未来の価値

 ドクターはゆっくりと拓也の理解を確認しながら話した。「僕もドクターの意見と同じなんです。というのも、ドクターのお父様もご兄弟も、T大をご卒業なされています。さらに、親類に多くのT大卒がいらっしゃることは、マスコミで話題になっていましたね。やはり、言語中枢の発達は遺伝だと思います」拓也は言い終えると6八銀とさした。ドクターはじっと駒を見つめ3四歩とさした。

 

 「いろんな分野における科学者の家系を調査すると、そういえる場合が出てきます。確かに、調査の結果、T大生の多くは親もトップクラスの大学を卒業しています。一方では、そうでないT大生もいます。このことは、親の教育によって言語中枢が発達したといえます」拓也は大きく頷くと静かに7七銀と駒を動かした。「天才と言われる人はどうですかね?」拓也は天才に興味を持っていた。

 

 「天才については研究の手がかりがないですね。天才も狂人も突然現れますから。精神病院にも天才がいますよ。私は魔女と呼んでいます。ハハハハ・・・」拓也も少し顔をゆがめて作り笑いをした。「ドクターどうぞ」拓也が勧めるとドクターは即座に6二銀とさした。拓也は目をパチクリさせ、しばらく黙っていたが、質問を続けた。「心についてですが、理性は普遍的なものですか?」

 意表を突いた質問にドクターの目がギョロリと動いた。「人間は将来の夢を抱くとき、あるいは愛する人を守ろうとするとき、理性を必要とします。理性は人間集団が作り上げた、生きていくうえで必要な社会的な自制心です」ドクターが話し終えると拓也は5六歩とさした。「たとえば、もし、自分が明日の5時に必ず死ぬと分かっていたならば、理性は必要ないですか?」拓也は極端な条件設定をした。ドクターは唇の右端を少し引き上げると5四歩とさした。

 

 「それでは、分かりやすく説明します。先生が殺したい人がいます。おそらく、将来の夢があり、愛する人がいる先生は、他人を殺すことはありません。ところが、先生は明日の5時時に必ず死ぬ。そのことが分かっていたならばどうでしょう?先生は明日の5時に必ず死ぬわけですから、将来の夢を持つことができません。また、愛する人もいなかったとします。このとき理性を必要としますか?」ドクターは拓也を見つめた。

 

 「もしかしたら、僕は殺人を決行するかもしれません。恐ろしいことですが」話し終えると拓也は6六銀とさした。「私が言いたいことは、将来の自分のこと、あるいは愛する人のことを考えるときに理性が生まれてくるのです。また、理性は人の集団が作り出すものです。ご存知のように、宗教、道徳、法律は地域によって異なります。したがって、自分の理性が唯一正しいと決めつけると、他人の理性を否定することになります。ここが難しいところです」ドクターは一呼吸おいて8五歩とさした。

 

 「だから、争いが絶えないんですね。人類は“共生”を可能にする理性を創り出せますか?」拓也は人間の理性を疑っていた。拓也は7七角とさした。「人類誕生後、長い歴史において創り出せませんでした。いまだ、戦争は世界各地で起きています。今後の人類が創り出せる事を期待する以外ないでしょう」ドクターは話し終えると白い指先に駒を挟み、4二玉とさした。

 

「ドクターの理論が、その理性を創り出すのに大いに役立つといいですね」拓也は駒音高く5八飛とさした。「ところで、ドクターは精子バンクをどのように考えますか?」拓也は心の底にくすぶる悩みを打ち明けることにした。これは拓也の悩みと察知し、背筋を伸ばし丁寧に返答した。「人類を考える場合、生命の誕生までの過程とその誕生後の育成に分けて考えましょう」ドクターは3二玉とさすと話を続けた。

 

 「今、世界には精子を必要とする多くの女性がいます。先生が一番関心を持たれている点は、精子の提供における倫理だと思います」拓也は大きく頷き少し前かがみになり、ドクターを見つめた。「そこなんです、たとえ、僕の精子を高く買ってくれたとしても、愛してもいない女性に提供する気になれないのです。ドクターはどうですか?」拓也は4八玉とさした。ドクターはしばらく盤面を見つめると5二金右とさした。

 

「精子の提供を否定しません。現に私は提供しています。むしろ、精子を購入する女性の倫理が大切ではないかと思います。優秀な精子、たとえば、ノーベル賞、フィールズ賞受賞者の精子を買い求め、子供を生み、育てることは悪いこととはいえません。しかし、男性の意思を必要とせず、女性の意思のみで出産された子供は、親への愛の形成においてつらい葛藤を伴うことでしょう」

 

 ドクターは淡々と意見を述べた。拓也は自分の気持ちを爆発させた。「生まれてくる子供のことなんです。いいたいことは。やはり、両親の愛情のもとに生まれて、初めて子供は人間としての愛を形成できると思います。娘がいますが、離婚した後もいつもその子のことを考えています。これが親ではないですか。また、当然の義務ではないですか」拓也は少し早口にしゃべってしまった。盤面に眼を落とすと3八玉とさした。

 

 ドクターは拓也の意見に賛同するように笑顔で返答した。「確かに、子供の成長において親の役目は、この上なく重要です。だから、親の義務をもっと考える必要がありますね」ドクターは4二銀とさした。拓也の口から堰を切ったように言葉があふれ出た。「自分の子供は死ぬまで愛し続けたいのです。知らない女性が、知らないところで、自分の子供を育てていると思うと、とても不安になります。やはり僕には・・・」拓也は5五歩と仕掛けた。

春日信彦
作家:春日信彦
未来の価値
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