悲しみの化身

 亜紀は、二人が憂鬱な顔をし始めたので、子犬のことを話すことにした。「子犬って、とってもかわいいんだから。ちゃんと世話をすれば、病気になんか、ならないよ。犬も人間と同じよ。かわいがってやれば、元気に育つんだから。みんなで、かわいがろ!」亜紀は、子犬のかわいいイメージを強調した。「そうよね、犬も家族だもの。仲良くすれば、元気に育つんじゃない。分からないことは、獣医に聞けばいいのよ」さやかは、亜紀の気持ちを汲んで、亜紀に賛成した。

 

作文

 

 亜紀には、誰にも言えない悩みがあった。それは、突然、実の母親、知美を思い出すことの悲しみであった。11月20日までに作文を提出しなければならなかったが、作文のテーマは、“家族”だった。亜紀は、作文は、最も好きで得意であったが、今回の家族のテーマは、亜紀を苦しめていた。亜紀の言語力は、群を抜いて秀でていた。小学1年生にして、高学年の言語力を備えていた。それは、遺伝的なものかもしれなかったが、拓也の読み聞かせが大いに効をそうしていたに違いなかった。

 

 亜紀は、毎日日記をつけていた。だから、どんなテーマの作文も一瞬のうちにイメージがひらめき、次から次へと言葉が湧き出ていた。家族のテーマの作文も、最初は、母親のアンナ、不思議な友達さやか、入学式を終えてまもなく亡くなった父親の拓也、などについて、一気に言葉が湧き出た。ところが、いざ、書き始めると、なぜか、突然消えうせた実の母親、知美の姿が脳裏に現れるようになり、さらに、犬死した弟の俊介までも現れるようになった。そして、次第に、それらが、亜紀を悲しみの渦に巻き込むようになった。

 あの時の忌まわしい生活の様子が、亡霊のように頭の中をうごめくようになっていた。亜紀は、さやかとアンナに助けられ、拓也に実の親以上の愛情を注がれ、忌々しい過去はすべて消え去ったと思っていた。現に、拓也に育てられてからは、一度もあの時の過去を思い出さなかった。どうして、今頃になって、あの時のことを思い出すようになったのだろうと不思議に思った。

 

 亜紀は、突然目の前から姿を消した実の母親を恨んではいない。いや、恨むと言う気持ちを持ちたくないと自分に言い聞かせてきた。何か事情があって、会いに来られないのかもしれない。もしかすると、明日にでも、突然目の前に現れるかもしれないと思ったりもした。弟の俊介は、もし母親がいたならば、助かっていたに違いないと思ったが、それでも、母親を恨む気持ちにはなれなかった。亜紀にとって、実の母親、知美は、永遠に愛する母親であった。

 

 亜紀は、6歳のときに拓也に買ってもらったノートパソコンを今も使っている。毎日、キーボードを叩いている。亜紀は、心の底で眠っている得体の知れない悲しみを起こしたくなかった。時々、ふと悲しみがこみ上げることがあった。この悲しみは、何もできずに目の前で弟を亡くした悲しみなのか、突然目の前から消えてしまった母親を思っての悲しみなのか、やさしかった拓也の死による悲しみなのか、原因は分からなかったが、原因を追究する気持ちにはなれなかった。

 気がついたときには、悲しみを紛らわすためにキーボードを叩いていた。ピアノを弾いて集中することで悲しみを忘れることもあったが、やはり、言葉を生み出していないと悲しみは消え去ろうとはしなかった。亜紀は、毎日、いろんな言葉を生み出した。この言葉は、自然に湧いてくるものであったが、やはり、悲しみを忘れるための習慣だった。亜紀にとって、書くことは、呼吸と同じようになっていた。一日たりとも、書かずに過ごすことができなくなっていた。

 

 実の父親のように読み聞かせをしてくれた拓也、実の母親、知美以上に優しいアンナ、親身に話を聞いてくれる親友のようなさやか、彼らのことを毎日、書き記しているにもかかわらず、彼らについて作文を書くことになったとたんに、どこからか、亡霊のような母親、知美が現れるようになった。だからといって、母親、知美について何か書く気持ちにはなれず、言葉も生まれなかった。ぼんやりとした母親の姿を、しっかり見つめたいような、消し去りたいような、自分でもはっきりしない、もやもやした気持ちになった。

 

 得体の知れない悲しみが襲ってくるようになったとき、ふと、犬の顔が目の前に現れた。その犬は、親友が飼っていたダックスフンドの顔だったが、一瞬、心がぱっと開放されたように、気分が晴れやかになった。そのときから、犬を飼いたいと思うようになった。ネットで犬の動画を見ているうち、シェルティに一目ぼれをしてしまった。そして、無性に欲しくなり、機会があれば、アンナにねだる気持ちでいた。

 犬を見ていると、自分の気持ちを聞いて欲しくなるのだった。誰にも言えない本当の気持ちを犬に聞いて欲しかった。自分にも分からない得体の知れない悲しみを犬に聞いて欲しかった。そして、犬を家族の一員として作文に書きたかった。そのことが頭に浮かんでからは、家族の作文が書けるような気持になった。子犬が早く来ないかといても立ってもいられなくなった。

 

                  スパイダー

 

 やさしい執事の約束の日から3日後、待ちに待った子犬のシェルティがやってきた。子犬は、浦志にあるドッグファミリーからやってきた。そこは、先日のぞいたペットショップで、執事はこの店にシェルティを依頼していた。執事は、子犬だけでなく、子犬を飼うために必要なもろもろの物も依頼していた。ペットサークル、ベッド、クレート、皿、ドッグフード、トイレシーツ、首輪、リード、おもちゃ、などもそろえて持ってきてくれた。

 

 子犬は、血統書つきの生後2ヶ月で、とてもかわいらしかった。毛色はトライで、顔は黒、目の上が茶色、口は白っぽく、亜紀好みの顔であった。さっそく、犬の部屋にしては豪華な6畳の部屋に子犬を運んでいった。亜紀は、子犬を見つめスパイダーと呼んでみた。子犬は、まったく反応しなかったが、亜紀の心はルンルンであった。今まで、自分の気持ちをマジでぶつけられる相手がいなくて、欲求不満になっていたが、子犬を見ているだけで気持ちがスカッとしてきた。

春日信彦
作家:春日信彦
悲しみの化身
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