演技する死体

 いつものように、丈の短い浴衣姿のコロンダ君が書斎でぼんやりしていると、下着をつけず浴衣だけのお菊さんが、冷たいジャスミンティーを運んで入ってきた。中央の丸テーブルにお茶を置くと、声をかけた。「坊ちゃん、どうなされましたか?最近、元気がないようですが。笙子のことでも考えていらっしゃるんでしょ?潔く、あきらめられてはどうです?そう、素敵なお見合いの話があるんですよ、坊ちゃん」お菊は財務大臣の孫に当たる令嬢とのお見合いの話を持ってやってきた。

 

 いつもであれば、即座にテーブルにやってきて、顔を真っ赤にしてお見合いの話を断るのであったが、今日の彼は、反抗する元気もなかった。高校時代の彼女の殺人事件が頭から離れず、目が落ち込むほど気がめいっていた。法律的にはまったく問題点のない殺人事件であったが、コロンダ君にとってはすべてが納得いかなかった。温厚でやさしかった彼女が、殺人を犯すとはどのように考えても、理解できなかった。

 

 今では、自分の思考と感性までも自信を失っていた。「坊ちゃん、こちらにいらしてくださいな。ほら、素敵なお嬢さんじゃないですか」お菊さんはお見合い写真を広げてニコッと笑顔を作った。コロンダ君はゆっくりと席を立つと幽霊のように静かに床をするように歩き、テーブルの席に着いた。コロンダ君は、お見合い写真には一瞥もせず、お菊さんに声をかけた。「悪いけど、それ、しまってください。今は、そんな気にはなれないんですよ。ちょうど、よかった、僕の話を聞いてくださいませんか?」死んだ魚のような目でお菊さんをじっと見つめた。

 

 少し青ざめた顔に落ち込んだ目のコロンダ君を見たお菊さんは、心配そうに返事した。「どう、なさいました?どこか具合でも悪いんですか?」お菊さんはコロンダ君をじっと覗き込み顔色をうかがった。コロンダ君は亡霊がしゃべるかのようにゆっくりと話し始めた。「もう、僕はすべてに自身をなくしました。今まで築きあげてきた人間観がすべて崩壊してしまいました。いったい、これから僕は何を考え、何を信じて生きていけばいいかわからなくなってしまったんです。もう、生きる気力さえないんです」コロンダ君は、悪魔に魂を盗み取られた精神病患者のように、今にも自殺しそうな顔つきだった。

 

 今までにない悲壮で深刻な表情のコロンダ君を見たお菊さんは、すぐに病院に連れて行くことを考えた。「坊ちゃん、大丈夫ですか、すぐに救急車を呼びますから、ベッドに横になってください」お菊さんは、すっと立ち上がるとコロンダ君の左横に立ち、右腕をコロンダ君の脇に入れた。コロンダ君のうめくような声が飛び出した。「待ってください。僕は病気じゃありません。人間不信に陥っているだけなんです。僕の話を聞いてください」コロンダ君は、弱弱しい声で訴えた。

 

 お菊さんは唖然とした顔でコロンダ君を見つめると、元の席に腰掛けた。「坊ちゃん、どうなさいました?お菊をびっくりさせないでください。本当に大丈夫なんですね。坊ちゃんの心配事って何ですの?お菊によくわかるように、話してみてください」お菊は、コロンダ君を癒すようにやわらかい笑顔を作った。コロンダ君は、少し困った顔をしてつぶやいた。「どのように話していいか、僕にもよくわからないんです。でも、僕の人生にかかわることですから、お菊さんの力を借りたいと思います」コロンダ君は大きく深呼吸して、ジャスミンティーを一口すすり話し始めた。

 「お菊さんも、すでにニュースで知っていると思うけど、参議院議員の射殺事件のことなんですが、自首してきた前田アツ子は高校時代の友達なんです。彼女が、猟銃でご主人を殺したなんて、どうしても信じられないんです。これって、本当のことなんでしょうか?僕には、どうしても受け入れられないんです。お温厚な彼女が、たとえ、浮気を知って、かっとなったとしても、猟銃でご主人を殺すなんて、こんなことがありえるでしょうか?」

コロンダ君は心のわだかまりを吐き出すようにお菊さんに問いかけた。

 

お菊さんもゆっくりと深呼吸して、思慮深く回答した。「坊ちゃん、お気持ちはよくわかります。高校時代の彼女が殺人をするなんて、信じられないのはごもっともです。でも、人って言うのは、時間とともに、環境によって、変化するものです。彼女の気質は温厚だと思います。でも、ご主人の浮気を知って、激情し犯行にいたったと考えても筋が通ります。男と女の事件は、理屈では理解できないものなんです。人間の嫉妬というものは、この世でもっとも恐ろしいもなんですよ、坊ちゃん」嫉妬による殺人事件は、巷にごろごろしていると、あっさりと言った。

 

 コロンダ君の顔がさらに青くなってしまった。指を震わせながら、コロンダ君は反論した。「お菊さんのおっしゃることはもっともです。僕も、嫉妬による事件をいくつも知っています。でも、でもですね、彼女は、違うんです、本当に、心優しい人なんです。理由にはならないとは思うけど、彼女はクリスチャンで、信心深い人なんです。それと、このことがもっとも僕の気にかかっていることなんですが、彼女は妊娠していたのです。こんな彼女が、殺人を犯すでしょうか?」コロンダ君は、妊娠していたことをお菊さんに教えた。

 お菊さんは、寝耳に水の顔をして、叫んだ。「え!妊娠!妊娠していたんですか?ニュースでは言っていなかったわね。妊娠していたとなると、ちょっと、ややこしくなるわね。子供ができたとなれば、女には母性本能が働くわ。どんなに殺意があっても、子供のために、殺人行為を押しとどめると思うわ。離婚に踏み切っても、殺人はしないと思うわ。お菊もわからなくなってきたわ」お菊さんは、妊娠と聞いて頭が混乱し始めた。

 

 コロンダ君は、お菊さんの気持ちが動いたことにほんの少し元気が出てきた。「でしょ、でしょ、妊娠していた彼女が、殺人をするとは考えられないんだよ。お菊さんもそう思うだろ。彼女の自白は嘘じゃないだろうか?」コロンダ君は、お菊さんのひらめきに期待した。お菊さんは、苦虫をつぶしたような困り果てた表情をすると、頭を整理するように話し始めた。

 

 「ちょっと、頭がすっきりしないんだけど、仮によ、もし、彼女が殺していないとすれば、真犯人がいるということになるわね。でも、彼女は自分が殺したと自白した。と、言うことは、彼女は真犯人をかばっていることになるわね。彼女がかばわなければならないような人とは誰か?そんな人いるかしら?」お菊さんは、困り果てた顔で、腕を組み天井を見つめた。

春日信彦
作家:春日信彦
演技する死体
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