大人のピアノ そのきゅう 先生の弟武志
「うーん」
神田、篠崎、平林三人の唸り声である。恐縮して何も注文しない斎藤武志に代わって神田が注文したレモンスカッシュは、量が減らないまま氷だけが溶けて、コースターはぐっしょり濡れている。その間武志はゆっくりと事の顛末を話した。話をするのに今の自分の境遇なども語る必要があったため、小一時間ばかりずっと話をしていたのである。
三人は長い話に退屈するどころか、すっかり聞き入ってしまっていた。
「じゃあ、平林さんがでっち上げた『千葉の友達』ってのはあながち間違いじゃなかったわけだ。友達じゃないけど」と神田が少しいじわるく平林を見た。
平林はバツの悪そうにすっと目をそらしたが、武志は気がつかぬ風で「そうです。千葉の船橋のクラブで住み込みで働いてました」と答えた。
「しかしなつみ先生の弟さんがクラブの、それも今聞いた話じゃあの蜷川会系列の店のマネージャーさんとは驚いたね」
なつみ先生が面目なさそうにうつむいたのを見て、平林が「いいすぎでしょ」という目で神田を見る。
「おっと、これは失礼」
平林の視線に気がついた神田は武志となつみ先生両方に頭を下げた。
「いえ、いいんです。家出して金も尽きた時世話になったクラブがどうもそっち系のしかも三大広域暴力団の店だと三ヶ月くらいで気がつきましたから。それでもズルズルそこにいたのは結局自分の責任です」
なんだかんだ言って家庭の良きパパであり社会的な良識もある神田歯科医院の院長先生は、渋い顔をしている。
「まあ、変な仕事じゃなくてホールのマネージャーと言っても、専属ラウンジピアニストなわけでしょ」
雰囲気にいたたまれず篠崎が助け舟を出す。
「はい。組の偉いさんが僕の弾くピアノがお気に入りで、かわいがってもらってました」
「さすがはなつみ先生の弟さんだね。ヤクザも心酔するピアノ弾きか」
「神田さん」今度は篠崎が口に出して神田を制した。神田は今度は何も言わずに不機嫌な顔で黙ってしまった。
「ずっと一緒に小さい頃からピアノを習ってまして、全国のコンクールの成績なんかも常に弟の武志の方が上位だったんですよ。年齢が上がって私もだんだんと音楽のなんたるかがわかり始めるころには、私なんかと弟では才能がまるで違うっていうことに気がつきました」
なつみ先生が場を取りなすように言った。
「まるで違うってことは、つまり弟さんの方が断然上手だということなんですか」二人の顔を見比べながら平林がどちらへともなく質問した。
「はい」弟が何か言い出そうとする前になつみ先生がはっきり断定した。
「それは私だけではなくて、私たちの共通の師匠もそう認識してます」
「…師匠というとこのパンフレットにある洗足音楽大学ピアノ科教授の岸谷行人さんですか」
さっきまで平林と盛り上がっていたパンフレットを再びカバンから取り出した神田は、尋問するように武志に問いかけた。
「はい。姉と一緒にずっとお世話になってました」
「ということは、お姉さんより才能あるってことだから、ピアノを普通に続けていればあなたも国際コンクールにどんどん入賞するピアニストになってたわけだ」
「はい、もしかしたら…」努めて淡々と話をしていた武志はこの時初めてかすかに苦渋の滲んだ顔をした。
「それが家出の原因でもあるんです。」なつみ先生が唇をきゅっとしめて小さく頷いたあと話し始めた。
なつみ先生の話を要約すると、自分の才能にも自覚を持ち始めた当時有名進学校快晴高校二年の武志は、進路相談の時に普通の大学進学を希望せず、音楽大学を志望したらしい。当時すでに洗足音楽大学の学生であった姉のなつみ先生はそれとなくこっそり相談を受けていたが、両親、とくに外務官僚の父親は武志は当然しかるべき大学にすすむと考えており、できれは自分と同じ道を歩んで欲しいと期待していた。
武志もすんなり自分の希望が叶えられるとは思っていなくて、両親にそのことを告げたのは国立大学の願書が締め切られた翌日だった。
武志にしてみれば、正直に希望を言えば反対されるのが分かり切っていたので、勝手に高校とは話を進めており、親の署名や判子がいる書類は勝手に作って提出していたのである。
息子が願書を出していないことに驚いた父親は、事の成り行きを問いただす中で明るみに出たこうしたやり方にカンカンになり、今度は意趣返しとばかり、武志の気がつかないところで秘密裏に、合格通知の届いた超一流音楽大学に片っ端から入学辞退の手続きをしてまわった。
父親もおとなしくなり、自分の将来の希望を尊重し折れてくれたとばかり思っていた武志は、アルバイトで稼いだ金で入学金を払うて続きをしようとして初めて父親の復讐に気がついたのであった。
カッとなった武志が家出をしたのはそんないきさつだった。
つづく
大人のピアノ そのじゅう 作戦会議
「武志君、でいいかな。だいたい事情はわかったよ。」
話が一段落して、篠崎がつぶやいた。
「神田さんには申し訳なかったんですが、もう明らかになっちゃいましたけど、入院してたなつみ先生の千葉のお友達の容態が急変ってのは作りばなしでした」
篠崎が頭を下げたので、平林も慌てて一緒に頭を下げる。
「あの…。あたしの千葉の友人の…ってなんでしょうか」なつみ先生が不思議そうに大きな目で二人に尋ねた。
「いえね、今日のレッスンなんですが途中の電車で平林さんと一緒になりまして、先生の御宅のインターフォンは二人で鳴らしたんです。でも全然反応がなかったので、もしかしたらお勝手口とかにもチャイムとかついてないかなってことで、お屋敷の裏手に回ったわけです」篠崎が平林に同意を求める。平林はコクっと頷いた。
「すると、なんていいますかお屋敷の裏手の小さな公園のベンチに、肩を睦まじく寄せ合っている男女を発見してしまいまして…」
ここまでの話で武志の方はすべて事情がわかったようで、恥ずかしそうに苦笑して下を向いた。
「まあ、男の人と女の人が…」スーパー天然のなつみ先生はまだ気がつかない。
「時々女性は男性の顔に手をやって顔を愛おしそうに撫でたり、肩をさすったりと、なんていいましょうか、そのぅ…」
篠崎は明らかに冗談モードに入って行った。平林は笑を堪えて下を向いた。神田はここで事情がわかったと見え、ふんふんと頷いた。同時に平林がなつみ先生の名誉のために自分に嘘をついたのだということがわかり、機嫌も直ったようだった。
一人かわいいなつみ先生だけがまだ気がつかなかった。
「白いワンピースにベージュのシュシュのポニーテール。そう、ちょうどいまなつみ先生が着てらっしゃるようなお召し物のお美しい女性(篠崎は<にょしょう>と発音したので武志が吹き出した)が、顔はジャニーズ風だけどいでたちはヤーさん風の男となんと!激しい口ずけを…」
「篠崎さん、そこまででいいっすよ」武志が笑をこらえて言った。「姉貴、俺たちのこと言ってんだよ、分かる?」
「え!」
「だから最後のキスは冗談なんだけど、篠崎さんと平林さんは姉貴が俺の顔の傷を触ったり、殴られて乱れた洋服の袖さすったりしてたことを言ってるわけ」
「え?」なつみ先生はここでようやく気がついたようだった。
「キスなんかしてません!」ムキになって篠崎の方を向いた。
「だからさ、そこだけ冗談で、どっかの男とレッスンほっぽり出してイチャついてる斎藤先生を見ちゃったものだから、それかばってくれたってこと」
武志が呆れ顔で解説したあと立ち上がって、「どうもご迷惑おかけしました」と篠崎、平林、神田の三人に深々と頭を下げた。
「いや、いいですよ、私は」神田はすっかり上機嫌だった。
「ほら、姉貴も一緒に頭を下げてくれよ」
「あ、はい。あの…どうもすみませんでした」
篠崎と平林は顔を見合わせて笑った。
「なかなかよくできた弟さん…というべきか…」平林がいうと「かわいいお姉さん…というべきか」と篠崎が継いだ。
「どうもこの度は大変ご迷惑おかけしました」
やっとすべての事態が飲み込めたなつみ先生が改めて頭を下げて、一同は笑って飲み物のお代わりをした。
「さてじゃあ、乗りかかった船ということもあるし、この後どうするのかっていうところの話をしましょうか」おもむろに神田がつぶやいた。
「いえでも、これは斉藤家の恥と言いますか、斉藤家のゴタゴタですので、これ以上皆様にご迷惑をおかけするわけにはまいりません」
やっと調子を取り戻したなつみ先生が、きっぱりとそう言った。横で武志も頷いている。
「いえ、ここまで話を聞いて、はいさよなら。っていうのもかえって気になって後味が良くないですよ」神田が同意を求めるように篠崎と平林の顔を見た。二人とも思うなずいた。
「お役に立てることがあるかないかは別として、この後どうするおつもりなのかだけでも我々に聞かせていただけませんか」
三人の総意としての神田の言葉に斎藤姉弟はしばし目で会話をしたが、やがて二人とも正面を向き直って揃って同意の頭を下げた。
つづく
大人のピアノ そのじゅういち 暴力沙汰の顛末
「さてと、じゃあ…。話はだいたい分かったんですが、今度は私たちの方から武志さんのお店のことなど質問してもいいですか」
平林と篠崎へのわだかまりはすっかり消え、神田は武志の人柄の良さもそれなりに受け入れたようだ。しかし神田は広域指定暴力団の息のかかった店で世話になっていたというところが、どうも気になっているようだった。
「はい」神妙な面持ちで武志が頷いた。
「そもそものきっかけはどういったものだったんですか、そこで雇われることになった」表情を抑えた顔で神田が尋ねる。これは篠崎も平林も突っ込んで聞いてみたいところであった。
「きっかけというほどのことはなかったんです。お金がなくなってきて船橋の工事現場で肉体労働やってたんですが、ある日親方連中に飲みに誘われたんです」
「あらら、まだ未成年なのに」神田が渋面を作る。
「ええ、年ごまかして雇ってもらってましたから、未成年ということを理由に断ることができずについて行くことになってしまいました」
「そういうところから悪の道にはまっちゃうもんなんだよなあ」正論に違いないので武志は黙ってうつむいた。
「まあまあ、神田さん。それは確かにそうなんでしょうが、今は武志君の話を先に聞きましょうよ」武志の様子をみかねた篠崎がフォローした。
「そうですね。でも客として行ったのにどうして雇われることになったんですか。求人募集の張り紙でも貼ってあったとか?」
「いえ、その日店でちょっとした喧嘩があったんです」
「なるほど。どんな喧嘩?」平林が相づちをうつ。
「酔ったお客がカラオケの代わりに、無理やりピアニストにピアノで伴奏させたんですが、店の上客だったらしくて、わがまま聞いてあげてたみたいなんですね」
「ああ、時々あるね、そういうの。周りはしらけちゃうだけなんだよな、あれ」篠崎は見知らぬピアニストに気の毒そうな顔をした。
「ええ。まあピアニストも我慢してやってられるうちは良かったんですが、お客さんが、カラオケマシンみたいに曲ごとにキーを上げろとか今度は下げろとか、キーが合ってないから歌えないとか怒り出しまして…」
「サイアクですね…」平林の一言に篠崎もうんうんとうなずいた。
「そのうち喧嘩になって、客がグランドピアノに水割り掛けたりもうメチャクチャでした」
「だってヤクザの店だろ。そんなことしてただで済まないでしょ」「そうだよね」「違うの?」神田の言葉に篠崎も平林も同意した。
「ええ、ところがその上客というのが組長が五分の盃を交わしたよその組の組長で、いわゆる兄弟分というのらしかったんです」
「うげ、それはまた。そんで?」三人は話の展開に半ば飽きれながらも先を促した。
「同じボックスに僕がその後世話になることになった若頭の方が座ってたんです。あ、ヤクザの世界の若頭って若くないんですよ。その方も五十歳くらいでしたけど、その方はあとで聞くと組の叔父貴にあたるその人の傍若無人ぶりにはらわたが煮えくりかえってたらしいんですが、立場上強いことは言えない」
「うむ」
「そうこうしているうちに、ラウンジピアニストがその人に小突かれたり、ど突かれたり、大声で怒鳴られたり、殴られたりが始まったんです」
「ありゃまあ」
「足を引っ掛けられて転ばされて、僕たちが座ってたところにピアニストが倒れこんできたんですね」
「うん」
「もう、見てられなかったので、『僕がピアノ弾きます』とその人に言ったんです」
「うん。そういうことね」
「はい。それで、なんとかその人の意に沿うような伴奏ができまして、店は無事にハネたんです。僕は当然最後までいました。そして最後上機嫌でその叔父貴が帰ったあとに『今日は大変お世話になりました』ということで、若頭の方、南方平蔵さんとおっしゃるんですが、その方が別に席を設けたいということになったんです」
「なるほど~そういう展開か」
「はい」
三人は誰ともなく相づちを挟みながら武志の入店までの顛末を聞いていた。なつみ先生は別に驚く風でもなく、このあたりは先刻承知のことのようだった。
つづく
大人のピアノ そのじゅうに ピアノを弾くヤクザ
「それでその南方平蔵さんというヤクザの大物に気に入られちゃったわけか」
神田はしょうがない展開だなあと思いつつも、武志が興味本位でそういった世界に近づいて行ったわけでないことを確認して、また少し武志の人物を認めたようだった。そもそも欠点をあげつらうのが目的ではなくて、敬愛する生徒たちのマドンナの弟さんとして、できれば仲間づきあいしたいという気持ちであったわけなので、神田はさらに質問を続けた。
「どんな人?そのヤクザの若頭ってのは」
「それが…実はいい人だったとか月並みなことは言いたくないんですが…」武志は少し苦笑しながら言い淀んだ。
「まあ、よくある話だよね。下っ端のチンピラと違って上の方の人には案外人間的魅力に富んだ人がいるって、いやあくまでマンガとか映画の印象だけどさ」腕組みをしながら平林が言った。
「ええ、まあしかし反社会的勢力であることは間違いないんで、僕自身はそういうところでは気を許したりはしないつもりです」
「う~ん。そうするとさ、そこが分かんないんだよね、やっぱり。あなたはかなりしっかりした青年だし、さすがはなつみ先生の弟さんだけあって分別もある。そのあなたが…」
「音楽のセンスがすごいんです。南方さん」神田をまっすぐ見つめながら武志がはっきりした口調で言った。
「ん?その若頭もピアノでも弾くの?」まさかという顔をしながら篠崎が武志に問いかけた。
「はい。店がハネて清掃や経理の仕事終わって従業員もだれもいなくなったあと、よく店のピアノを二人で弾きました」
「えーそりゃ意外だなあ。映画や小説でもそんなシーンはめずらしいよね。若頭は『大人のピアノ』でもやってたのかな」平林が半分冗談でいうと、神田も「我々とお仲間か?」と面白がって笑った。
「若頭は四歳からピアノを習ってたそうです。」
「いー?そりゃまた英才教育だね、ヤクザなのに」思わず篠崎がチャチャを入れると武志が苦笑した。
「でも、みんな四歳の時からヤクザな訳じゃないですから」
武志の静かな正論に一同は首をそろえて縦に振った。その通りだ。その通りだし武志の淡々とした飾らない話ぶりに篠崎は感心した。
「すごい才能だと思いました」
「あなたのような人から見ても、というか聴いてもですか」神田もまた腕組みをしながら武志の目を見た。
「はい」
「じゃあ、なんで…」ヤクザなんかやってるんだという言葉を三人が同じように心の中で呟いた。
「南方さんは左右の小指がないんです」
「あ!」
「両方とも二十歳の時にない状態になったそうです」
「うーむ」
「詳しい話は聞きませんでしたが、グレて家出してそんなことになったそうです。それでプロの道は断念せざるを得なかった。それ以来ずっと、普通の意味では普通のピアノは弾けませんが、叶わないとわかっていてもずっとうちに秘めた思いを大事にし続けられる人なんです。南方さんのピアノはそんな触れれば切れるほどの切ないピュアなピアノだったんです。最近では白内障を患ってて視力もほとんどないんですが音感は昔のままで、小指のない演奏はそれは凄まじいです」
「凄まじい…」
「南方さんに指が揃ってたら…、いえ小指がなくても僕はあんなすごい演奏はできません」
「……」
三人は黙ってしまった。グレて家を飛び出した二人のピアノ弾き。おそらく南方と武志の双方が、お互いの中にあり得たかもしれない自分を観たのだろう。それはこうして話を聞いただけでも想像できる。深夜誰もいなくなったクラブのピアノの前で二人してお互いのピアノを弾く中で、その気持ちは極めて純度の高い状態で通じ合ったに違いない。
それが、翌年音大を受験し直してラウンジピアニストにケリをつけるということを遅らせることになった原因なのだろう。
無理解な父親と比して、南方の中に武志は理解ある庇護者の理想形を求めたのかもしれなかった。
「どんな曲弾くの?南方さん」神田が穏やかな表情で尋ねた。
「ベートーヴェンやリストなんかとてもすごい演奏をします。でも一番好きなのは…」
「『もしもピアノが弾けたなら』すごい演奏だったわ」なつみ先生が初めて口を開いた。
つづく