そのまましばらく安静にしていた。全体的に不愉快だった。しだいに陣痛が
感じられた。余りにも無知な郁子は後産という言葉の意味も知らなかったが、
それがすでに済んだのか知らなかった。
和代が入室を許されて現れた。少ししゃべっているうちに、
「どうしたん、汗をかいているじゃない」
「痛いの。陣痛みたいに」
すでに呻きたいほどの痛みだった。和代はすっと立ち上がり、向こうに
行った。柏がすぐに来た。
「とても痛いんです」
彼は無言で、郁子の腹をぐっと押した。なにか下から出た感じで、痛みが嘘
のように消えた。
「ああ、楽になりました、有難うございます」
郁子は急に元気な声を出した。嬉しかった。
それは産後の子宮弛緩による大出血だったのだ。
二リットル近くの出血だった。郁子はO型である。
たちまち具合が悪くなった。ショック状態を引き起こしたらしい。
ともかくとても気分が悪かった。たくさんの白衣の人々が呼び集められ協議
された。郁子はこれで死ぬのかな、と思ったりした。余りに苦しそうだったの
だろうか、一人が膝を立てさせようとした。
郁子は死ぬような気持ちがして必死でいやいやと叫んだ。それをしたら全て
が消えそうな感じだったのだ。
大きな氷の塊が腹部に巻きつけられたが、痛くて冷たく、不愉快極まりな
かった。
輸血の血液はなかなか届かなかった。両親はもう勝手に分娩室に出入りして
いた。
「雅彦を呼んで」
夫の雅彦は関西にいて、こんなことになっているとも知らないでいるだろう。
郁子にとって大切な夫であった。
あとになって、鏡を見た郁子は自分の顔の蒼白さに驚いた。和代は娘をもう
死なせてしまったと思ったと言った。
九時過ぎに出産し、病室には戻らず、そのまま予備室で親子三人で休むこと
になった。苦しくて眠るどころではなかったので、郁子はたえず身動きした。
そのたびに驚くほどすばやく両親の顔がそこにあった。
翌日もあちこちが痛み、トイレにしゃがむのが分娩前とおなじくらい苦痛
だった。尿はだしたが、怖くて排便を我慢した。便意は充分にあったのだが、
必死でそれを我慢した。
だれも適当な指示を与えてくれなかったし、郁子も訴えなかった、我慢して
いた。
二日後にやっと、放送で呼び出され、母親達の洗浄に参加した。
郁子の股間の惨状はひどかったはずだ。
だれもT字体を替えてくれず、肛門には便がこびりついていた。
「どうしたの、コート(便)でいっぱいよ」
看護士に不機嫌に文句を言われて郁子は少なからず傷ついた。
医師の柏をみたとき、郁子の中におかしな慕情が沸き起こった。
分娩台から普通のベッドにうつるとき、少し距離があったので、彼が郁子を
抱きかかえて運んだ。それが思い出されたのだ。
年かさの看護士は、いくらかえらそうな口ぶりで、オートコンベアのように
次々と、若く不安だらけの母親たちの傷ついた股間にまなぬるい水をぶっかけ、
全体を粛々と進行させた。
少し人心地がついたころ、新生児がまだ名前もなくて、小さなベッドにころ
ころ運ばれてきた。郁子は初対面という感じでものめずらしいような気持ち
だった。しかし笑顔は自然に出てきた。
その子は色白で、黒い眸をパッチリ開けていた。
明るい光の中で、むしろ影を追っているようにも見えた。
和代が初めておしめを替えようとして、両足首を持ち少しお尻をあげた。と
たんに尿がとびだし、暖かい尿は新生児の片方の目に見事に入った。
目を閉じもせず、その暖かさを感じているようだった、多分羊水と変らな
かったのだろう。
子どもはまた連れて行かれ、両親も帰って郁子はただ自分の痛みや違和感と
戦うのみになった。
なにか、神経を刺激するような音が耳についた。それが叫び声であることは
しばらくしてわかった。
絶えず妊婦の出入りがあり、一夜準備室で親子三人すごした夜ですら、絶え
ずいきみと産声が重なっていた。しかしこの夜聞いているそんな叫び声は、い
くらなんでも聞いたことがなかった。
それは桁外れの痛み、拷問であるようだった。完全に自分を失っているか、
子宮に異常がおこっているとしか思えない、悪魔憑きという言葉を思いおこさ
せた。
一晩中それが続き、翌朝母親達が股間にお湯をかけられにいくとき、隣の部
屋で小さく「助けて、看護士さん、痛いよお、助けて」といいながら横たわる
姿が見えた。
何か機械につながれているようだった。足先がみえたが、指先のみがたえず
動いていたのが郁子の目にやきついた。
年かさの例の看護士は、恐らく自分もへとへとだったのだろう、
「痛くなきゃ生まれないんだよ、ねえ」
それは意地悪そうに聞こえた。
夕方、彼女がベッドごとどこかに運ばれていくのを見た。おそらく手術室だ。
やっと苦痛から開放されるのだ、と思い、自分の子がこんなことと縁がなく
生まれてよかった呟いた。生を受けた人間のおのおのが母親の苦痛なしで誰一
人として存在し得ないことが不思議とも思える。
こんな目にあうのだったら、あとは主婦としてのうのうと男に養われて当然
ではないか、と郁子らしからぬ新しい認識を事実だと思った。これを人に言わ
なければとまで。
その通りに、というわけではなかったが、郁子は主婦の生活を知った。国立
大学を出て、自分の能力を社会に生かす、しかし同時に家庭生活も営んでみせ
る、それが出来る自分だと当たり前のように考えていた。新婚生活すら仕事の
関係で別居結婚という形になったのだが、用心していたのに、どうしても充は
生まれてきたかったらしい。天から降ってきたように恵まれたのであった。そ
のために郁子はそれまでの故郷の山口県での仕事と生活を切り上げ、関西で親
子三人で暮らし始めた。