未来の価値

 「だから、争いが絶えないんですね。人類は“共生”を可能にする理性を創り出せますか?」拓也は人間の理性を疑っていた。拓也は7七角とさした。「人類誕生後、長い歴史において創り出せませんでした。いまだ、戦争は世界各地で起きています。今後の人類が創り出せる事を期待する以外ないでしょう」ドクターは話し終えると白い指先に駒を挟み、4二玉とさした。

 

「ドクターの理論が、その理性を創り出すのに大いに役立つといいですね」拓也は駒音高く5八飛とさした。「ところで、ドクターは精子バンクをどのように考えますか?」拓也は心の底にくすぶる悩みを打ち明けることにした。これは拓也の悩みと察知し、背筋を伸ばし丁寧に返答した。「人類を考える場合、生命の誕生までの過程とその誕生後の育成に分けて考えましょう」ドクターは3二玉とさすと話を続けた。

 

 「今、世界には精子を必要とする多くの女性がいます。先生が一番関心を持たれている点は、精子の提供における倫理だと思います」拓也は大きく頷き少し前かがみになり、ドクターを見つめた。「そこなんです、たとえ、僕の精子を高く買ってくれたとしても、愛してもいない女性に提供する気になれないのです。ドクターはどうですか?」拓也は4八玉とさした。ドクターはしばらく盤面を見つめると5二金右とさした。

 

「精子の提供を否定しません。現に私は提供しています。むしろ、精子を購入する女性の倫理が大切ではないかと思います。優秀な精子、たとえば、ノーベル賞、フィールズ賞受賞者の精子を買い求め、子供を生み、育てることは悪いこととはいえません。しかし、男性の意思を必要とせず、女性の意思のみで出産された子供は、親への愛の形成においてつらい葛藤を伴うことでしょう」

 

 ドクターは淡々と意見を述べた。拓也は自分の気持ちを爆発させた。「生まれてくる子供のことなんです。いいたいことは。やはり、両親の愛情のもとに生まれて、初めて子供は人間としての愛を形成できると思います。娘がいますが、離婚した後もいつもその子のことを考えています。これが親ではないですか。また、当然の義務ではないですか」拓也は少し早口にしゃべってしまった。盤面に眼を落とすと3八玉とさした。

 

 ドクターは拓也の意見に賛同するように笑顔で返答した。「確かに、子供の成長において親の役目は、この上なく重要です。だから、親の義務をもっと考える必要がありますね」ドクターは4二銀とさした。拓也の口から堰を切ったように言葉があふれ出た。「自分の子供は死ぬまで愛し続けたいのです。知らない女性が、知らないところで、自分の子供を育てていると思うと、とても不安になります。やはり僕には・・・」拓也は5五歩と仕掛けた。

 拓也は悩みを打ち明けたことで少し気分は良くなってきたが、将棋をさす気力がうせてきてしまった。ドクターが同歩と指すとポンと膝を叩いて勝負をやめた。「勝負はお預けということで、明日、みんなでランチしませんか。是非、遊びに来てください。自宅にはアンナ、さやか、亜紀がいますから久しぶりにみんなで騒ぎましょう。お待ちしています」ドクターが頷くと、拓也は将棋盤と駒箱を鞄に入れ部屋を出た。

 

拓也の決断

 

 アンナはリビングのソファーに腰掛けぼんやりしていた。その隣ではさやかがチーズケーキを食べていた。アンナは最近ダイエットのため甘いものを避けている。さやかは体質的に甘いものを食べても太らない。アンナが拓也と結婚を誓って一年が過ぎた。二人は入籍し実質的に夫婦となった。拓也家には拓也、アンナ、亜紀の三人と居候のさやかがいる。さやかはアンナの希望で居候している。

 

 アンナはいまだ妊娠していない。拓也の勃起不全がまったく良くならないからだ。良くなる兆候さえ見られない。アンナの不安は募るばかりであった。ここのまま勃起不全が良くならなければ、子供ができないことになる。アンナは子供がほしかった。アンナはさやかがかつて言っていた人工授精を思い出していた。「アンナ、少しぐらいだったら、いいんじゃないの?」さやかはケーキを勧めた。

 アンナはここ最近、うつ症状に陥り、ぼんやりする日が多くなっていた。さやかの言葉も耳に入っていなかった。「アンナ、聞いているの?」さやかはアンナの右肩をポンと叩いた。「え!なんか言った?」アンナはとろんとした眼でさやかを見つめた。「アンナ、あまり考え込むと身体に悪いわよ。といっても、拓也の症状がいっこうに良くならないということは問題だよね。もうこれ以上は待てないよね。アンナ!」さやかはアンナに決心を促した。

 

 「本当に、いつまで待てばいいのよ。いつになったら子供ができるのよ。拓也のおおバカやろう。どうして起たないのよ~」いつものぼやきが始まった。「アンナ、もうあきらめよう」さやかは人工授精を勧めることにした。「いやよ、子供は絶対にほしいの!あきらめないから」アンナはさやかをにらめつけた。「アンナ、そうじゃなくて、拓也のあそこをあきらめるってこと。人工授精をやりなさい。拓也に決心させるのよ」さやかは握りこぶしを作ってアンナを激励した。

 

 アンナも拓也のあそこをあきらめかけていた。まったく、勃起しないのだ。時々、マッサージするのだが、まったく反応がないのだ。他に身体的な原因があるのではないかと人間ドッグの検診を試みたが、別に問題となる病気は見当たらなかった。一年経っても反応がないというのは、かなりの重症で回復の見込みがないと思えた。もはや、アンナの心は壊れかけていた。絶望感からウツに陥ってしまった。

春日信彦
作家:春日信彦
未来の価値
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