悲しみの化身

 気がついたときには、悲しみを紛らわすためにキーボードを叩いていた。ピアノを弾いて集中することで悲しみを忘れることもあったが、やはり、言葉を生み出していないと悲しみは消え去ろうとはしなかった。亜紀は、毎日、いろんな言葉を生み出した。この言葉は、自然に湧いてくるものであったが、やはり、悲しみを忘れるための習慣だった。亜紀にとって、書くことは、呼吸と同じようになっていた。一日たりとも、書かずに過ごすことができなくなっていた。

 

 実の父親のように読み聞かせをしてくれた拓也、実の母親、知美以上に優しいアンナ、親身に話を聞いてくれる親友のようなさやか、彼らのことを毎日、書き記しているにもかかわらず、彼らについて作文を書くことになったとたんに、どこからか、亡霊のような母親、知美が現れるようになった。だからといって、母親、知美について何か書く気持ちにはなれず、言葉も生まれなかった。ぼんやりとした母親の姿を、しっかり見つめたいような、消し去りたいような、自分でもはっきりしない、もやもやした気持ちになった。

 

 得体の知れない悲しみが襲ってくるようになったとき、ふと、犬の顔が目の前に現れた。その犬は、親友が飼っていたダックスフンドの顔だったが、一瞬、心がぱっと開放されたように、気分が晴れやかになった。そのときから、犬を飼いたいと思うようになった。ネットで犬の動画を見ているうち、シェルティに一目ぼれをしてしまった。そして、無性に欲しくなり、機会があれば、アンナにねだる気持ちでいた。

 犬を見ていると、自分の気持ちを聞いて欲しくなるのだった。誰にも言えない本当の気持ちを犬に聞いて欲しかった。自分にも分からない得体の知れない悲しみを犬に聞いて欲しかった。そして、犬を家族の一員として作文に書きたかった。そのことが頭に浮かんでからは、家族の作文が書けるような気持になった。子犬が早く来ないかといても立ってもいられなくなった。

 

                  スパイダー

 

 やさしい執事の約束の日から3日後、待ちに待った子犬のシェルティがやってきた。子犬は、浦志にあるドッグファミリーからやってきた。そこは、先日のぞいたペットショップで、執事はこの店にシェルティを依頼していた。執事は、子犬だけでなく、子犬を飼うために必要なもろもろの物も依頼していた。ペットサークル、ベッド、クレート、皿、ドッグフード、トイレシーツ、首輪、リード、おもちゃ、などもそろえて持ってきてくれた。

 

 子犬は、血統書つきの生後2ヶ月で、とてもかわいらしかった。毛色はトライで、顔は黒、目の上が茶色、口は白っぽく、亜紀好みの顔であった。さっそく、犬の部屋にしては豪華な6畳の部屋に子犬を運んでいった。亜紀は、子犬を見つめスパイダーと呼んでみた。子犬は、まったく反応しなかったが、亜紀の心はルンルンであった。今まで、自分の気持ちをマジでぶつけられる相手がいなくて、欲求不満になっていたが、子犬を見ているだけで気持ちがスカッとしてきた。

 さやかもアンナンも亜紀も、誰もペットを飼うのは初めてであった。食事の与え方やトイレのしつけ方もまったく分からなかった。食事は、今まで与えていた総合栄養食のドッグフードを与えるように、また、トイレは、決まった場所に連れて行き、そこでさせて、うまくいったら褒めるように店主に教えられた。もし、体調がおかしいと思ったときは、獣医に相談したほうがいいとアドバイスしてもらった。動物病院は、ドッグファミリー近くにあると教えられた。

 

 子犬のスパイダーは、一目見たときから、大好きになり、亜紀は、片時も離れたくないと思った。「亜紀、よかったわね。こんなにシェルティがかわいいなんて思ってもいなかったわ」さやかは、亜紀に微笑んで言った。「うん、かわいくて抱きしめたい。でも、まだ、おどおど、してるみたい。しばらくは、そっと、かわいがるように言われたね。まだ、この部屋に慣れてないし、亜紀とも初対面だしね」亜紀は、見ているだけで、気持ちがハイになってしまった。

 

 その日の夜は、スパイダーをクレートに入れて、ベッドのそばに置き寝ることにした。スパイダーは、クンクンと悲しい声を出し、なかなか寝ついてくれなかった。やっと、9時ごろ泣きつかれたのか眠りについた。亜紀は、スパイダーが眠りにつくまでずっと見守っていた。眠りについたスパイダーを見届けると、心が落ち着き亜紀も眠れる気持になった。スパイダーに小さな声で「おやすみ」と声をかけ、亜紀も目を閉じた。

 

 眠りについたスパイダーは、亜紀の夢の中で目を覚ましていた。スパイダーは、亜紀の頬をペロペロ舐めていた。夢の中の亜紀は、ぱっと目を見開いた。「くすぐったいじゃない、もう」亜紀はスパイダーを抱きかかえて、ベッドに腰掛けた。すると、スパイダーの顔がりりしくなった。「お姉ちゃん、僕だよ。また、会えたね。あの日は、お腹、ペコペコで眠っちゃったよ。ごめんね、お姉ちゃん」スパイダーは、突然話しかけた。犬のスパイダーがしゃべった。亜紀は、はっとした。その声は、紛れもない俊介の声だった。

 

 「シュンなのね。シュンは、死んで犬になったの。犬になって、お姉ちゃんのところに帰ってきてくれたのね。人間は、死んでも生まれ変わるってほんとだったのね。よかった。シュンが元気で。シュンが、人間でなくても、お姉ちゃんは、大丈夫。あのころと同じように、シュンを面倒見るから。話したいことがあれば、何でも話して。何か欲しいものがあれば、何でも言って」亜紀は、スパイダーになったシュンに歓迎の言葉を掛けた。

 

 スパイダーは、さらに低い声で話しかけた。「パパだよ、亜紀。元気そうじゃないか。小学校は慣れたかい。12月2日に生まれてくる、拓実をかわいがってくれよな」この声は、拓也の声だった。亜紀は、信じられない声に周りを見回した。「え、パパなの。どこにいるの」ここだよ。目の前にいるじゃないか。「まさか、パパが、スパイダーなの?今、スパイダーは、シュンだったのよ。スパイダーは、シュンなの?それともパパなの?」亜紀は、スパイダーに問いかけた。

春日信彦
作家:春日信彦
悲しみの化身
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