大人のピアノ

大人のピアノ そのじゅう 作戦会議

「武志君、でいいかな。だいたい事情はわかったよ。」

 話が一段落して、篠崎がつぶやいた。

「神田さんには申し訳なかったんですが、もう明らかになっちゃいましたけど、入院してたなつみ先生の千葉のお友達の容態が急変ってのは作りばなしでした」

 篠崎が頭を下げたので、平林も慌てて一緒に頭を下げる。

「あの…。あたしの千葉の友人の…ってなんでしょうか」なつみ先生が不思議そうに大きな目で二人に尋ねた。

「いえね、今日のレッスンなんですが途中の電車で平林さんと一緒になりまして、先生の御宅のインターフォンは二人で鳴らしたんです。でも全然反応がなかったので、もしかしたらお勝手口とかにもチャイムとかついてないかなってことで、お屋敷の裏手に回ったわけです」篠崎が平林に同意を求める。平林はコクっと頷いた。

「すると、なんていいますかお屋敷の裏手の小さな公園のベンチに、肩を睦まじく寄せ合っている男女を発見してしまいまして…」

 ここまでの話で武志の方はすべて事情がわかったようで、恥ずかしそうに苦笑して下を向いた。

「まあ、男の人と女の人が…」スーパー天然のなつみ先生はまだ気がつかない。

「時々女性は男性の顔に手をやって顔を愛おしそうに撫でたり、肩をさすったりと、なんていいましょうか、そのぅ…」

 篠崎は明らかに冗談モードに入って行った。平林は笑を堪えて下を向いた。神田はここで事情がわかったと見え、ふんふんと頷いた。同時に平林がなつみ先生の名誉のために自分に嘘をついたのだということがわかり、機嫌も直ったようだった。

 一人かわいいなつみ先生だけがまだ気がつかなかった。

「白いワンピースにベージュのシュシュのポニーテール。そう、ちょうどいまなつみ先生が着てらっしゃるようなお召し物のお美しい女性(篠崎は<にょしょう>と発音したので武志が吹き出した)が、顔はジャニーズ風だけどいでたちはヤーさん風の男となんと!激しい口ずけを…」

「篠崎さん、そこまででいいっすよ」武志が笑をこらえて言った。「姉貴、俺たちのこと言ってんだよ、分かる?」

「え!」

「だから最後のキスは冗談なんだけど、篠崎さんと平林さんは姉貴が俺の顔の傷を触ったり、殴られて乱れた洋服の袖さすったりしてたことを言ってるわけ」

「え?」なつみ先生はここでようやく気がついたようだった。

「キスなんかしてません!」ムキになって篠崎の方を向いた。

「だからさ、そこだけ冗談で、どっかの男とレッスンほっぽり出してイチャついてる斎藤先生を見ちゃったものだから、それかばってくれたってこと」

 武志が呆れ顔で解説したあと立ち上がって、「どうもご迷惑おかけしました」と篠崎、平林、神田の三人に深々と頭を下げた。

「いや、いいですよ、私は」神田はすっかり上機嫌だった。

「ほら、姉貴も一緒に頭を下げてくれよ」

「あ、はい。あの…どうもすみませんでした」

 篠崎と平林は顔を見合わせて笑った。

「なかなかよくできた弟さん…というべきか…」平林がいうと「かわいいお姉さん…というべきか」と篠崎が継いだ。

「どうもこの度は大変ご迷惑おかけしました」

 やっとすべての事態が飲み込めたなつみ先生が改めて頭を下げて、一同は笑って飲み物のお代わりをした。





「さてじゃあ、乗りかかった船ということもあるし、この後どうするのかっていうところの話をしましょうか」おもむろに神田がつぶやいた。

「いえでも、これは斉藤家の恥と言いますか、斉藤家のゴタゴタですので、これ以上皆様にご迷惑をおかけするわけにはまいりません」

 やっと調子を取り戻したなつみ先生が、きっぱりとそう言った。横で武志も頷いている。

「いえ、ここまで話を聞いて、はいさよなら。っていうのもかえって気になって後味が良くないですよ」神田が同意を求めるように篠崎と平林の顔を見た。二人とも思うなずいた。

「お役に立てることがあるかないかは別として、この後どうするおつもりなのかだけでも我々に聞かせていただけませんか」

 三人の総意としての神田の言葉に斎藤姉弟はしばし目で会話をしたが、やがて二人とも正面を向き直って揃って同意の頭を下げた。





つづく

大人のピアノ そのじゅういち 暴力沙汰の顛末

「さてと、じゃあ…。話はだいたい分かったんですが、今度は私たちの方から武志さんのお店のことなど質問してもいいですか」

 平林と篠崎へのわだかまりはすっかり消え、神田は武志の人柄の良さもそれなりに受け入れたようだ。しかし神田は広域指定暴力団の息のかかった店で世話になっていたというところが、どうも気になっているようだった。

「はい」神妙な面持ちで武志が頷いた。

「そもそものきっかけはどういったものだったんですか、そこで雇われることになった」表情を抑えた顔で神田が尋ねる。これは篠崎も平林も突っ込んで聞いてみたいところであった。

「きっかけというほどのことはなかったんです。お金がなくなってきて船橋の工事現場で肉体労働やってたんですが、ある日親方連中に飲みに誘われたんです」

「あらら、まだ未成年なのに」神田が渋面を作る。

「ええ、年ごまかして雇ってもらってましたから、未成年ということを理由に断ることができずについて行くことになってしまいました」

「そういうところから悪の道にはまっちゃうもんなんだよなあ」正論に違いないので武志は黙ってうつむいた。

「まあまあ、神田さん。それは確かにそうなんでしょうが、今は武志君の話を先に聞きましょうよ」武志の様子をみかねた篠崎がフォローした。

「そうですね。でも客として行ったのにどうして雇われることになったんですか。求人募集の張り紙でも貼ってあったとか?」

「いえ、その日店でちょっとした喧嘩があったんです」

「なるほど。どんな喧嘩?」平林が相づちをうつ。

「酔ったお客がカラオケの代わりに、無理やりピアニストにピアノで伴奏させたんですが、店の上客だったらしくて、わがまま聞いてあげてたみたいなんですね」

「ああ、時々あるね、そういうの。周りはしらけちゃうだけなんだよな、あれ」篠崎は見知らぬピアニストに気の毒そうな顔をした。

「ええ。まあピアニストも我慢してやってられるうちは良かったんですが、お客さんが、カラオケマシンみたいに曲ごとにキーを上げろとか今度は下げろとか、キーが合ってないから歌えないとか怒り出しまして…」

「サイアクですね…」平林の一言に篠崎もうんうんとうなずいた。

「そのうち喧嘩になって、客がグランドピアノに水割り掛けたりもうメチャクチャでした」

「だってヤクザの店だろ。そんなことしてただで済まないでしょ」「そうだよね」「違うの?」神田の言葉に篠崎も平林も同意した。

「ええ、ところがその上客というのが組長が五分の盃を交わしたよその組の組長で、いわゆる兄弟分というのらしかったんです」

「うげ、それはまた。そんで?」三人は話の展開に半ば飽きれながらも先を促した。

「同じボックスに僕がその後世話になることになった若頭の方が座ってたんです。あ、ヤクザの世界の若頭って若くないんですよ。その方も五十歳くらいでしたけど、その方はあとで聞くと組の叔父貴にあたるその人の傍若無人ぶりにはらわたが煮えくりかえってたらしいんですが、立場上強いことは言えない」

「うむ」

「そうこうしているうちに、ラウンジピアニストがその人に小突かれたり、ど突かれたり、大声で怒鳴られたり、殴られたりが始まったんです」

「ありゃまあ」

「足を引っ掛けられて転ばされて、僕たちが座ってたところにピアニストが倒れこんできたんですね」

「うん」

「もう、見てられなかったので、『僕がピアノ弾きます』とその人に言ったんです」

「うん。そういうことね」

「はい。それで、なんとかその人の意に沿うような伴奏ができまして、店は無事にハネたんです。僕は当然最後までいました。そして最後上機嫌でその叔父貴が帰ったあとに『今日は大変お世話になりました』ということで、若頭の方、南方平蔵さんとおっしゃるんですが、その方が別に席を設けたいということになったんです」

「なるほど~そういう展開か」

「はい」

 三人は誰ともなく相づちを挟みながら武志の入店までの顛末を聞いていた。なつみ先生は別に驚く風でもなく、このあたりは先刻承知のことのようだった。


つづく

大人のピアノ そのじゅうに ピアノを弾くヤクザ

「それでその南方平蔵さんというヤクザの大物に気に入られちゃったわけか」

 神田はしょうがない展開だなあと思いつつも、武志が興味本位でそういった世界に近づいて行ったわけでないことを確認して、また少し武志の人物を認めたようだった。そもそも欠点をあげつらうのが目的ではなくて、敬愛する生徒たちのマドンナの弟さんとして、できれば仲間づきあいしたいという気持ちであったわけなので、神田はさらに質問を続けた。

「どんな人?そのヤクザの若頭ってのは」

「それが…実はいい人だったとか月並みなことは言いたくないんですが…」武志は少し苦笑しながら言い淀んだ。

「まあ、よくある話だよね。下っ端のチンピラと違って上の方の人には案外人間的魅力に富んだ人がいるって、いやあくまでマンガとか映画の印象だけどさ」腕組みをしながら平林が言った。

「ええ、まあしかし反社会的勢力であることは間違いないんで、僕自身はそういうところでは気を許したりはしないつもりです」

「う~ん。そうするとさ、そこが分かんないんだよね、やっぱり。あなたはかなりしっかりした青年だし、さすがはなつみ先生の弟さんだけあって分別もある。そのあなたが…」

「音楽のセンスがすごいんです。南方さん」神田をまっすぐ見つめながら武志がはっきりした口調で言った。

「ん?その若頭もピアノでも弾くの?」まさかという顔をしながら篠崎が武志に問いかけた。

「はい。店がハネて清掃や経理の仕事終わって従業員もだれもいなくなったあと、よく店のピアノを二人で弾きました」

「えーそりゃ意外だなあ。映画や小説でもそんなシーンはめずらしいよね。若頭は『大人のピアノ』でもやってたのかな」平林が半分冗談でいうと、神田も「我々とお仲間か?」と面白がって笑った。

「若頭は四歳からピアノを習ってたそうです。」

「いー?そりゃまた英才教育だね、ヤクザなのに」思わず篠崎がチャチャを入れると武志が苦笑した。

「でも、みんな四歳の時からヤクザな訳じゃないですから」

 武志の静かな正論に一同は首をそろえて縦に振った。その通りだ。その通りだし武志の淡々とした飾らない話ぶりに篠崎は感心した。

「すごい才能だと思いました」

「あなたのような人から見ても、というか聴いてもですか」神田もまた腕組みをしながら武志の目を見た。

「はい」

「じゃあ、なんで…」ヤクザなんかやってるんだという言葉を三人が同じように心の中で呟いた。

「南方さんは左右の小指がないんです」

「あ!」

「両方とも二十歳の時にない状態になったそうです」

「うーむ」

「詳しい話は聞きませんでしたが、グレて家出してそんなことになったそうです。それでプロの道は断念せざるを得なかった。それ以来ずっと、普通の意味では普通のピアノは弾けませんが、叶わないとわかっていてもずっとうちに秘めた思いを大事にし続けられる人なんです。南方さんのピアノはそんな触れれば切れるほどの切ないピュアなピアノだったんです。最近では白内障を患ってて視力もほとんどないんですが音感は昔のままで、小指のない演奏はそれは凄まじいです」

「凄まじい…」

「南方さんに指が揃ってたら…、いえ小指がなくても僕はあんなすごい演奏はできません」

「……」

 三人は黙ってしまった。グレて家を飛び出した二人のピアノ弾き。おそらく南方と武志の双方が、お互いの中にあり得たかもしれない自分を観たのだろう。それはこうして話を聞いただけでも想像できる。深夜誰もいなくなったクラブのピアノの前で二人してお互いのピアノを弾く中で、その気持ちは極めて純度の高い状態で通じ合ったに違いない。
 それが、翌年音大を受験し直してラウンジピアニストにケリをつけるということを遅らせることになった原因なのだろう。
 無理解な父親と比して、南方の中に武志は理解ある庇護者の理想形を求めたのかもしれなかった。


「どんな曲弾くの?南方さん」神田が穏やかな表情で尋ねた。

「ベートーヴェンやリストなんかとてもすごい演奏をします。でも一番好きなのは…」














「『もしもピアノが弾けたなら』すごい演奏だったわ」なつみ先生が初めて口を開いた。



つづく




大人のピアノ そのじゅうさん 武志、大物ヤクザを殴り倒す

「え?なつみ先生南方平蔵に会った事あるんですか」三人がほとんど同時に言った。

「はい。とにかく武志が心配で、お世話になっているという職場だけでも見ておきたいと思って」

「なるほ…」三人はうなずいたようなため息のような声を出した。

 ヤクザとなつみ先生…。まるで手術台の上のミシンみたいな取り合わせだが、こうして話を聞いていくと、こういう接点が出てきてしまう。人の世は何が起きるか分からないものである。

「来てくれるなら、夜店が終わった時間に来てくれと僕が言ったんです」

 武志となつみ先生の目があってお互いその日を思い出したのか軽くうなづきあった。

「はじめはもちろん連れて帰るつもりでした。でも…」

「でも、そうはならなかった…」良識の砦、神田先生もだんだん諦めムードである。

「もうしばらく、ここで勉強したいって僕が南方さんの前で姉貴にお願いしたんです」

「勉強…って、南方さんのピアノかい?」篠崎は三人の中で最も武志に同情的というか、シンパシーを感じていた。

「ええ。ピアノもそうなんですが、僕はうすうすはそれまで感じていたんですけど、ピアノはただ指が回ればいいっていうだけじゃない、何かが必要だと南方さんのピアノを聴いていてハッキリとそう思ったんです。」

「いわゆる人生経験みたいなものね」平林も武志に共感し始めていた。

「はい。そう言ってしまえば簡単なんですが、将来音大に入って音楽の勉強をするにせよ、僕はここで多分これを逃したら一生手に入らない経験を積めると思ったんです。逆にいうとこれを逃すと、もうこういう経験は一生ないかもしれない…」

「まあね。話はわかるよ。でも、そういう人生経験って年齢を重ねるうちに自然と出てくるというものでもあるんじゃないかね。君はまだ若いから何かこう生き急ぐような気持ちにとらわれるのも分からないでもないが。ねえ、なつみ先生」神田がなつみ先生に同意を求めた。



「そうですね…」しばらく沈黙したあと、なつみ先生は意外なことを口にした。

「実は私もその頃コンサートピアニストのキャリアを積む中で、実は武志と同じ悩みに苦しんでいたんです。小さい頃から課題曲をこなして、プロになってからも演奏会の曲目をこなし、コンクールのためのテクニックを磨き、たまに賞賛され、たまに落ち込み…そんな繰り返しの続きにこの先何があるんだろう。じつはずっと何も無いんじゃないか。私はピアニストとしては合格点であっても、芸術家として何かが足りないのではないだろうかと思い悩むようになっていました。そしてだからと言ってどうしたらよいかも分からず、軽い鬱状態でもあったんです」

 初めて聞くなつみ先生の暗部かもしれなかった。コンサート活動ををセミリタイアしてピアノ教室をやっているのもどうやらこの辺りに理由がありそうである。

「まさかなつみ先生まで南方平蔵さんに弟子入りしようと考えた、とかいう話じゃないでしょうね」神田が今度は心配そうな顔をした。

「いえ、さすがにそれはなかったですけど、何としても弟を連れて帰ろうという意気込みは段々後退して行き、やがて武志の意思を尊重しようという気持ちになりました」




 一同はまたしばし沈黙した。

「まあ、困ったもんですな、芸術家という人種は」言葉は皮肉っぽかったが、神田は笑っていた。




「さてと、大変な話を聞かせてもらっちゃったわけだけど、今後どうするの?明日あたり戻る?」篠崎が場を仕切り直した。

「いえ、喧嘩した相手がまずかったんで、すんなり帰るわけにはいきません」

「ああ、そうだった。どんな喧嘩だったかとかは聞いてなかったね。クラブの従業員同士で殴り合いでもしたの?」心配そうに平林が聞いた。



「いえ」短く答えたあと、武志がふぅっと大きくため息をついた。

「実は大変な人殴っちゃったんです」

「誰?」「かな」「それは…」三人は恐る恐る聞いてみた。




「それが、働くきっかけになった、組長と五分の盃を交わした叔父貴を殴り倒してしまいました」

「えええええええっ!やばいんじゃないのそれ!」

 篠崎が叫び、平林はコーヒーカップを落とし、神田は眼鏡を外したあとゆっくりとおしぼりで顔を拭いた。

「はい。指を詰めたくらいじゃ済まないと思います。片腕切り落とされるか、悪くすると東京湾に沈みます」





「……」



つづく
ゆっきー
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