悲しみの化身

「あのやさしいなおじさん、誰なの?」亜紀は、突然やってきて、アンナをお嬢さんと呼びかけた紳士に疑問を抱いた。「あ~、あのおじさんね。あのおじさんは、会長の執事なの。まあ、会長のお手伝いさんみたいなものね。今日は、会長の命令でやってきたみたいよ」さやかは、子供にも分かるように答えた。亜紀は、まだよく分からない顔をして、訊ねた。「会長って、誰なの?偉い人?金持ちなの?」亜紀は、会長という言葉が頭の中で飛び跳ねていた。

 

 さやかは、ほんの少し考えた。さやかも会長の本当の素性を知らなかった。単なる憶測で、アンナの父親であると思っていたに過ぎなかった。このことは十中八九当たっていると確信していたが、確証はなかった。会長のことを父親と言おうと思ったが、おじいちゃんにすることにした。「会長って、とっても親切なおじいちゃんなの。だから、思いっきし、甘えていいのよ、亜紀。お金は、腐るほど持ってるんだから」さやかは、子供たちを殺し続けている化学兵器を製造販売して、金儲けしている得体の知れないクソじじいから、汚い金をむしりとることにしていた。

 

 亜紀は、おじいちゃんと聞いて会いたくなった。「え~~、ママにおじいちゃんがいたの。いつか会いたいな~」亜紀は、パット笑顔を輝かせた。「あ、まあ、いつか、会えるときが来るかもね。おじいちゃんは、南の大きな島にたくさんの召使に囲まれて、気楽に生活しているの。でも、とても人と会うのを嫌っていて、少し変人なのよ。だから、人とは直接会わないのよ。だから、今日も、執事をアンナのところによこしたってわけ」さやかは、すぐには会えないように、適当に話を作った。

 亜紀の頭に、やさしいおじいちゃんの姿が浮かび上がり、ますます興味が湧いてきた。「だったら、いつか、おじいちゃんのところに遊びに行こうね、さやか。約束よ。おじいちゃん、犬すきかな~、シェルティ連れて遊びに行こうよ。良いでしょ」亜紀は、南の島と聞いて、楽園のようなところを思い浮かべ、すぐにでも行きたい気分になってしまった。さやかは、南の島と言ったことに後悔した。確かに南の島には違いなかったが、その島は、化学兵器を作っている人工の魔界島だったからだ。

 

 さやかは、おじいちゃんの話題から、子犬の話題に替えることにした。「そうだ、今度来る子犬の名前、なんにするの?もう決めてるの?」さやかは、最も気にしている子犬の話を持ち出した。「子犬の名前、う~ん、なにがいい、さやか」亜紀の頭が、子犬のことに切り替わったことで、ほっとした。これ以上、会長の話をしていたら、ますます作り話をしなければならなかったからだ。

 

 さやかは、悩んだ顔をして答えた。「そうね~、男の子だから、太郎はどう?」さやかは、ありふれた名前をとりあえず言ってみた。亜紀は、さやかをダサい大人と思った。あまりにも、ありふれた名前を平然と言ったさやかに少しがっかりした。「太郎・・今時、はやんないんじゃない、もっとかっこいいい名前、ないかな~、スパイダーってのは、どうかな~?」亜紀は、スパイダーマンを思い浮かべて言ってみた。

 かっこいいようでもスパイダーは蜘蛛の意味だから、ちょっと犬の名前にはふさわしくないと思った。「でも、スパイダーって、蜘蛛ってことじゃない。犬が蜘蛛じゃ、おかしくない?」さやかは、ちょっと反対した。亜紀は、振り向くと歩き始めた。さやかは、亜紀の機嫌をそこねたのではないかと思い、すぐに後を追った。店内のテーブルに戻ってみると、アンナの姿はなかった。「ママは、厨房かな?」亜紀は、厨房に向かって歩いていった。

 

 アンナは、厨房の丸椅子でぼんやりしていた。「ママ、親切なおじちゃん見送ってきた」亜紀は、アンナの横に立ち大きなお腹をじっと見つめた。「お腹の赤ちゃん、来月生まれるのね。弟かな~、妹かな~、早く、見たいよ~、」亜紀は、お腹をそっとさすった。「どっちが生まれても、かわいがってね。初めての赤ちゃんだから、ちょっと心配だけど、頑張って生むからね、亜紀。応援してね」アンナは、男の子が生まれることをさやかには教えていたが、亜紀には黙っていた。

 

 拓也の子供を生むことに喜びを感じてはいたが、一人ぼっちで子供を生むようで心細かった。「アンナ、亜紀もさやかも、ついているじゃない。ド~ンと太っ腹で、産めばいいのよ」さやかは、アンナが孤児である自分たちのことを卑屈に思っているのではないかと心配した。「そうよね、亜紀もさやかも拓也も、みんな見守っているのよね。元気が出てきた、元気で、明るい子を産んでみせる。よし」アンナの不安な顔が、一気に笑顔に変わった。

 

 亜紀も笑顔を作った。「それに、南の島のおじいちゃんも、さっきのやさしいおじちゃんも、今度来るシェルティも、みんなママを応援してるよ。ママ、ファイト!」亜紀は、アンナの笑顔を見つめ、声を張り上げた。アンナは、亜紀の励ましの言葉に感心し、きっと優しいお姉ちゃんになれると確信した。アンナは、ちょっと、きょとんとした表情で訊ねた。「亜紀、南の島のおじいさんって、誰?」アンナは、小さな声で訊ねた。

 

 亜紀は、大きな目をして答えた。「ママのおじいちゃんのことよ。大金持ちの」亜紀は、さやかが話したおじいちゃんのことを言っていた。アンナは、しばらく考えて、ぼそりと言った。「おじいちゃん、南の島の?」アンナは、さやかの顔を見つめた。さやかは、とっさに作り笑いをして答えた。「ほら、おじいちゃんよ。ほら、会長!親切で、金持ちの」さやかは、アンナに右目を閉じてウインクした。

 

 さやかが、またもや、いいかげんなことを言ったな、とアンナは心で思ったが、会長のことは亜紀に話したくなかったため、さやかの言うとおり、おじいちゃんにしておくことにした。「あ、そう、おじいちゃんね、そうよね」アンナは、適当に応えてしまった。亜紀は、大きなお腹をゆっくりさすりながら、話を続けた。「ママ、生まれてくる子供の名前、もう、決まってるの?」亜紀は、アンナが考えている名前が知りたかった。

春日信彦
作家:春日信彦
悲しみの化身
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