片想い

 峰岸はあまりにも無謀な相談に唖然としたが、はっきりと返事した。「無駄ね、たとえ勝負しても、まったく勝ち目はないから。何度か稽古の相手をしてもらったことがあるけど、いまだかつて、一本も取ったことがないんだから。強いってもんじゃないのよ。まったく歯が立たないの。一本とるのも、無理、無理」峰岸は勝負にならないことをはっきり伝えた。柏木は峰岸が三島に勝てるとは思っていなかった。そこで、雲泥の差の実力を考えて、勝負の方法を提案した。

 

 「峰岸の言っていることは、もっともだよ。三島君は九州ナンバーワンなんだから。だから、三島君に五本勝負を挑むの、もし、一本でも取れたら、峰岸の勝ちと言うのはどう?」柏木は大きく目を開き、少し前かがみになって話した。峰岸はあきれた顔で返事した。「柏木は剣道のことがよくわかってないみたいね。無理なのよ。今の実力じゃ、一本も取れっこないのよ。残念だけど、勝負は無駄ね」峰岸も力になりたいとは思ったが、事実を言う以外になかった。

 

 柏木は肩を落としうつむいてしまった。「絶対にダメ、奇跡を信じても、ダメ」柏木は小さな声でぼそりと言った。一瞬、峰岸に鳥肌が立った。峰岸の脳裏に寂しそうな渡辺の顔が浮かんだ。峰岸はしばらく黙っていたが、渡辺のために勝負する決意をした。「よし、奇跡を信じるか!負けるとわかっていても、渡辺のためだ、でも、果たして、三島君がこんな勝負に乗ってくれるかだよ、柏木」峰岸には自分たちの考えがこっけいに思えた。

 

 柏木もクスクス笑いながら話を続けた。「それなんだけど、三島君って、剣道に関しては、すごくプライドが高いじゃない。きっと、峰岸に一本でも取られることはないと思うのね。だからこそ、この勝負、乗ってくると思うのよ。絶対乗ってくるよ、峰岸」柏木は自信にあふれた笑顔で峰岸をせきたてた。「う~、言われると、そんな気がしてきたよ。三島君はかなり、気が強いからね。よし、いざ出陣と行くか」峰岸は右手に握りこぶしを作った。

 

 

病んだ心

 

 3月14日(木)卒業式は無事に終わり、職員室で3年エリートクラス担任の安倍先生は、愛読書の「剣の道」を開いて読んでいた。渡辺が不登校になってからは安倍先生の心はうつになってしまった。去年から彼の心は病んでいたが、なぜここまで心が沈んでしまったか理解できなかった。家庭科の先生であり、自宅で茶道を教えている和服姿の新島先生が静かにドアを開けて入ってきた。

 

 新島先生は安倍先生の隣に腰掛けると声をかけた。「先生、最近、元気がないですね。どこか具合でも悪いんですか?」暗く無口になった安倍先生は一人孤立していた。「いえ、特にこれと言った病気ではないんですが、どうも、やる気がおきないんですよ。困ったものです。元気が出る薬はありませんか?」安倍先生は笑顔でぼやいた。「そう、お茶を一服されてはいかがですか?」新島先生はお点前を勧めた。

 「お茶ですか、一度も経験がありません。でも、一度は飲んでみたいと思っていました。お邪魔してもよろしいですか?」安倍先生は病んだ心をじっと見つめたかった。「ぜひ、いらしてください」早速、新島先生は南風台の自宅に案内した。南風台はセレブ街で高級住宅が立ち並んでいた。トヨタマークXに乗った安倍先生は新島先生のアウディーTTクーペの後について行くと、豪華な洋風住宅が立ち並ぶ中、広い庭を構えた平安朝を思わせる静かなたたずまいの瓦葺の新島邸に到着した。

 

 新島先生はM銀行頭取のご令嬢とうわさされていたが、自宅を見て納得した。彼女は28歳の独身で、花婿募集中であったが、父親が勧めた数回のお見合いを断り、いまだ独身であった。新島先生は安倍先生がもし独身ならばプロポーズしたいと思うほどの美人であった。リビングに案内され、少し待たされると白髪の恰幅のいい紳士が現れた。彼女の父親であった。「よく、お越しいただきました、矢重の父親です。いつも、お世話になっております」紳士は軽く頭を下げた。

 

 母屋の東に石畳でつながっている茶室に案内された安倍先生は異次元の小宇宙に迷い込んだような不安感に陥った。「何か、場違いなところにやってきたみたいで、落ち着きません。うまく、お茶が飲めるか、心配です」安倍先生は始めての茶室に動揺してしまった。「緊張しないでください、茶道には一定の作法がありますが、先生は気にしないでください。お茶をいただき、心を癒すつもりで、リラックスしてください」新島先生はお茶の楽しみ方を教えることにした。

 

 「豊臣秀吉に使えた茶聖千利休をご存知でしょう、茶聖は茶道とは自由と個性だとおっしゃられています。きっと、お茶をたしなむことによって、心を開放し、自分の個性を見つめなさいとおっしゃっておられるんだと思います。先生も、今は心を開放し、お茶の宇宙を楽しんでみてください。何か、感じることがあれば自由におっしゃってください」新島先生はお茶の本質を知ってもらいたかった。

 

 静かにお茶を点てる新島先生は光り輝くオーラに包まれた天女のように思えた。正座した安倍先生はお茶を左手に乗せ、右手で二回時計回りに回転させると、お茶を三回で飲み干した。新島先生に言われた作法でお茶をいただくと静かに目を閉じた。安倍先生は突然話し始めた。「私の剣は穢れています。人を守るために剣の道に入りました。でも、今の私の剣は人殺しの剣になってしまいました。どうしていいかわかりません」安倍先生はじっと固まったように身動きひとつしなかった。

 

 新島先生は安倍先生の心の病の深刻さを即座に感じ取った。「剣道のことはわかりません。でも、茶道も剣道も極めるものは、愛ではないでしょうか?茶聖は愛を貫くために自害したのだと思います。人にとって最も大切なものは“権力”ではなく“愛”だとおっしゃっているんだと思います。私はまだまだ未熟者ですが、権力に負けない愛を持ちたいと願っています」新島先生は心の底に秘めた思いを打ち明けた。

春日信彦
作家:春日信彦
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