大人のピアノ

大人のピアノ そのに レッスン仲間

「篠崎さん、モーツァルトのトルコ行進曲弾くんですよね」

 平林がつり革越しに篠崎の楽譜を覗き込んでそう言った。楽譜にはレッスンの時隣に座ったなつみ先生が毎回手を伸ばして書き込んでくれる、鉛筆書きの指示が踊っている。指示と言ってももちろん弾き方のニュアンスみたいな音楽性の指示ではなくて、「テンポ注意」とか「遅れないで」とかである。はてまた一年前の入門時には楽譜すら読めなかった篠崎むけに、四分休符の長さを説明するためにりんごを四等分したイラスト、というかなつみ先生の小学生の落書きみたいなのも書き込まれていて、覗き込まれると少し恥ずかしい。

「ああ、そうだよ」

 十歳ばかり年下のコピー機の営業マンの平林に向かって、篠崎はさりげなく楽譜を閉じてそう言った。篠崎と同じ営業職でも広告代理店の営業とは違って、オフィス街での新規開拓の飛び込み営業と、既存顧客のコピー機のメンテナンスでトナーを入れ替えたりで一日が終わる平林とではずいぶんキャラも違っていた。

 今では前髪がかなり上方に後退しつつあるのを気にしてる独身の平林だが、ピアノを習うのは初めてだったものの学生時代はサックスをやっていた。独身寮でサックスの練習はできず、楽器ケースはワンルームの押入れの中ですっかり埃をかぶっていた。課長代理になって外回りの残業が減った分時間を持て余した平林は、埃のかぶったサックスケースを取り出して埃を掌でなぞって払ったあと久々に蓋を開けてみた。十年ぶりに手にした金属の冷たい感触にニンマリして久々にマウスピースに口を当てて調子に乗った平林は、思わずその場でDドリアンの上行スケールを高らかに吹いてしまった。地味ながらもジャズサックス吹だった平林は学生時代の血が騒ぎ、そのまま大音量で泣きの入ったダニーボーイの出だしを吹き始め…

 その瞬間に寮長がノックなしに部屋のドアを開けた。
「平林!気でも狂ったか」サックスをかき消す怒鳴り声。

「すみません!」音楽嫌いの寮長の怒声に平林は二秒でサックスをケースにしまった。以来封印された蓋は一度も開かれていない。


 せっかく久しぶりに湧きたとうとした気持ちを鎮めながら、平林はインターネットのブラウザを開き、家電量販店の14,8000円の格安の電子ピアノを買い物カゴに入れた。半ば衝動買いでもあったが、まだサックス吹の頃から「もしもピアノが弾けたなら♪」と西田敏行を思い浮かべつつサックスであのメロディを吹いていたこともあるのだった。歌の続きのように、当時平林には「思いのすべてを歌にして♪君に伝えることだろう」と思いつめていた女の子がいたのだった。今でも最年長長老として独身寮に不本意ながら起居しているのも、実はその女性が今でも時々頭にちらつくせいであったかもしれない。

 篠崎のような斉藤なつみ先生目あてというダイレクトな動機とは違うが、「大人のピアノ」というものにある種特別な思い入れがあったのである。「大人のピアノ」とは多分、中年に差し掛かる、あるいは中年真っ只中のおじさんたちの、そうした満たされなかった屈折した、しかし切ないピュアな思いが引き寄せられる特別な場所、サンクチュアリ、聖所と言っても差し支えないのかもしれない。

 ピアノの配送日時を指定すると平林は今度はGoogleに行き、「大人のピアノ」と打ち込んで、無理なく通えそうで口コミ評判のいい教室を探した。

 篠崎とは違ってきっかけは楽器志向、音楽志向だったわけだが、勤務先と独身寮を結んだ京浜急行線の路線からかなりはずれた「斉藤なつみ 大人のピアノ」に入門した決め手はやはり、先生の魅力だったのだ。



「この年になってね、弾けるようになるか、もしかしたら弾けるようにならないで終わるかもしれない楽器を始めるってさ、並大抵のことじゃないわけよね。それってさ、手の届かない女の人を思い続けるのとおんなじなわけね。指が動かない、思いだけあってそれが表現できないもどかしさって、まさに西田敏行なわけ。そんでね、俺たちが偉いのはさ、それでも思い続けてることなんだよ。そんで家に帰りゃかみさんや子供に笑われたりさ、失笑ならまだいいよ、うちなんかさ、高校生の長男と中学生の妹で毎回爆笑すんですよ、これがまたさ。そうそう、いま皆さんが爆笑したような感じで毎回私が練習すると二人でわざわざ二階の自分たちのそれぞれの個室から示し合わせたように降りてきてさあ…。そーなのよ。メロディが途切れるたびにくくくくって笑いこらえて、時々二人で顔合わせてはたまらずに爆笑するわけ。なんかさあ、見ててあの二人って普段はそれほど仲良いわけでもなさそうなんだよね、まあ二人とも思春期のさ、兄妹とはいえ異性なわけだしね。でもさ、オレのピアノを笑う時は何か楽しそうに笑うんだよねぇ。小学校の時に三人で一緒に風呂で騒いだ時みたいにね。
 あれ、なんの話か分かんなくなっちゃったけどさ、要するに弾けることを信じて、手の届かないものを追い求めるって、女性に対する真摯な思いみたいなのが心の根っこにない奴には無理だと思うわけですよ」

 篠崎も平林も、入門者同士の飲み会での別の初心者のこんなセリフに大爆笑しつつも深々と頷いたものである。

 そして爆笑したあと飲み会に参加していた二十人弱の中年おっさんは全員泣いたのだった。

 上座に座って大人しくレモンサワーに口をつけたりつけなかったりしていたなつみ先生が、頬を紅潮させてやおら立ち上がり、一同のオヤジ風の下卑た爆笑をさえぎって、穢れなきその御手が痛くなるのではないかと思うほど拍手したのだった。


「みなさん頑張ってください。わたしもみなさんのために頑張ります」

 十秒ほど世界から音が消えた。そして嗚咽の混じった「カンパーイ」の声が安居酒屋のボックス席に響き渡った。




つづく


大人のピアノ そのさん 異変!?

 二人は教室のある駅で下車して道を急いだ。レッスンの時間は一人三十分。斉藤なつみ先生は、昼は普通の教室を運営していて、週二回火曜と金曜に「大人のピアノ」教室を開いている。サラリーマンがほとんどなので、時間は夕方6:00からの予約制だ。レッスン中の見学は自由なので、自分の予約時間より早く来たり、終わったあと残っていたりする生徒が結構いる。自分の刺激のために他の生徒の進捗状況を観たりするのだ。今日も9:30からが篠崎でその次が10:00から最終の平林が一緒の電車になったりする。

 夜半から雨の天気予報通り小雨がぱらつき始めた駅からの小道を、折り畳み傘を広げながら二人は歩き始めた。


「でもさ、あれだよね、平林さんは学生時代音楽やってたからいいよね」

 歩きながら篠崎がしみじみそう言った。到着までの間持たせのために振った話題というよりは、その声にはどこか切実なものがあった。

「そうですか?そんなこと全然ないですよ。だって僕サックスだから指の使い方の感覚なんてまったくピアノの運指には関係ないですし。譜面だって右手と左手一度に読み取るなんて芸当とても出来たもんじゃないですよ。サックスは自分のメロディ、ピアノの右手だけですから何とかなるけどピアノは泡食っちゃってとても楽譜なんか読めてません」

 篠崎の言葉の意図を確かめるようにゆっくりと平林が言う。

「そうなの?それは驚きだ。そういうもんなんだあ」

 雨が少し強く降ってきたこともあったのか、篠崎はそのまま歩いた。平林も並んで歩いたがおもむろに聞いてみた。

「どうしてですか?鉄人広告営業マンの篠崎さん、来週の発表会に向けて何か悩み事でも出てきましたか」

 笑いながら平林は話を継いだ。二人はタイプこそ違えど例のおっさん嗚咽泣きの飲み会の時席が隣だったこともあり、その後もケータイメールで何かと連絡を取り合ったりしていた。多分「大人のピアノ」で出会っていなかったら挨拶する機会さえなかった二人かもしれなかったが、二人はあの時互いのまなじりに浮かんだ微かな涙を覚えていた。社会人になって本当に数える程しかない、本当に心の防波堤ゼロの状態の一体感の余韻は、あの日ぐっと近くなった二人の距離をそのままキープしていた。

「俺さ、基本的に音楽の才能ねえなあって、この一年つくずく思ったのよ。まあ当時はピアノ云々よりも、会社やめたりそのことで家庭でさらにトラブったりしてさ、別の世界に逃げ込みたいっていうか、はっきり言ってなつみ先生とお近づきになることが目的だったから、ピアノなんてオマケだったわけだけどね」

「それが一年たってモーツァルトのトルコ行進曲じゃないですか、スゴイですよ。まったく鍵盤触ったこともなかったってことなんだから」

 お世辞ではなく平林はこの一年時々篠崎のレッスンを見学した時そう感じていた。この人はやっぱり、飲み会で先生の大拍手を引き起こすきっかけを作ってくれた神田さんが言ったように、「届かないかもしれなくても女性を思い続けるひたむきさ」みたいなのを確かに心の内側深くに持っていると思った。

「まあね~。まあ、それは俺も素直に嬉しい。ってか、自分で信じらんないし、ここだけの話自分でもカンドーしちゃったりしてる。家で練習終わったあとなんか、もうキモイナルちゃん状態外に出さないように気をつけてビールで一人乾杯。そのビールが美味いのなんのってさ」

 右手に持った傘をバンザイするように上にあげて白い歯をのぞかせて笑う篠崎は、ほんとにいい顔をしていた。

「そういう時、やっぱり奥さんと娘さんは…」

「あ、だめだめ。最初はオレもドヤ顔みたいなのあったけど、関係こじれちゃっててね。無視され続けてるよ」

「やっぱ天下の電報堂相談なしに辞めちゃったってのが効いてますかね…」

「そ、ね。あるかもな。会社に務めてた頃は全然知らなかったけど、奥さん連中で『ご主人どこお勤めです?』から始まる付き合いみたいのあったらしくてね。そんなの何十年も全然知らなかった。会社で失敗したあなたのせいであたしの人生公私ともども狂わされたってさんざんヒステリックになってたな。それならなんつっか、俺が会社で辛かった時もうちょっと優しくして欲しかったよなあ、とかね」

「そんなもんすかね」

「そ、そ。娘は自分じゃそういう価値観軽蔑してるんだけど、女同士でうんうん、お母さんかわいそう、みたいなね」

「家庭持ったら持ったで大変だよなあ。やたら結婚焦るのも考えものかもな」

 平林が薄くなりかかった自分の額をピタピタと戯けて叩きながらいうと、篠崎が平林の肩に手を回して「そうそう」と芝居がかった深刻な顔でうなずいた。

「いったん家庭持ったらどんな家庭にだって、人には言えない苦しみや恥部みたいなものができるもんさ。もしかしたらあの斉藤家みたいにお父さん外務省の役人でお母さん京都の老舗呉服屋のお嬢さんみたいな家でも深刻なドロドロがあったりとかな」

「まさか。一般論としてそういうのはあるかも知れないですけど、あのなつみ先生の天真爛漫さ、性格の良さでそれは想像しにくいなあ」

 冷やかされるのを覚悟で平林はあえて本音を言った。

「まあね、それはオレもそう思った。」

 案に反して篠崎は素で同意した。

「でもね、あれでなつみ先生が実は酸いも甘いも何かの苦労も知っててだったら、オレまじになるかもしれない」

「まじって、なんですか?」

「いや、女房子供捨ててもいい。まじで惚れる」

 篠崎が本気の顔をしてるのを確かめると平林は腹の底から爆笑した。

「あのさ、篠崎さん。相手の気持ちだってあるわけだし。それにとてつもない過去みたいなものなんてそうそう他人が背負えるものじゃないですって」

「ウルセー。独身者のお前に何がわかるってんだ」

「はいはい。分かりましたよ、さ、そんな馬鹿話している間に付きましたよ」

 二人はいつものように、これぞピアノ教師の令嬢の邸宅といった大きな門構えの洋館のインターフォンを鳴らした。古い洋館なのでインターフォンが少し古ぼけているのだが、かえってそういったところも成金じゃないホンモノ的な感じがした。


 ところがその日に限って、何度インターフォンを鳴らしても内側からは何の反応もなかったのだった。



つづく

大人のピアノ そのよん 先生のラブシーン?

「変ですね、どうしたんだろ。こんなことこれまで一度もなかったですよね」

 首を捻る平林は爪先立ちになって軽くジャンプして門中に明かりが灯っているか見ようとした。

「おい、やめとけって。不審者がいますってことで警備会社がすっとんでくるぞ」

 平林より十センチ程上背のある篠崎が首を上から押さえるようにして静止した。篠崎の右手の指先を眺めると確かにセコムのステッカーが貼ってあるセンサー感知可動式最新型の防犯カメラが平林を捉えていた。

「げ、すいません」平林が反射的に誤った。しかしあわててて頭を下げたのが篠崎じゃなくて防犯カメラだったのがご愛嬌だ。

篠崎も噴き出しながら
「まあ、このくらいじゃ大丈夫だろ。幸いオレたちは会社帰りのスーツ姿だし、そこまでセコムも暇してないだろ」と言って防犯カメラに軽く敬礼してみた。

「さってと、どうすっかな。平林さん俺の前のレッスンの人だれだっけ」

「ちょっと待ってください」

 身体をよじるようにして平林がスーツのズボンから携帯を取り出した。ずぼらな篠崎は次回の自分のレッスン時間だけを頭にいれて置くだけだったが、平林は毎回壁に張り出されたスケジュール一覧表を携帯のカメラで撮って保存していたのを思い出したのだった。

「えっと、神田さんですね」

「おっと、嗚咽宴会部長の神田さんか。神田さんのレッスンって無事終わったんだろうか。」

「ちょっと電話してみますね」

「お、頼む」

 メモリから番号を呼び出して平林が神田に電話をする。とことんまめな男だ。多分かけるかけない関わりなしに「大人のピアノ」生徒全員の携帯番号が「大人のピアノグループ」にでも登録されているのだろう。

 しかし平林は首を横に振った。

「ダメですね。留守電も契約してないみたいで、そのままなり続けてます。メールしてみましょうかね」

「うん、そうだな。オレちょっとこのお屋敷ぐるっと回って一周してくるよ。もしかしたら勝手口とかあるかもしれないし。呼び鈴があればそこでも鳴らしてみて反応があれば平林さんの携帯に電話する。」

「あ、分かりました。じゃあ僕は念の為にここにいますね。もしかしたらインターフォン越しにひょっこり『すみませんでした、手が離せなくって』とかなつみ先生の反応があるかもしれないし。」

「あ、うん。そうだな。じゃあちょっくら行ってくる。いくらこのお屋敷でも5分もあれば一周して帰って来れると思うよ」

「そうですね。じゃ、行ってらっしゃい」

「ああ」

 そう言って篠崎は時計と反対周りの方向に邸宅の外側の道を歩き出した。





 ところが平林が5分待てど10分待てど、篠崎は反対側から現れなかった。不安を感じた平林が15分後に篠崎の携帯に電話すると、長い長いコールの後やっと篠崎の「はい。もしもし」とまるであたりをうかがうような押し殺した声が聞こえた。

「もしもし、篠崎さん、どうしたんですか」平林も事情がわからないままついついあたりをはばかるような小声になってしゃべった。

「おう…ちょっとタイヘンなことになった。というか大変なものを見てしまった」

「篠崎さん、どうしたんですか」

「平林さんゆっくり、いや急いで屋敷の反対側に来てくれる?でも静かに気配殺して」

 気配を消してといわれても忍者でもない平林にはどうしたらよいか具体的にわからなかったが、とりあえず「分かりました」と小声で伝えて携帯を切り、小走りにさっきの篠崎と同じ時計と反対周りに屋敷の裏側を目指した。




 暗闇の中にうっすらと白いコートを着た篠崎が浮かんで見えた。まだ秋の終わりでそれ程寒くはない季節だったが、篠崎は張り込みの刑事のようにコートの襟を立てて、屋敷と反対側の公園の方を電柱の影に身を隠すようにして注視していた。

「篠崎さん…」

 その気配に胸騒ぎを覚えた平林は緊張した声で篠崎の名前を呼んだ。

「おう…」篠崎の表情は複雑な、しかし明らかにどこか呆然としたものだった。

「いったいどうしたっていうんですか」平林は内心の動揺を隠すように詰問するような口調で篠崎に向かって言った。

「あれを見てみろ」




 平林が篠崎の肩越しに公園の暗がりに目をこらすと、男女が肩を寄せて抱き合っていた。男は明らかに堅気者ではなくそっちの筋の者に違いなかった。

「あれがどうしたっていうんで…」

 平林は問いかけた言葉を途中で飲み込んだ。




 白いワンピースにベージュのシュシュのポニーテール。

 暗がりを通して横顔が平林のまなこにくっきり刻まれた。

「なつみ先生…ですよね」

「ああ」

 篠崎は沈鬱に言葉を返したが、その声はもう平林には聞こえていなかった。



つづく



 

大人のピアノ そのご 助っ人(?)登場

「どういうことっすか、これ…」

 しばらく呆然と無言だった平林が、やっと我を取り戻したように前を向いたまま篠崎に語りかけた。

「うん。とりあえず玄関口の方に戻ろう。事情がわからないところでここにオレ達がいることがわかったらもっややこしいことになるだろう…」

 そう言って篠崎は平林の肩を叩いて促したが、振り返った平林の顔は無表情に硬直していた。

「事情が分からないって、事情も何もないじゃないですか。僕たちのレッスンすっぽかしてヤクザ者と乳くりあってるだけじゃないですか」

 篠崎は『乳くりあってる』という平林の言葉に吹き出しそうになったがそれを必死にこらえた。言葉遣いは少し妙だが、独身者の平林がなつみ先生に憧れ以上の恋心のようなものを抱いていたとしても不思議ではなかったし、この様子では実際のところその通りだったのだろう。少なくとも篠崎自身もショックを受けたが、そのショック以上に平林が傷ついていることは想像に固くなかった。

「うん、確かそうだ。男と女が何をしようが当たり前だけどそんなものは人の自由だ。相手がヤクザであってもその原則は変わらないとオレは思う。男女のことはつまりそれがどんなものであっても誰も非難なんてできやしないと思う。しかしレッスン時間にレッスンほっぽり出してああいうのは良くないよな。平林さん裏切られたって気持ちだろうし、オレもあんたとまったく同じ気持ちだよ」

 硬直していた平林の顔がその言葉で涙で歪み、感情の発露に自分自身戸惑った平林はポケットのハンカチを探った。

 バックパックに入れてあったのか、ズボンのポケットにはハンカチは見当たらないようだった。篠崎が大きくたたんだしっかりした折り目のハンカチをポケットから出して平林に渡すと、平林は一瞬受け取るのを躊躇したあと「すみません」と言ってハンカチを受け取り、そのまま顔に当て、両手で量の目頭をじっと押さえつけた。

 まるで止血の応急措置のようなその仕草に篠崎は平林の傷つき方の大きさを再認識したが、涙の止血行為は虚しく、ハンカチを返してよこそうとする平林の意思を裏切って涙はさらに傷口から溢れ出た。

「いいよ、しばらく平林さんがもっててよ。それより、とりあえず…な…」

 平林は素直に頷くと、篠崎に手を引かれるようにして歩き出した。




 ちょうど表玄関のところまで二人がトボトボ歩いて帰ってきた時に、平林の携帯が鳴った。

「あれ、まずい。どうしよう」

 平林は困惑した顔を篠崎に向けた。

「どうした」

「さっき篠崎さんが裏に回っている間に神田さんにメール打った返信です」

「何だって書いてある」

「『まだ近くにいるからすぐそっち向かう』とのことです」

「何だって!ヤバイよそれは」

「すぐ断ります」

「いや待て」

「どうしてですか。さっきは取り乱して申し訳なかったですけど、このことは僕と篠崎さんの胸の内にしまっておきましょう。そうでなくてもあの人嗚咽宴会大成功から生徒全員への影響力絶大だし、自分も何かと仕切り屋したがってて面倒になること目に見えてるじゃないですか」

「いや、まあ、まったくもってその通りだ」

「だったら」

 さっきから大通りの方を眺めたままで受け答えする篠崎にイラつきながら平林が言うと、篠崎がこちらに向きなおった。




「もう遅い」

「え?」

 篠崎が見ていた大通りから一台のミニクーパーがこちらに近づいた。

 もったいつけるようにクラクションを三回も鳴らした後、中からおもむろに出てきたのは、もちろん神田さんその人だった。

 
ゆっきー
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