは思ってますけどね。万が一考えたら緊張して演奏にも身が入らないかもしれないですよ」

「あれ、ずいぶん弱気だね。営業のくせに」

「いや営業と言っても僕のは人前のプレゼンとかじゃないから篠崎さんのとは違うわけです。結婚式の友人代表スピーチっていうのも一回やらされたけど、気になっちゃってご馳走が全然喉とおりませんでしたよ」

「う~む。まあ、苦手な人は苦手かもなあ。これって毎年そういうしきたりなんですか」

「そういうこと」





 篠崎も平林も発表会は今年が始めてで、パンフレットでいうところの『第一部 ピアノの歓びに触れて(初心者のチャレンジ)』っていうところで早々と出番は終わる。

 篠崎はモーツアルトの「トルコ行進曲」で平林はバッハの「主よ人の望みよ喜びよ」だ。どちらもテレビコマーシャルやドラマの主題歌などで誰もが一度は聞いたことがある名曲である。「トルコ行進曲」は指遣いは速いものの、音型つまり音のパターンは意外と繰り返しが多く、派手な割には頑張れば初心者でも格好良く弾ける。「主よ人の望みよ喜びよ」はスローだし指遣いは「トルコ行進曲」より簡単だけど、その分和音の響きを丁寧に意識しないと全体がのびたお蕎麦みたいな状態になってしまう。ペダルを踏みっぱなしにして初心者がよくこの茹ですぎた蕎麦をやってしまうのだが、このペダルをきちんと踏むには、耳で和音の響きの移る瞬間をある程度キャッチできている必要があり、これが意外に難しい。なので、楽器は違えども大学時代に経験のある平林向きだと言える。

 この辺りは、生徒の希望を最優先になつみ先生がじっくり生徒の個性、強みを見極めた上で話し合いの末決定する。ここらあたりが「大人のピアノ」の先生の本当の実力の出るところで、いわゆるピアノがお上手な音大出身者というだけでは務まらないところだ。まだ三十前のなつみ先生は若いながらも、このじっくりおじさんたちの人間性を含めて、そう…その人の中の西田敏行の正体を想像しながらコミュニケーションを取る能力が抜群だった。

 第二部ピアノで歌おう(中級者の表現)トップの神田は変り種でSMAPの「世界に一つだけの花」羽田健太郎編曲バージョンだ。羽田健太郎バージョンでポピュラー曲を課題曲や発表曲にする生徒も多い。三谷幸喜社長は第三部ピアノは友達(教室OBの演奏)で森進一の「冬のリビエラ」。教室では北島三郎や美空ひばりもオーケー。この分野だと、多分なつみ先生は生徒に言われて始めて知った曲というのがほとんどかもしれないが、CDを買ってきてはじっくり聞き込んで勉強するそうだ。

 二十代前半まで国際コンクール上位入賞の常連だったそうだが、なぜか最近はステージには立たないそうだ。クラシック界の謎の一つということで、その本当の理由をめぐってミステリアスな噂が飛び交っている。何でも本人の頑なな希望ということだが、コンサートピアニスト待望論は日本人クラシックピアニストの地位向上というシリアスな面でばかりではなく、ルックスの良さに期待する音楽業界、音楽ジャーナリズム界にも根強いのだった。

 来賓スピーチに名前の上がる洗足音楽大学ピアノ科教授岸谷貴史というのがピアニスト斎藤なつみの師匠であり、師匠は斎藤なつみの半引退生活の真相を知っていると言われるが口が硬くて本人を飛び越して情報は出てこない。ただ、師匠としてもこの一番弟子の復活を切望しているのは間違いない、というのが業界の定説であった。




「じゃあ、指名されちゃったらしょうがないってことだね」

 篠崎が平林の肩をポンと叩いた。

「その指名ってもちろんなつみ先生がするんですよね」顔をあげた平林が神田に尋ねる。

「もちろん」

「じゃあしょうがないっかあ」




 話が一息ついて、篠崎が冷めたコーヒーを飲み干すと、なんと篠崎は目の玉をむきだしていきなりむせたのだった。

「うわあ、大丈夫ですか?篠崎さん、ハンカチハンカチ」

 平林がさっきの涙を吹いた篠崎のハンカチをすかさず差し出す。

「あれ、どうしたんですか。顔色が青いですよ。コーヒーにあたったかな」

 反対側に座っている神田が篠崎の顔を覗き込んだ。

 その時平林も篠崎が青ざめてむせた理由をファミレスのドア口に発見して、同じように顔を青くした。



 怪訝そうな顔で二人を見比べた神田が体を反転してドアの方を見ると…





 千葉に容態が急変した友人を見舞いに行ってるはずのなつみ先生が、入店順番待ちの名前を書いているところだった。

 もちろん、その横には…

 あのヤクザ者が一緒だった。





つづく

大人のピアノ そのはち ラブシーンの真相

「おやおや、これは不思議なこともあるものですね」

 はなから篠崎と平林が示し合わせて何か隠し事をしていることは承知だったので、神田はことさら驚いたりはしなかったが、その代わりに半ば呆れ顔で非難がましく二人の顔を眺めた。

 平林は下を向いてがっくりとうなだれている。

「いや、まあ、なんといいますか。月並みな言い方になりますが、これにはいろいろと訳がありまして…」

 篠崎もあまりのタイミングの悪さにこういうのがやっとだった。

「ふむ…。まあ、私は別にあなた方を詰問する立場じゃないですし、どうやら斎藤先生のプライバシーに関わる問題のようですから特にどうこうしようというつもりもないんですが…」

「はい」

 神田の表情はそうはいいながらも、呼びつけられたにもかかわらず自分一人蚊帳の外状態というのが面白くなかったらしく、苦虫を噛み潰した顔をしている。



 重苦しい雰囲気を破ったのはなんと意外なことになつみ先生だった。

 平林と篠崎が顔を下にして、なんとかなつみ先生の視界に自分たちが入らないようにしていたのだが、あっさりなつみ先生がそれを見つけ、向こうから大きな声で呼びかけたのだった。

「あーーー篠崎さん、平林さん。こんなところにいらしたんですか!ちょっと家開けてまして本当にごめんなさい!急なことちょっとだけ家出まして、すぐに戻れると思ったんですが、長引いてしまって」

 といいながら、こちらにスタスタ歩いてきたのだった。もちろん、やくざ者も一緒にである。やくざ者はまるでなつみ先生の子分のように後ろからついてくる。さっきは背中からしか見えなかったがよく見ると服装はヤーさん風で上背もあるのだが、顔はジャニーズ系の好青年であった。そして近づいてくるにつれ分かったのは、そのジャニーズ系の地肌が隠れるほどに顔にアザがあることだった。

 男が近くまでくるとそのアザは先天的なものではなくて、後天的な、たぶんさっきケンカで殴られたといったところのあざだと分かった。
 さらに驚くべきことには、「こちらよろしいですか」と言いながら、なつみ先生が神田さんの隣に男と一緒に座ったのである。
 男はバツの悪そうな顔をして小さく会釈した。その会釈はヤクザ者のそれではなく、きっちりと幼少からしつけを受けてきたものの醸し出す気品のようなものすらただよっていたのだった。



「先生、いったい全体何が起きたんでしょうか。こちらはどなたさんで…」

 神田が青年の顔を覗き込みながらそういうと、それに答えたのは男の方だった。

「申し遅れました。私、斎藤武志と申します。姉がいつもお世話になっております。この度は皆様のレッスン時間を台無しにするようなことになってしまい、まことに申し訳ございませんでした」

「は?」

 平林と篠崎は目を丸くして男を見つめ、やがて同時にゆっくりと首をかしげた。



つづく
ゆっきー
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