ミラノ 里帰り

第四章:グッバイ ミラノ( 2 / 7 )

29.変わっているイタリア、変わっていないイタリア

 

今回のミラノ里帰りで感じたことは、「変わっていないイタリア、変わっているイタリア」という一見、矛盾する印象だ。

 

それは、時が止まっているかのように感じるときもあれば、時代は新しくなっていっているんだなと感じることが、対になって現れてくる。

 

イタリアは今、いたるところレスタウロ(修復、修理、復旧、再興、回復、元に戻す)の真最中だ。だから、見たいものが修復中で見られなかったことはたくさんある。歴史的な建造で言えば、フィレンツエのサンタクローチェ教会の祭壇。工事のやぐらが組まれていて見ることはできなかった。

 

29.1レスタウロ.JPG

 

でもそれは、失いたくないオリジナルの美しさを回復させることだ。これは変わっていくイタリアなのか、変わらないイタリアなのか、分からない。

 

ミラノの下町、コルソブエノスアイレスの通りの古いアパート群(日本でいうマンション)の外観は古いままだが、人々は300年、200年も前の建物に住んでいる。一見すると、変わっていない町並だ。けれど、実は内装は、いろんな機会に最新の設備に造り直されている。外見と違って生活の中身は変わっていっている。

 

29.2コルソブエノスアイレス1.jpg

 

 日本のように、木造建築で40年に一回は建て替えなければならない状況は嘘のよう。
建て替えという概念さえ無駄な訳。日本では建て替えが当たり前。その金を稼ぐために、他に使うカネを貯金して、つましく生きている。ひどいのになると、一世代では返せないで、二世代にわたる39年ローンなんて組んであくせくしている。

 

イタリアのアパートは、20~30年に一回くらい、500万円くらいかけて手を入れれば、快適に暮らせる。だから金だって日本より楽ちんで、ローンの返済に追い回されることはない。結果として無駄がないのだ。しかも、職住接近の最たるものだ。

 

さらに、同じ町に、同じ家族が、同じ仕事をしながら住んでいるから、古くからの隣近所の地域社会が、今もちゃんと息づいている。地域社会の崩壊がないのだ。

 

29.3コルソブエノスアイレス270's.jpg

 

<写真は1970年代のコルソブエノスアイレス:今とあまり変わらない>

 

さらに言えば、イタリア人は家族を大切にするから、経営でも家族での経営が多いようだ。だから、昔からのパン屋さん、肉屋さん、日用品の店などが同じ商売をしている。これも古いものを大切にしていて、スローライフの典型かもしれない。

 

少し角度を変えてみてみると、いろんな面で、同じようなことを感じる。

 

例えば、車。イタリア車の代表的なアルファロメオは、新しい技術を投入して、1970年代、皆の垂涎の的だったジュリアを作り直して、現在販売している。小気味いいデザインはクラシックと言えばクラシックだ。でも中身は最先端。

 

同じく、フィアット500.1960年代に作られたイタリアの国民車。500㏄のエンジンンを後ろに積んで、チョコチョコと可愛い愛嬌を振りまいていた人気者。今それを1300ccのボディにリメイクして、フィアット500として売り出している。イタリアの町には、この新しい500が走り回っている。今回運転してみたけど、踏ん張りがあって好印象。

 

ミラノの便利な足、トラム(路面電車)だって、全くの古い車高の高い1960年代からのモデルも健在だし、最新鋭の静かなLRT、お年寄りにフレンドリーな最新鋭車用が同じ線路を走っている。

 

29.4トラム.jpg

 

東京では荒川線のみが走っているにすぎない。日本では金のかかる地下鉄を選んで、地下5階から時間をかけて、えんやこらと登ってくる。しかし町のどこに出るのかは定かではない。時には反対の方向の出口を選んで、目的の場所にやっとこさと戻ってくる。路面電車の良さは、自分の位置確認ができるところだ。

 

また視点を変えてみると、イタリアにはつばめや雀が多いのに気がつく。都会も、田舎も、基本的には建物の構造を変えていないからだ。特に、イタリア瓦の乗った屋根は、彼らの定宿。生活に溶け込んだ生物のだ。日本では、戸建ものっぺらぼうの家を作ったから、彼らが巣をかけるところがないらしい。日本野鳥の会がそうした報告を出している。

 

街の大学生たちもすごい。彼らは、大体、週末にはうちに帰る。両親やおじいちゃんおばあちゃん、兄弟、そして、故郷の友人たちとのつながりを修復する。もちろん、都会住まいからくるストレスから解放されて、自分の精神的な修復にもなる。

 

こんな風にみてくると、変わっているようで変わっていない基本がちゃんとあるような気がする旅だった。日本はどうだろう?

 

第四章:グッバイ ミラノ( 3 / 7 )

30.ミラネーゼの生活は…

 

 

 

 ミラネーゼの定義をイタリア語の辞書、百科事典で調べてみたけれど、細かい定義はないようだ。大まかには次のような定義がある。

 

30.4Ian Spackman from flickr.jpg

 

abitante o nativo di Milano : ミラノの市民 ミラノに住んでる人 ミラノ生まれの人 ミラノっ子

他に、dialetto di Milano(ミラノ方言)とか、ミラノの…、ミラノ風の…などがある。

 

そういう意味では、「江戸っ子」の方が定義されているようだ。江戸古典落語などでは、次のようになっている。

・「山王権現、神田明神の信者(氏子、檀家)」

・「古町に生まれた者」

・「親子3代にわたって江戸下町に生まれ暮らした町人」

 

さて、本題。

 

1970年にミラノに赴任した僕が見たミラネーゼの生活と、今回、接したミラネーゼの生活を比べてみて、基本的に大きな変化はないというのが印象だ。これは、同じく訪れた10年前、20年前にも感じた印象とおなじだ。

 

インテルとミランのミラノ・ダービーで沸くサンシーロのサッカー場の光景からわかるように、ミラネーゼの最大のスポーツはサッカーだ。

 

これらの写真は、僕が今回ミラノに泊まったホテルから、野外テレビでのサッカー観戦の模様を取ったものだ。

 

30.1夜8時.jpg 

 

 

 午後8時の状況

 

UEFA Euro2012 サッカー欧州選手権の時のもの。

 

UEFA Euroとは、4年に1度、ヨーロッパで開かれるナショナルチームによる選手権。だから、イタリー人は、ドイツ人は、フランス人は、スコットランド人は、…人は、国を挙げて大興奮する。

 

30.2夜9時.jpg

 

 午後9時の状況

 

この日、準々決勝でイギリス vs イタリア戦をみていた。試合は、0対0でPK戦に。そしてイタリアは勝利した。(6月24日)

 

これでかろうじて勝ったわけだが、その試合の状況に従って、ミラネーゼは、ピンチではマンマ・ミーヤとかポルカ・マドンナ(オウー、ノー)と全員で頭を抱え、チャンス、得点では大喝采でイタリア国歌を合唱したりと、大興奮。

 

これを見ていた僕は、1969年のワールドカップでイタリアが優勝した夜のミラノの大さわぎを思い出した。その時も、口々に「ヴィヴァ・イタリア」とわめきながら、一晩中、警笛とか、ラッパを「トラリラ トラリラ…」と鳴らしながら、ミラノ中を車が走り回っていた。まったく彼らは、サッカーを愛しつづけている。

 

 今回、準決勝ではイタリアは、ドイツに2-1で勝ち(6月28日)、その後、優勝戦でイタリアは、スペインに0-3で敗戦(7月1日)。そこで、やっと興奮は収まったのだと思う。僕は26日にミラノを離れたから、観戦する群衆をその後見ることはできなかったのだが、彼らが、どう、体を使って喜び、悲しんだだろうかが容易に想像できる。

 

 

食の文化で高い評価を受けているイタリアは、基本的には自給自足が十分できる食糧生産国だ。町の市場は庶民でごったがえしている。庶民は、生活を楽しんでいる。

 

しかも、食料品の値段はべらぼうに安い。日本の半分、もしくは三分の一だろう。もちろん外で食べれば、日本のファミレスぐらいの値段で食べることはできるだろう。でも、イタリアでは家族でテーブルを囲んで食事するのが当たり前。

 

住居に関していえば、日本のように、木造建築で50年に一回は建て替えなければならない状況は嘘のようだ。300年も同じマンション(アパート)に、手入れしながら大切に使っている。無駄な建て替えという概念さえないわけだ。

 

だから家族は、歴代、同じマンションに同じように、金をかけずに住んでいる。そのために、その地域社会が健全で残り、同じ地域社会が住民たちにはずっと当たり前の存在だ。日本のように、シャッター通りなんか生まれないのだ。

 

30.3ミラノの町.jpg

 

イタリア人は、ウインドーショッピングが当たり前。欲しいものがあれば、あちらこちらと、店のショーウインドーを見て廻る。決して、飛び込みで即、ものを買うということはしない。

 

おしゃれなミラネーゼは、じっと欲しいものを品定めしておいて、「夏のサルディ」

を待つ。ミラノでは、毎年、7月7日くらいから、60日間くらいが正式の夏のサルディ、つまり、夏のバーゲンセールと決まっている。ミラノでは厳密に守ることもないので、それ以前から個々の判断で始めている店もある。

 

 昨年、2013年の7月1日からの一週間で、ひとり154エウロくらいの買い物を客はしたとか。日本円で2万円くらいだと新聞に載っていた。前年比では、低い傾向とか。これを、たくさんとみるか、少ないとみるかは読者次第。でも、非常に堅実な洋服の買い方だと思った。

 

 

イタリアにも日本のお盆休みのような休暇がある。Ferragostoと言って、815日からは、ミラノでは2週間すべての店がしまる。ミラノ市は観光客のために、店を開けてくれるようにプロモーションしているが、まだまだ、みんな休んでいるようだ。

 

やはり、夏はミラノの町はかっらぽになり、捨てられた犬が徘徊する時期になる。

 

<最初の絵は、flickrからIan Spackman さんの“Monte Napoleone”をお借りしました>

 

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス

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第四章:グッバイ ミラノ( 4 / 7 )

31.40年前のアパートメントを訪ねて

 

ミラノに帰ることが出来たら、必ずやっていることがある。それは、40年前に僕が住んでいたアパートメント(コンドミニアムもしくはマンション)を訪ねることだ。

 

31.2 グランサッソ.jpg

 

10年前、20年前にも訪れたけれど、外からしか見られなかった。ご存じのとおり、日本でオートロックと言われている仕組みがあって、通りからインターフォンで部屋に連絡して、やっと門を開けてもらって中に入れる仕組みだ。しかし、40年前の知人はもうそこにはいない。

 

結果として、外から眺めるだけだった。

 

今回も、ミラノを離れる前に外からでも見ておこうと、メトロをLIMAで降りて、懐かしいコルソ ブエノス アイレスからアブルッツイ通りの方に道をたどる。忘れていそうでちょっと不安だけど、進んでいくと、アッこの道に間違いはないという風景に出くわして安心する。

 

31.1ViaBruzzi.JPG

 

トコトコ、10分も歩いて、アブルッツィ通りのトラムの線路を越えて歩いていくと、懐かしい「レジデンス・グランサッソ」が見える。5階建てのレンガの装飾のマンションは、相変わらず美しい姿でもとの場所にあった。アイビーが少し濃くなって、壁面を緑色に染めている。

 

近づいてみると、なんと入口の鉄格子のゲートが開いている。懐かしい中庭に向かっていく道には工事用のバンが停まっている。工事中なのでゲートが開かれていたのだ。一寸おっかなびっくりだけど入り込んでいく。

 

左手には、地下に向かう駐車場のスロープがあって、あぁここに車を入れていたんだと思いだした。そう、この駐車場に、ここの女性オーナーが真っ赤なフェラーリを入れていたんだとも思いだした。僕のは、フィアット128。格が違いすぎるけれど、同じく冬にはヒーターが入る駐車場のシャッター音を思い出す。

 

どんどん入って行って、中庭に出ると木々は大きく育っていた。が、その中庭を取り囲むマンションの雰囲気は、まったく変わらない。

 

31.3グランサッソ.jpg

 

誰かいないかなぁとフロントのあるエントランスに入り込むと、あごひげの若い男性がロビーで書類を見ていた。ラッキー。

 

早速、僕は40年ほど前に…と、このマンションとのかかわりを話した。彼によると、もう昔のレジデンス(管理人のいる長期滞在型のホテルのようなもの)ではなくて、分譲されてコンドウになっているという。しかし、ロビーの様子も昔と変わらない。

 

屋上に出て見たいのだがと頼んだら、エレベーターで行けると、僕を案内してくれた。うれしかった。予想もしていなかった展開だ。僕はエレベーターで屋上の登り、バルコニーに踏み出した。そして、懐かしい風景を眺め、写真をパカパカ撮った。残念ながら、空気が澄んでいなくてアルプスまでは見渡せなかったけれど、ミラノの屋根の連なりが眼下にあった。

 

ちょっと離れたマンションの屋上庭では、住人のおじさんが、短パン一丁でタバコを吸っているのが見える。ミラノのリアルな生活を感じた。

 

31.4アパートからの眺め.jpg

 

ロビーに下りていくと、その若い人がまだいて、ちょっと話した。ふっと思い出した管理人のエンッツオーさんの名前を出したら、今も5階に住んでいるという。会うかときかれたけど、まぁいいやと引き下がった。

 

中庭で写真を撮り、もう二度と来ることはないかもと、ちょっとしんみりする自分がいた。若いひげの男にチャオと言って、アパートを出てちょっと振り返ってみた。やはり、手入れされたマンションは40年たっても価値が下がっていなかった。木立が大きくなって深みを増して、感じがよくなっていた。

 

さようならと言って、僕はメトロの方に歩み始めた。

 

ドゥオモの近くのヴィットリオ エマヌエルほどの高級感は無いが、庶民の町、コルソ ブエノス アイレスは、ちょうど夕方の買い物の人たちでにぎわっている。歩道があまり広くないこの通りには、歩道のカフェは無い。夕方のパッセジャータまで、ねばってみようかと思ったけれど、歩きたばこの匂いに背中を押されて、Loretoでメトロに乗ってホテルに帰ってきた。

 

やっと里帰りが出来たような気がした。ミラノに再び住みたいと思っていたころの自分が、懐かしく思い出される日だった。おそらく、もう二度とそんな日が来ることはないだろうとの思いに、ちょっと沈んだ一日でもあった。

 

第四章:グッバイ ミラノ( 5 / 7 )

32.毎日、おこる問題

今回のミラノ里帰りで出くわした問題というリストを作ったら、かなり長いものになった。

 

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これから、イタリア旅行に出かけられる読者の方々には参考になるかもしれないので、ちょっと書いてみます。もちろん僕のチョンボが多いのですが、もしかしたら、他の人にも起こるかもしれない…と思いながら。

 

・車のバンパーはぶつけるもの

 

日本では車のバンパーを大切にしていて、ちょっと傷がついてもドライバーは怒っているし、気にしている。でもイタリアではバンパーはぶつけるもの。路上駐車が多いから、ミラノ市内では狭い場所に、ぎゅうぎゅうに縦列駐車をしている。入る時、出る時に前と後ろの車をバンパーで押すのは当たり前。ドシンではなく、ゆっくり押します。

 

・メルセデスA160(旧型)は欠陥車

 

 エッセイの中で書いたけれど、この車は操縦性の問題がある。重心が高く、曲がりくねった山道は気持ちが悪くなる。カーブで必ず体が外に引っ張られるのだ。それが理由で(?)ちょっと怒りが湧いて、注意が散漫になってサイドミラーを壊した。

 

・レンタカー屋さんには、オートマティックの代車は無い

 

A160のサイドミラーを壊して、ハーツに代車を求めたけれど、オートマティックはマイナーなので、代車を見つけるのは困難。結果として、慣れないマニュアル車になった。

 

・イタリア人と争うと、時として、家族ぐるみで口を出してくる

 

シエナのホテル、モデルナで、フロントに人が居なくて15分も待たされたことがある。誰もいないのだ。客室の鍵がずらりと並んだフロントに全く人がいないのだ。やっと現れた若い人の文句を言って議論になった。すると、親父さん、おばあちゃんまで参戦。家族愛の強さの現れだけど…。

 

・ビジネスの世界においても時間はルーズだ 

 

ラスペチアでフィアット500をハーツに返そうとした時のこと。オフイスアワーは午後2時半からとなっていたので近くのバールで待っていたけど、オフィスが開いたのは一時間後。さらに、4日間も短くなったのだから、レンタル費用の再計算は当たり前。僕がしつこく頼んでやっとやってもらった。面倒くさいことは、やらないのが当たり前。

 

・マニュアル車のアイドリングストップは怖い

 

日本のマニュアル車のつもりで、坂道発進は出来ない。フィアット500.アイドリングストップ機能が付いているから、坂道発進で一度車が止まると、エンジンンも止まる。半クラッチの坂道発進が出来ない。だってエンジンが止まってしまうんだから。このストップをストップする機能があるのは後で知った。冷や汗。

 

VISAカードが使えない

 

あるスーパーのレジの若い女の子が、僕のカードを乱暴にカードリーダーに読ませるから、機械がはじく。何度もやっているので、ゆっくりやればと注意したら、怒って、「VISA」なんてカードは知らないときた。マネージャーを呼んでもらって、彼がゆっくり読ませてOK.頭に来るよ、こちらも。

 

・都市間特急(インターシティ特急)が出発しない 80分発車が遅れた

 

このことは、26話「怒り、その矛先は」に書いた通り。列車長の遅刻が原因。でも乗客に遅延の説明も陳謝もなかった。特急券の払い戻しもなかった。要注意です。

 

・ホテルで停電が起こる

 

ラスペチアの大きなホテルでも、停電が起こる。原因は、ホテルの電気系統の故障だった。僕が部屋に帰ろうとエレベーターに乗り込んで上がり始めた途端、停電が起きた。アメリカ人の観光客が太い腕でエレベーターの扉をこじ開けくれて、半日閉じ込められるのを免れた。感謝。

 

・ロトンダ(ロータリー)は便利だけど、道を間違えやすい(トップの絵を参照)

 

 

 車が信号でいちいち止まらなくていいロトンダは素晴らしいシステム。しかし、出口がよく分かっていないと、簡単に道を間違える。ロトンダに入る道から、何本目で出るかをしっかり確認しておかないと、道を間違える。道を間違えたら、ロトンダの道は放射状だから、十字路で区切られた日本の感覚では戻れない。右に曲がって、最初を右に曲がって、もう一度右に曲がれば元の道…とは行かないのだ。

 

・ホテルのルームキーを空港まで持ってきてしまう

 

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これは、僕のチョンボ。ホテルのチョンボでもあるのだが…。帰りのマルペンサ空港で、ポケットに手を入れたら、でかいルームキーが入っていた。チェックアウトの時に返し忘れたのだ。ホテルのフロントの人も全く気がつかなかった。電話して、どうすると尋ねたら、空港の警察に行ってくれと言われた。警官がホテルに電話して、確認して、翌朝、ホテルの人が取に来るまで預かってくれた。冷や汗。

 

4週間の間には、本当はもっともっとトラブルがあったのだけれど、忘れてしまったのもある。参考になれば…と書いてみました。

 

徳山てつんど
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