悲しみの化身

 かっこいいようでもスパイダーは蜘蛛の意味だから、ちょっと犬の名前にはふさわしくないと思った。「でも、スパイダーって、蜘蛛ってことじゃない。犬が蜘蛛じゃ、おかしくない?」さやかは、ちょっと反対した。亜紀は、振り向くと歩き始めた。さやかは、亜紀の機嫌をそこねたのではないかと思い、すぐに後を追った。店内のテーブルに戻ってみると、アンナの姿はなかった。「ママは、厨房かな?」亜紀は、厨房に向かって歩いていった。

 

 アンナは、厨房の丸椅子でぼんやりしていた。「ママ、親切なおじちゃん見送ってきた」亜紀は、アンナの横に立ち大きなお腹をじっと見つめた。「お腹の赤ちゃん、来月生まれるのね。弟かな~、妹かな~、早く、見たいよ~、」亜紀は、お腹をそっとさすった。「どっちが生まれても、かわいがってね。初めての赤ちゃんだから、ちょっと心配だけど、頑張って生むからね、亜紀。応援してね」アンナは、男の子が生まれることをさやかには教えていたが、亜紀には黙っていた。

 

 拓也の子供を生むことに喜びを感じてはいたが、一人ぼっちで子供を生むようで心細かった。「アンナ、亜紀もさやかも、ついているじゃない。ド~ンと太っ腹で、産めばいいのよ」さやかは、アンナが孤児である自分たちのことを卑屈に思っているのではないかと心配した。「そうよね、亜紀もさやかも拓也も、みんな見守っているのよね。元気が出てきた、元気で、明るい子を産んでみせる。よし」アンナの不安な顔が、一気に笑顔に変わった。

 

 亜紀も笑顔を作った。「それに、南の島のおじいちゃんも、さっきのやさしいおじちゃんも、今度来るシェルティも、みんなママを応援してるよ。ママ、ファイト!」亜紀は、アンナの笑顔を見つめ、声を張り上げた。アンナは、亜紀の励ましの言葉に感心し、きっと優しいお姉ちゃんになれると確信した。アンナは、ちょっと、きょとんとした表情で訊ねた。「亜紀、南の島のおじいさんって、誰?」アンナは、小さな声で訊ねた。

 

 亜紀は、大きな目をして答えた。「ママのおじいちゃんのことよ。大金持ちの」亜紀は、さやかが話したおじいちゃんのことを言っていた。アンナは、しばらく考えて、ぼそりと言った。「おじいちゃん、南の島の?」アンナは、さやかの顔を見つめた。さやかは、とっさに作り笑いをして答えた。「ほら、おじいちゃんよ。ほら、会長!親切で、金持ちの」さやかは、アンナに右目を閉じてウインクした。

 

 さやかが、またもや、いいかげんなことを言ったな、とアンナは心で思ったが、会長のことは亜紀に話したくなかったため、さやかの言うとおり、おじいちゃんにしておくことにした。「あ、そう、おじいちゃんね、そうよね」アンナは、適当に応えてしまった。亜紀は、大きなお腹をゆっくりさすりながら、話を続けた。「ママ、生まれてくる子供の名前、もう、決まってるの?」亜紀は、アンナが考えている名前が知りたかった。

 アンナは、頷き、もったいぶって答えた。「聞きたい?一応、考えているのよ。男の子だったら、拓実。女の子だったら、麻里子。どうかしら」アンナは、心に決めた名前を言ってみた。亜紀は、素直に賛成した。「麻里子、ママが好きな篠田麻里子の麻里子ね、拓実はパパの拓也の拓を取って拓実ね。亜紀もいいと思う」亜紀は、即座に名前の由来がひらめき、言葉に出した。アンナは、目を輝かせ、亜紀の右肩に手を置いた。

 

 「そお、いい名前と思う。でも、よく分かったわね。亜紀って、ホンと、賢いわね」アンナは、亜紀の賢さにはいつも感心していたが、このときばかりは、即座に応えたことにあっけにとられた。亜紀の横で聞いていたさやかも賛成した。「いい名前じゃない。予定日は、12月2日、だったわね。でも、早く生まれることもあるらしいわよ。産宮神社におまいりに行きましょうよ」さやかは、安産の神様に元気な男の子が生まれることを祈願したかった。

 

 今日は、3時に店じまいをし、三人で産宮神社におまいりに行くことにした。亜紀は、子犬が来ることになり、いつになく朗らかだった。「ママ、子犬はいつ来るの?明日?明後日?待ち遠しいな~。もう、名前は決めたのよ。名前は、スパイダー、さやかは、変だと言ってるのよ。ママは、どう思う?」亜紀は、スパイダーにこだわっていた。アンナは、亜紀の決めた名前に賛成することにしていた。

 

 「良いじゃない、スパイダーマンのスパイダーね。かっこいいじゃない。正義の味方、スパイダードッグというわけね。家族を守ってくれるスパイダーね。亜紀、考えたわね」アンナは、笑顔で賛成した。さやかは、そこまで考えなかった。アンナは、やはり母親だった。亜紀が、なぜ、名前をスパイダーにしたかを即座に理解した。母親になるとこんなにも、子供の心を理解できるようになるものかと感心した。

 

 さやかは、スパイダーの意味を蜘蛛としか思わなかった浅知恵に、少し恥ずかしくなった。今度ばかりはアンナにしてやられた。「そうだったのか。そういう意味ね。さやかも、スパイダーに賛成」さやかは、亜紀の左肩をポンと叩いた。「子犬は、どの部屋にする?洋間が一つ空いてるわね」さやかは、6畳の洋間を子犬の部屋にする提案をしたが、アンナは、犬は庭で飼うものと思っていた。

 

 「え、犬を家の中で飼うの?庭じゃ、いけないの?」アンナは、犬が赤ちゃんを襲うんじゃないかと一瞬おびえた。亜紀が、笑顔を作り、アンナの誤解をすぐに察知した。「ママ、大丈夫よ。犬って、子供が大好きなのよ。それに、犬は子供のボディーガードになってくれるのよ。犬って、賢いんだから」亜紀は、友達の家の犬を見て、そのことを理解していた。アンナは、頷き、家で飼うことに賛成した。

春日信彦
作家:春日信彦
悲しみの化身
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