大人のピアノ

大人のピアノ そのじゅうよん 武志をかくまう

 東横線の最終電車に篠崎は武志と乗っていた。金曜の終電なので酔客で混んでいる。渋谷の始発ではなく自由が丘からの乗り換えなので立ってつり革を握っている。

 話の成り行きから、今日は武志を武蔵小杉の篠崎の家に一晩泊めることになった。武志の話では今頃自分の親のメンツをかけて千葉から怖い兄ちゃん達が各方面に飛んでるだろう、という事だった。幸い武志の実家はまだそれらしき人間は見かけなかったが、時間の問題だろう。それに家出して数年という手前もあり、いまさら急に、しかもこんなテンパった状態で実家を頼るのは現実的でなかった。

 独身の平林がアパートでも借りているのなら話は早いのだが、寮生活なので武志を連れて行く訳にはいかない。都内のビジネスホテルはおそらく真っ先に襲撃されることは目に見えている。幸せの良識の歯科医神田先生はいったんは、家族に聞いてみてもいいと言ったが、それならば自分が、と篠崎が手をあげたのだった。ベロンベロンに酔っ払った取引先や会社の上司を真夜中自宅に連れ込んでそれから朝まで飲み明かしたことなどザラだし、まあ、なんというか、こういう場合は神田家のようなちゃんとし家庭ではなく、自分のところのような機能不全家族の方がむしろなにかといいだろう、というのが篠崎の理屈だった。

 それに篠崎は、なんだかこのまま武志と別れるのが寂しいような気がしていたのだった。若いっていいな、言葉にすればそんな陳腐なセリフになってしまうが、篠崎は忘れていた無茶やってきた若い頃の遠い思い出を武志の中に投影していた。もちろん武志の様にピアノは弾けない。しかし、武志が南部平蔵との数奇な出会いの中から必死に何かを掴み取ろうともがいているのはよく分かったし、無責任を承知でいえば自分もそれを何かしら応援したい気持ちにもなっていた。

 もっと武志と話したかった。「そこまで甘えられない」と頑なに遠慮する武志に、反対に篠崎方がもっと君と話がしたいから、と頼み込むような感じになった。

 武志の年齢からおよそ二十数年、知らず識らずのうちにすり減り、長いものに巻かれ、むしろあらゆる長いものに迎合することに自虐的な快楽を感じることを覚えてやってきた自分。そんな自分の中にゆるく封印してきた「それは違うだろ、篠崎よ」という部分がむずむずと動き始めていた。武志と話すことで、それが何なのかを確かめたかった。今更武志のように生きたいというわけではない。そうではないけれど、いいかげん&まじめの割合のバランスが崩れ、円グラフのいい加減の割合が一ミリずつ増えてきて今日のどうしようもない自分がここにいること、この自分を思い切り壊してみたいような気がしていたのだった。

 話をしたいことが幾つも頭に浮かんで、そのたびに篠崎は横に並んで立っている武志の方を向いて口を開きかけてはやめた。どこで誰が聞いているかわからない。落ち着いた雰囲気を保っている武志の胆力には舌を巻くが、かなりやばい状況の逃亡生活である。もし武蔵小杉の自宅にいる時に武志が捕まるようなことがあれば当然かくまった自分にも何かしらの制裁があると覚悟しておいた方が良いだろうし、最悪妻と娘にも害が及ぶかもしれない。とりあえず身の安全を確保できる自宅に帰ってしっかり鍵をかけるまでは、うかつなことを車内でしゃべったりするのは慎むべきであった。


 武蔵小杉でいつものように下車した。とりあえずここまでは何もなかった。まさか姉のピアノ教室の生徒の自宅というラインはそう簡単には割れないだろうとは思いつつも、徒歩で十分ほど歩く間も二人は無言だった。しかし無言で雨上がりのアスファルトをじゃりっと踏みながら二人して歩く中、武志の方でもここまでしてくれる篠崎に対する情愛のようなものが湧き始めていた。

 二人は目が合うと時々ニヤッと悪ガキのように笑った。





「ただいまあ」

 ようやく自宅に戻ってきた。妻の冴子は出てきたりはしない。電報堂を辞めてからは最近はお客の気配があっても挨拶にも出てこない。初秋の玄関の冷気は廊下を伝ってこの家の隅々にまで行き渡っていた。家庭の温もりどころか、篠崎は外から家に入ったとたん気温がさらに二度ほど下がったような気がした。

「お客さん?」

 娘が篠崎とは目を合わさずに、廊下の先から玄関を覗き込んだ。父親のことは無視だが、娘の朝子は客に対して最低限の挨拶はする。これは口に出して礼をいうタイミングと方法が見つからないので何も言ってないのだが、篠崎は娘に心底感謝している。

「こんばんわ」

 赤の大柄のチェックの寝巻きにガウンをはおり、シャワーを使ってまだ生乾きの髪を後ろでギュッと束ねた朝子が、廊下を羅足のまま渡ってきて武志に挨拶をした。「いったいどんなお客だろう」高級クラブのマネージャーのいでたちに芸能人のようなルックスの武志を見て朝子は少し興味を持ったようだった。そういえば朝子と同じくらいの年齢だ。朝子の方が二歳くらい上だろうか。

「夜分にすみません」

「いえ、どういたしまして」

 それだけいうと朝子は奥に引っ込んだ。久しぶりに娘の声を聞いた気がする。



「まあ、入ってよ。あすは土曜だしさ、といっても君にはしばらく土日もないだろうけど、とりあえず飲み直そうぜ」

 篠崎は、何だか妙にうきうきした気分で十二畳ほどあるリビングに武志を招き入れた。

「はい」

 武志は廊下を曲がって奥に消えた朝子の方を見ながら、篠崎の後について行った。







つづく

大人のピアノ そのじゅうご 武志と朝子

「おお、ピアノだ」

 リビングの奥はソファが置いてある。篠崎が水割りの用意をしている間、武志はさっそくピアノを発見して、近寄った。
 朝子が小学校に入学した時に買ったものだった。朝子はピアノが好きだったと篠崎は思っている。バイエルやハノンの基礎練習を嫌がらない、と近所の三十代のピアノ教師が褒めていたそうだ。実際うまかったらしい。いまのなつみ先生よりもう少し上の女性教師は、もっと熱心に習いたいのなら自分の師匠筋からしかるべき先生を紹介したい、とまで言っていたそうだ。

 もっとも篠崎は朝子がピアノをやっていることに特別な関心はなく、年間数回あった発表会というのも一度も行ったことがない。仕事で忙しかったといえば嘘ではないが、当時は子育て全般に関心がなかったと言った方が良いかもしれない。

 そういえば、何となく自分の意思で選んだつもりになっていた今度の発表会の『トルコ行進曲』だが、これは幼い朝子がお気に入りだった曲で、よくあのピアノで練習していたものだった。
 父親に聴かせるつもりで篠崎がリビングで水割りなど飲んでいると、よくピアノを練習しにきたものだった。うかつだったのは、自分がいる時によく自分の前で朝子がピアノを弾いていたのは、自分に褒めてもらいたからだったのではないか、と最近気がついたことである。

 自分がトルコ行進曲を練習して、少しでも先へ進むことができると妻や朝子の賞賛の顔が見たくてピアノを弾くのをやめて振り返った。
 褒めて欲しいと心から思った。たぶん、いや、間違いなく朝子もそう思っていたはずである。しかし、篠崎は聴いてやった、褒めてやった覚えはただの一度もなかった。褒めれば良かったな、と心の底から思うとともに、そうしなかったことへの後悔が自分がピアノを弾くたびに湧き上がる。自分が褒めて欲しいと思うたびに、自分のどうしようもない身勝手さを感じた。

 もう遅かったけど…。

 弾けた時にピアノを中断し、今でも時々後ろを振り返る。たいていは、さっきまでいたはずの朝子の姿が見えなくなっていた。おそらく、幼い頃のことを思い出して、朝子はもう一度傷ついていたのではないだろうか。昔幼い朝子を大人の残酷な無関心で傷つけ、反対に今は大人の朝子を子供染みた自分の身勝手な思いで傷つける、多分それが自分という人間なんだ。

 篠崎は少し泣けてきた。

「お嬢さんがピアノ弾かれてたんですね」武志がまだ譜面台の横に捨てずにとってあった朝子の使ったうすく黄ばんだ楽譜や、コンサートの時の写真を見て言った。

「ああ、今にして思えばもう少し子供がピアノやっていることに関心をそそげば良かったな、と思うよ」今頭の中に反芻していたことを篠崎は武志に話してみた。

「いえ、きっとお嬢さん、朝子さんはどっかで篠崎さんの気持ちを感じてるはずですよ」

「いや、それは残念ながらまったくないよ。オレ、今じゃ悪かったとホントに思ってるけど何にもしてやらなかったもん。発表会でビデオ回すこともしなかったし、練習を褒めてやったこともない。結局中学の時やめたんだけどさ、今思うとそこそこ頑張ってたのに、まわりの無理解に白けていったというところじゃないのかな」

 懺悔のニュアンスの漂う篠崎の言葉に武志は、少し気の毒そうな顔をしながら笑った。

「篠崎さん、感性の方程式ってご存知ですか」

「いや知らない。なにそれ」

 武志と自分の分の水割りダブルを作って、片手を上げて乾杯の仕草をすると、篠崎はソファに深々と体を預けた。

「『知識=覚えた量ー忘れた量』ですね」武志がピアノから離れてソファの方に歩いてくる。

「うん。そうだね。最近その忘れた量がどんどん覚えた量を食いつぶしてるのがオレの悩みだ」

「感性はちょっとだけ違ってて、『感性=覚えた量+忘れた量』だそうです」ソファに座りながら武志は笑った。

「ほう。忘れちゃってるけど、それがプラスされて全部で感性になってるってわけか」

「ええ、小さい頃の忘れた思い出も含めて今の自分のものの感じ方を作ってるっていうわけです」頂きます、と言って武志が水割りに口をつける。

「ふーん。面白い考え方だね。でもそうするとあれだなあ、ますますなんか娘に悪かったような気がするよ」

「朝子さんに…。どうしてですか?」

「どうしてってこんな父親が目に見えない感性部分まで影響与えてしまったのかと思うと罪悪感もひとしおだね」冗談めかしながらも篠崎は自嘲気味に言った。

「そんなことないと思います。いいお嬢さんじゃないですか」


 おそらく年下のはずの武志のこのものの言い方は少し変かな、と篠崎が思った瞬間篠崎は気がついた。武志はさっき廊下で挨拶しただけの朝子に少し関心を持ったのかもしれなかった。




つづく

大人のピアノ そのじゅうろく 組織からの連絡

「あ、すみません。ちょっと待ってください」

 水割りのグラスをコースターに置いて、武志はケータイのバイブを止めて画面に見入った。メールなのでそんなに長く文章を読んでいるわけではないはずだが、武志は十分以上もそのままじっとケータイを握りしめていた。

「ふう…」

 やっと顔をあげると今度はリビングの天井を見上げてまたしばらくそうしていた。

「どうしたんだい」篠崎が心配そうに尋ねた。

「あ、すいません。店の仲良かった先輩からメールでした。状況を知らせてくれたんです」

「そうか…」



 武志の話を要約すると、こういうことだった。

 武志に殴り飛ばされ失神から気がついた叔父貴は当然のことながら怒り狂った。いつも店にくる時にはボディガードなどは連れずに一人できていたので、直ちに武志が取り押さえられることはなかったのだが、知らせを聞いてさっそく店には二十人ほどの幹部が招集された。

 このままでは武志が見つけられて半殺しか、もしかすると本当になぶり殺されることは時間の問題であった。絶体絶命のピンチに、南部平蔵が動いてくれたらしい。

「南部さんは、『うちの店で起きたうちの身内の事件』だということで、怒り狂ってる叔父貴の組の若い衆をなだめて、蜷川会のけじめとして僕を捕まえてしかるべき責任を取らせる、ということでとりあえず話を納めてくれたらしいです」沈痛な面持ちで武志が言った。

「すると、いますぐ急に見つけ出されて殺されるとかいうことではなくなった、ということなのかい」早くホッとしたくて篠崎が早口で武志に確認した。

「はい。ただ仕切るところが叔父貴の組じゃなくて船橋の蜷川会に変わっただけですので、身柄を確保されたあとどういうことになるのか…実はあんまりかわらない結末のような気もします」武志はあきらめたように淡々と言った。

 二人はしばらく無言で水割りを傾けた。時折篠崎が自分と武志のグラスに氷とウイスキーを足した。武志はその度にきちっと頭を下げて「すみません、ありがとうございます」と言った。

「そういや、状況は聞いたけど、動機の部分って聞いてなかったよね。なんでまたそんな、殺されるかもしれないことやっちまったんだい?」

「最初ラウンジピアニストがやらされたことと同じことを叔父貴が南部さんにやらせたんですよ。ピアノでカラオケマシンのようなことを面白がって南部さんにさせて、『小指の音が抜けた歯みたいに欠けてて気持ち悪くて歌えねえ』だの難癖つけたんです。それがやむことなくずっと続いたんで、しまいにテーブルの上で空になっていたビールの大瓶で思いっきり顔面を殴りつけたというわけです」

 武志ははじめてみせる、目の座った暴力性を感じさせる凄みのある表情をした。ピアノが上手くてたまたまそうした状況に出くわしたというだけならば、あるいは南部氏も武志をここまでかわいがらなかったのかもしれない。武志には、自分が譲れないところに関しては、それがどんな結果をもたらそうが一歩も引かないといった強烈な部分がありそうだった。それは例えば強情というような、自分のエゴから出てくるものではなく、例えばこの場合のように後先考えずにということはあるにせよ、今回のように自分の大切なもののために殉ずるという行為にもなるように篠崎には思えた。

「そっか、そういうことなら少なくとも船橋蜷川会は武志君の味方かな」

「心情的にはそうだと思います。今メールくれた先輩も『お前がやらなかったら俺がやってたところだ』と書いてます。多分みんなそういう感じでしょう」武志はそれでも浮かない顔だった。

「それでも状況は変わらないかな」

「ええ、船橋蜷川会が僕の身柄確保を仕切ることになって、南部さんの立場はかなり苦しいものになったと思います。叔父貴の組が探し出せなかったという場合には、それは向こうの失態となるだけなんですが、この流れだと、僕が仮に逃亡に成功したとすると、南部さんの立場がなくなります」

「あ!そうなるか」篠崎は小さく叫んだ。当事者とはいえ、二十歳すぎの若者がよくこんなに冷静に自分の置かれている状況を把握できるものだと篠崎は舌を巻いた。

「僕、とりあえずこの水割りいただいたら船橋に戻ります」

「今からか」

「ええ。メールには指示めいたことは何も書いてませんでしたが、こうなった以上一刻も早く僕が自分でけじめをつけるべきでしょう」

「そのまま殺されるかもしれないのにかい」

「はい」武志はきっぱりなんの迷いもなく即答する。

「はいって、君は世話にはなってるかもしれないが、蜷川会の構成員でもないわけだし、このまま逃げてしまえばいいじゃないか。オレだって逃亡についてもできる限りの手助けはするつもりだったんだよ」篠崎が目を赤くして必死に説得した。

「今日初めて会ったばかりの僕にありがたい話です。僕も短い間でしたが何だか篠崎さんのことがとても好きになりました。もっとここでおしゃべりもしていたいです。でも篠崎さんのご好意に甘えるわけにはいきません」

「どうしてもか」

「南部さんにはご迷惑をかけられません」武志は迷いなく答えた。立派なものだと篠崎は感動すらした。

「しかし、せめてもう一回なつみさんに会ってから行ったらどうだい。考えたくないけどそれが別れになるかもしれないんだし」武志を行かせまいと篠崎は必死だった。

「いえ、そうしたい気もありますが…」

「お父さんとだってまだ仲直りしてないし。このまま君が二度と帰らない人になってしまったら、お父さん、君と行き違いがあったことに一生涯苦しむことになるよ。同じ親としてそれは忍びないことだ。君のお父さんの味方をするわけじゃないが、そのあたり少しでも話をする時間はないのかい」

 武志はゆっくり首を振った。

「篠崎さん、僕のためにこんなに真剣になってくれてありがとうございます。でもいかなくちゃいけません」

 武志はソファを立った。



 その時篠崎の脳裏に、さっきリビングに入ってくる時に娘の朝子が廊下の先に消えて行くのを目で追っていた武志の姿が思い浮かんだ。

「おーい、朝子。こんな深夜に悪りい。お父さんの一生のお願いだ。今晩は下でお父さんの晩酌に付き合ってくれ」

 今にもリビングでを出て行こうとする武志を目で制しながら、篠崎は深夜零時をまわった家中に響き渡る大声で二階の娘を呼んだ。



「いるわよ、ここに」

 振り返るとドアのところにもたれた愛くるしい顔をした朝子が立っていた。

「へ?何でお前また、用意がいいな」篠崎はポカンとした顔で言った。

「ごめんなさい、全部立ち聞きしちゃったの」

 朝子は小さく舌を出してチョコンと頭を下げた。




つづく

大人のピアノ そのじゅうなな ホステス役の朝子

「おいおい、立ち聞きかよ。お父さんはお前をそんなはしたない娘に育てたつもりはないぞ~」

 おどけた様子で篠崎は朝子に言った。朝子は篠崎には軽く一瞥をくれただけで、リビングに入ってきて武志の座っていたソファの隣に座った。

「あらためましてこんばんわ。篠崎朝子です」

 朝子は座ったまま、今にもドアに向かって去って行きそうな武志に挨拶をした。武志は立ったまま挨拶を返すのも戸惑いがあったらしく、いったん朝子の横に座り直し、「斎藤武志です」と挨拶した。これは朝子の作戦勝ちだったかもしれない。取り敢えず武志はもう一度さっきのようにソファに座ることになった。

 朝子は髪を乾かして、普段着のトレーナーと短パンという格好になっていた。廊下でずっと立ち聞きしていて寒かったのか、いつの間にかパジャマを着替えていた。客の話を立ち聞きなどということはこれまで一度もなかった。たぶん、武志と同じように玄関で会った時に何か惹かれるものを感じて、トイレにでもおりてきた折にリビング越しに中の様子を見ようとしたのかもしれない。
 その時に「捕まる」だの「殴り倒す」だの「殺される」だのという話し声が聞こえてきたので、驚いて話の内容を確かめようとしたのだろう。その意味ではそんな物騒な言葉をリビングで話していた篠崎たちにも非はあったといえるのかもしれない。

「ピアノ、弾くんですね。それもかなり上手に」

 朝子はしかし、そういった物騒な話を問いただすことはしなかった。黙っている武志にさらに話しかけた。

「私も昔は弾いたんですよ。将来の夢はピアニストになることだったの」

「え!お前そうだったのか。お父さん全然知らなかったぞ」

 朝子はあきれ顔をして「そうでしょうね」と鼻で笑った。そういえば、朝子と会話が成立したのは高校の卒業式以来のことだった。もっともこんなのも父娘の会話と言ってよければであるが…。





「聴いてみたいわ」

 朝子が少し上目遣いに武志の顔を見た。もしかしたらもうコンタクトレンズを外しているのかもしれなかったが、焦点の少し曖昧になったような涙目のような瞳で甘い声を出す朝子は、我が娘ながらなかなか魅力的に映った。あれで膝に手でも置いたら篠崎が大好きな夜の倶楽部活動のお姉さんたちのようだな、とあらぬことを想像して篠崎はブルブルと頭を振った。

 これまでのクールでクレバーな武志の印象からは、こうした朝子の態度も笑って軽くいなされると思い込んでいた篠崎は、意外にも武志が緊張気味に「どんな曲が好きなんですか」と答えたのに驚いた。

 いつの間にか大人っぽさを増した我が娘は、取り敢えず、とにかくも武志を引き止めるという役割を見事に果たしたのだった。



つづく
ゆっきー
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