悲しみの化身

 「良いじゃない、スパイダーマンのスパイダーね。かっこいいじゃない。正義の味方、スパイダードッグというわけね。家族を守ってくれるスパイダーね。亜紀、考えたわね」アンナは、笑顔で賛成した。さやかは、そこまで考えなかった。アンナは、やはり母親だった。亜紀が、なぜ、名前をスパイダーにしたかを即座に理解した。母親になるとこんなにも、子供の心を理解できるようになるものかと感心した。

 

 さやかは、スパイダーの意味を蜘蛛としか思わなかった浅知恵に、少し恥ずかしくなった。今度ばかりはアンナにしてやられた。「そうだったのか。そういう意味ね。さやかも、スパイダーに賛成」さやかは、亜紀の左肩をポンと叩いた。「子犬は、どの部屋にする?洋間が一つ空いてるわね」さやかは、6畳の洋間を子犬の部屋にする提案をしたが、アンナは、犬は庭で飼うものと思っていた。

 

 「え、犬を家の中で飼うの?庭じゃ、いけないの?」アンナは、犬が赤ちゃんを襲うんじゃないかと一瞬おびえた。亜紀が、笑顔を作り、アンナの誤解をすぐに察知した。「ママ、大丈夫よ。犬って、子供が大好きなのよ。それに、犬は子供のボディーガードになってくれるのよ。犬って、賢いんだから」亜紀は、友達の家の犬を見て、そのことを理解していた。アンナは、頷き、家で飼うことに賛成した。

 「そう、それじゃ、空いている部屋で飼いましょう。亜紀、ちゃんと面倒見てよ。ママは、犬のこと、まったくわかんないんだから。さやかも頼むわよ」アンナは、初めて飼う犬に少し不安であったが、かわいい子犬が来ることに心が躍っていた。「早く、子犬が来るといいね。さっそく、犬のえさを買わなくっちゃね」アンナは、犬を飼うのに必要なものはよくわからなかったが、えさのことは即座にぴんと来た。

 

 さやかが、頷き応えた。「ペットショップに行って、必要なものを買ったらいいじゃない。産宮神社の帰りにペットショップに寄りましょう」さやかは、予定を立てた。亜紀が突然ガッツポーズをした。「友達がダックスフンドを飼っているの、だから、必要なものは大体わかるよ。ケージ、トイレシーツ、お皿、首輪、リード、おもちゃ、ドッグフード、ブラシ、消臭剤、まずはこんなところかな」亜紀は、犬を飼っている部屋を思い浮かべながら、必要品を並べた。

 

 さやかもペットを飼うのは初めてで、いろんなものが必要なことに目を丸くした。「いろんなものが必要なのね。ペットを飼うって大変みたいね」さやかは、少し自信をなくした。アンナも少し不安になってきた。「犬も病気するわよね。病気したらどうしよう。発情したら、オスは暴れるんじゃないかしら」アンナは、さやかに訊ねた。「動物病院に連れて行くしかないわね。病院も調べなくっちゃね」さやかは、病気のことを言われ、さらに憂鬱になってしまった。

 亜紀は、二人が憂鬱な顔をし始めたので、子犬のことを話すことにした。「子犬って、とってもかわいいんだから。ちゃんと世話をすれば、病気になんか、ならないよ。犬も人間と同じよ。かわいがってやれば、元気に育つんだから。みんなで、かわいがろ!」亜紀は、子犬のかわいいイメージを強調した。「そうよね、犬も家族だもの。仲良くすれば、元気に育つんじゃない。分からないことは、獣医に聞けばいいのよ」さやかは、亜紀の気持ちを汲んで、亜紀に賛成した。

 

作文

 

 亜紀には、誰にも言えない悩みがあった。それは、突然、実の母親、知美を思い出すことの悲しみであった。11月20日までに作文を提出しなければならなかったが、作文のテーマは、“家族”だった。亜紀は、作文は、最も好きで得意であったが、今回の家族のテーマは、亜紀を苦しめていた。亜紀の言語力は、群を抜いて秀でていた。小学1年生にして、高学年の言語力を備えていた。それは、遺伝的なものかもしれなかったが、拓也の読み聞かせが大いに効をそうしていたに違いなかった。

 

 亜紀は、毎日日記をつけていた。だから、どんなテーマの作文も一瞬のうちにイメージがひらめき、次から次へと言葉が湧き出ていた。家族のテーマの作文も、最初は、母親のアンナ、不思議な友達さやか、入学式を終えてまもなく亡くなった父親の拓也、などについて、一気に言葉が湧き出た。ところが、いざ、書き始めると、なぜか、突然消えうせた実の母親、知美の姿が脳裏に現れるようになり、さらに、犬死した弟の俊介までも現れるようになった。そして、次第に、それらが、亜紀を悲しみの渦に巻き込むようになった。

 あの時の忌まわしい生活の様子が、亡霊のように頭の中をうごめくようになっていた。亜紀は、さやかとアンナに助けられ、拓也に実の親以上の愛情を注がれ、忌々しい過去はすべて消え去ったと思っていた。現に、拓也に育てられてからは、一度もあの時の過去を思い出さなかった。どうして、今頃になって、あの時のことを思い出すようになったのだろうと不思議に思った。

 

 亜紀は、突然目の前から姿を消した実の母親を恨んではいない。いや、恨むと言う気持ちを持ちたくないと自分に言い聞かせてきた。何か事情があって、会いに来られないのかもしれない。もしかすると、明日にでも、突然目の前に現れるかもしれないと思ったりもした。弟の俊介は、もし母親がいたならば、助かっていたに違いないと思ったが、それでも、母親を恨む気持ちにはなれなかった。亜紀にとって、実の母親、知美は、永遠に愛する母親であった。

 

 亜紀は、6歳のときに拓也に買ってもらったノートパソコンを今も使っている。毎日、キーボードを叩いている。亜紀は、心の底で眠っている得体の知れない悲しみを起こしたくなかった。時々、ふと悲しみがこみ上げることがあった。この悲しみは、何もできずに目の前で弟を亡くした悲しみなのか、突然目の前から消えてしまった母親を思っての悲しみなのか、やさしかった拓也の死による悲しみなのか、原因は分からなかったが、原因を追究する気持ちにはなれなかった。

春日信彦
作家:春日信彦
悲しみの化身
0
  • 0円
  • ダウンロード

12 / 22

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント