未来の価値

「精子の提供を否定しません。現に私は提供しています。むしろ、精子を購入する女性の倫理が大切ではないかと思います。優秀な精子、たとえば、ノーベル賞、フィールズ賞受賞者の精子を買い求め、子供を生み、育てることは悪いこととはいえません。しかし、男性の意思を必要とせず、女性の意思のみで出産された子供は、親への愛の形成においてつらい葛藤を伴うことでしょう」

 

 ドクターは淡々と意見を述べた。拓也は自分の気持ちを爆発させた。「生まれてくる子供のことなんです。いいたいことは。やはり、両親の愛情のもとに生まれて、初めて子供は人間としての愛を形成できると思います。娘がいますが、離婚した後もいつもその子のことを考えています。これが親ではないですか。また、当然の義務ではないですか」拓也は少し早口にしゃべってしまった。盤面に眼を落とすと3八玉とさした。

 

 ドクターは拓也の意見に賛同するように笑顔で返答した。「確かに、子供の成長において親の役目は、この上なく重要です。だから、親の義務をもっと考える必要がありますね」ドクターは4二銀とさした。拓也の口から堰を切ったように言葉があふれ出た。「自分の子供は死ぬまで愛し続けたいのです。知らない女性が、知らないところで、自分の子供を育てていると思うと、とても不安になります。やはり僕には・・・」拓也は5五歩と仕掛けた。

 拓也は悩みを打ち明けたことで少し気分は良くなってきたが、将棋をさす気力がうせてきてしまった。ドクターが同歩と指すとポンと膝を叩いて勝負をやめた。「勝負はお預けということで、明日、みんなでランチしませんか。是非、遊びに来てください。自宅にはアンナ、さやか、亜紀がいますから久しぶりにみんなで騒ぎましょう。お待ちしています」ドクターが頷くと、拓也は将棋盤と駒箱を鞄に入れ部屋を出た。

 

拓也の決断

 

 アンナはリビングのソファーに腰掛けぼんやりしていた。その隣ではさやかがチーズケーキを食べていた。アンナは最近ダイエットのため甘いものを避けている。さやかは体質的に甘いものを食べても太らない。アンナが拓也と結婚を誓って一年が過ぎた。二人は入籍し実質的に夫婦となった。拓也家には拓也、アンナ、亜紀の三人と居候のさやかがいる。さやかはアンナの希望で居候している。

 

 アンナはいまだ妊娠していない。拓也の勃起不全がまったく良くならないからだ。良くなる兆候さえ見られない。アンナの不安は募るばかりであった。ここのまま勃起不全が良くならなければ、子供ができないことになる。アンナは子供がほしかった。アンナはさやかがかつて言っていた人工授精を思い出していた。「アンナ、少しぐらいだったら、いいんじゃないの?」さやかはケーキを勧めた。

 アンナはここ最近、うつ症状に陥り、ぼんやりする日が多くなっていた。さやかの言葉も耳に入っていなかった。「アンナ、聞いているの?」さやかはアンナの右肩をポンと叩いた。「え!なんか言った?」アンナはとろんとした眼でさやかを見つめた。「アンナ、あまり考え込むと身体に悪いわよ。といっても、拓也の症状がいっこうに良くならないということは問題だよね。もうこれ以上は待てないよね。アンナ!」さやかはアンナに決心を促した。

 

 「本当に、いつまで待てばいいのよ。いつになったら子供ができるのよ。拓也のおおバカやろう。どうして起たないのよ~」いつものぼやきが始まった。「アンナ、もうあきらめよう」さやかは人工授精を勧めることにした。「いやよ、子供は絶対にほしいの!あきらめないから」アンナはさやかをにらめつけた。「アンナ、そうじゃなくて、拓也のあそこをあきらめるってこと。人工授精をやりなさい。拓也に決心させるのよ」さやかは握りこぶしを作ってアンナを激励した。

 

 アンナも拓也のあそこをあきらめかけていた。まったく、勃起しないのだ。時々、マッサージするのだが、まったく反応がないのだ。他に身体的な原因があるのではないかと人間ドッグの検診を試みたが、別に問題となる病気は見当たらなかった。一年経っても反応がないというのは、かなりの重症で回復の見込みがないと思えた。もはや、アンナの心は壊れかけていた。絶望感からウツに陥ってしまった。

 「そうよね、もう待てないよ。拓也に頼んでみようか?そう、明日、ドクターが遊びに来るって拓也からメールがあったのよ。ドクターにも相談しようかしら」アンナの表情がパッと明るくなった。「アンナから言いにくかったら、さやかが頼んであげようか?」さやかは助け舟を差し出した。「そうね、こういうことはさやかのほうがうまくいくような気もするわね。さやか、お願い!拓也をうまく丸め込んでちょうだい。一生、恩にきるわ」アンナは顔の前で両手を合わせた。

 

 翌日、ドクターは中洲のワシントンホテルからタクシーで11時半頃やってきた。ドクターはドアのインターホンを軽く押した。ピンポンと鳴ると亜紀が飛んで迎えに出た。亜紀は久しぶりにドクターを見て少し恥ずかしそうにしていた。ドクターは笑顔を見せると腰をかがめて挨拶をした。「亜紀ちゃん、こんにちは!とても元気そうで良かった。はい、お土産!」ドクターはキャナルで買ったシュークリームとバームクーヘンが入った袋を手渡した。

 

 亜紀は左手に袋を下げ、右手でドクターの左手を掴んで嬉しそうにリビングまで引っ張ってきた。ドクターが入ってくると、拓也、さやか、アンナが笑顔でドクターを歓迎した。「いらっしゃい、ドクター!待ってたわ」アンナは元気よく挨拶した。「お土産、もらった」亜紀はアンナに手提げ袋を手渡した。アンナはお礼を言うとキッチンにみんなを案内した。

春日信彦
作家:春日信彦
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