悲しみの化身

 眠りについたスパイダーは、亜紀の夢の中で目を覚ましていた。スパイダーは、亜紀の頬をペロペロ舐めていた。夢の中の亜紀は、ぱっと目を見開いた。「くすぐったいじゃない、もう」亜紀はスパイダーを抱きかかえて、ベッドに腰掛けた。すると、スパイダーの顔がりりしくなった。「お姉ちゃん、僕だよ。また、会えたね。あの日は、お腹、ペコペコで眠っちゃったよ。ごめんね、お姉ちゃん」スパイダーは、突然話しかけた。犬のスパイダーがしゃべった。亜紀は、はっとした。その声は、紛れもない俊介の声だった。

 

 「シュンなのね。シュンは、死んで犬になったの。犬になって、お姉ちゃんのところに帰ってきてくれたのね。人間は、死んでも生まれ変わるってほんとだったのね。よかった。シュンが元気で。シュンが、人間でなくても、お姉ちゃんは、大丈夫。あのころと同じように、シュンを面倒見るから。話したいことがあれば、何でも話して。何か欲しいものがあれば、何でも言って」亜紀は、スパイダーになったシュンに歓迎の言葉を掛けた。

 

 スパイダーは、さらに低い声で話しかけた。「パパだよ、亜紀。元気そうじゃないか。小学校は慣れたかい。12月2日に生まれてくる、拓実をかわいがってくれよな」この声は、拓也の声だった。亜紀は、信じられない声に周りを見回した。「え、パパなの。どこにいるの」ここだよ。目の前にいるじゃないか。「まさか、パパが、スパイダーなの?今、スパイダーは、シュンだったのよ。スパイダーは、シュンなの?それともパパなの?」亜紀は、スパイダーに問いかけた。

 スパイダーは、答えた。「スパイダーは、亜紀が会いたい人になるのよ。だから、スパイダーは、亜紀の悲しみの化身なの」スパイダーは、知美の声で答えた。「まさか、今の声は、ママね。今、どこにいるの?早く帰ってきて。亜紀は、糸島市の平原公園の近くの家にいるの。今のママは、アンナというの。でも、会いたい。どこにいるの、ママ」亜紀は、知美の声を確かに聞いた。

 

 「クンクン」子犬の鳴く声が、亜紀の耳に飛び込んできた。亜紀のまぶたがパッと開いた。目じりからは、細い涙が流れていた。亜紀が半身になって、クレートの中を覗くと、スパイダーが、クルクル回りながら泣いていた。亜紀が、スパイダーと声をかけると、おしっこをした。目覚まし時計は6時少し前だったが、スパイダーをクレートから取り出し、抱きかかえ、もう一度、スパイダーと一緒にベッドにもぐりこんだ。スパイダーは、亜紀の胸元ではしゃぎ、亜紀の涙をペロペロ舐めはじめた。

 

 亜紀は、スパイダーに話しかけた。「おい、スパイダー、よく聞け、夢に僕ちゃんが出てきたぞ。僕ちゃんは、いたずらっ子だな」亜紀は、真剣な顔でスパイダーを見つめた。スパイダーは、ニッコリ笑って答えた。「え、僕の夢を見たの。やっぱり。僕は、亜紀をからかうためにやって来た、いたずらっ子だよ。これから、よろしくね」スパイダーは、シュンの声で日本語をしゃべった。

 

 8時になると、スパイダーを犬部屋に運んでいった。そして、キッチンに出てみると、アンナが、食事の準備をしていた。「亜紀、スパイダーは、おとなしく寝てくれた?」アンナは、スパイダーが泣きつづけて、亜紀が眠れなかったんではないかと心配した。「スパイダーは、おりこうさん、だったよ。それに、たくさんお話もしたし」亜紀は、スパイダーが、話せることをアンナに伝えた。

 

 アンナは、適当に聞き流し、亜紀に食事の準備を手伝うように言った。「亜紀、このお皿、いつものように並べて。そう、バーバラ先生は、お泊りだったの。三人分でいいわ」バーバラ先生は、最近、友達の家に時々泊まっていた。「あ~、スパイダーを紹介したかったのに、つまんない」亜紀は、スパイダーを見せて、バーバラ先生をびっくりさせたかった。「さっさと、ならべなさい」ぐずっている亜紀に、強い口調で指示した。

 

 亜紀は、しぶしぶお皿を運び始めた。「ママ、12月2日、弟が生まれるのね。楽しみね。亜紀は、弟が欲しかったから、バリうれしい」亜紀は、夢で拓也が話してくれたことを思い出しながら、何気なく話した。「あら、さやかね、口が軽いんだから、ほんとに」アンナは、男の子が生まれることをさやかが話したと勘違いした。「ママ、さやかじゃないよ。パパからよ」亜紀は、笑顔で教えた。

 

 

 「そう、それじゃ、空いている部屋で飼いましょう。亜紀、ちゃんと面倒見てよ。ママは、犬のこと、まったくわかんないんだから。さやかも頼むわよ」アンナは、初めて飼う犬に少し不安であったが、かわいい子犬が来ることに心が躍っていた。「早く、子犬が来るといいね。さっそく、犬のえさを買わなくっちゃね」アンナは、犬を飼うのに必要なものはよくわからなかったが、えさのことは即座にぴんと来た。

 

 さやかが、頷き応えた。「ペットショップに行って、必要なものを買ったらいいじゃない。産宮神社の帰りにペットショップに寄りましょう」さやかは、予定を立てた。亜紀が突然ガッツポーズをした。「友達がダックスフンドを飼っているの、だから、必要なものは大体わかるよ。ケージ、トイレシーツ、お皿、首輪、リード、おもちゃ、ドッグフード、ブラシ、消臭剤、まずはこんなところかな」亜紀は、犬を飼っている部屋を思い浮かべながら、必要品を並べた。

 

 さやかもペットを飼うのは初めてで、いろんなものが必要なことに目を丸くした。「いろんなものが必要なのね。ペットを飼うって大変みたいね」さやかは、少し自信をなくした。アンナも少し不安になってきた。「犬も病気するわよね。病気したらどうしよう。発情したら、オスは暴れるんじゃないかしら」アンナは、さやかに訊ねた。「動物病院に連れて行くしかないわね。病院も調べなくっちゃね」さやかは、病気のことを言われ、さらに憂鬱になってしまった。

春日信彦
作家:春日信彦
悲しみの化身
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