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郁子はまもなく三十九歳になろうとしていた。ロンドンにしては滅多にない
ほどの暑い夏日が続いていた。扇風機がすでに売り切れになっていると言う。
分娩室にも冷房はなく窓が開け放たれていた。青空が見えた。
「ほら、アイス、きっとおいしいよ」
夫のデイヴが戻ってきた。郁子はその青い瞳を見詰めながらアイスを舐めた。
優しいこと、と思った。同時に三件の出産があるということだった。夫婦は
ずっと二人きりのままで、陣痛の波を計るのはデイヴの仕事である。胎児の心
音はたえず聞こえてモニターされている。すでに予定日を五日過ぎていたが、
妊娠そのものはまったく問題なかった。
収縮は弱すぎた。郁子の体が若くないのを示すかのようだった。
若い女医がやっと見回りに来た。日本でやられたように、産道を下にやたら
と押される。郁子は陣痛が弱いと述べた。愛想のよい笑いを見せる女医は頷い
て機械を操作した。
まもなく収縮を感じて郁子が呻くと、胎児の心音も早くなった。彼女はあわ
ててまた元に戻したらしく、心音が収まっていった。
しばらくすると、女医の指導者の、痩身でロボットを思わせる目をした医師
がやってきた。彼にも何度か内診をうけている。郁子は妙な慕情がまたおこる
かと自分を観察している。医者のほうでそれを拒絶しているかのような冷たさ
があった。
「どうも、今診察したところ胎児の頭の回転がうまくいってないですね。子宮
の出口でひっかかっているのです。うまく通り抜けられるように頭の向きを変
えて見ますから、ちょっといいですか」
心の準備をするまもなく、彼はもう産道にふかく手を突っ込み、おそらく指
で子宮口にはまっている小さな頭を触り、片手では郁子の腹をつかみ、一気に
回転させようとした。
かなりの時間がかかった。あとでデイヴが、郁子がキイキイ叫んだと言った
が実に嫌な気持ちだったことしか覚えていない。胎児にも苦痛であったことだ
ろう。
しかし、それで終わったわけではなかった。収縮を強める薬が投入され、夕
方まで胎児は穴に頭の額の上を押し付けられ続けた。収縮が強くなるたびに、
心音も早くなった。
正しく頭頂部が出口に当たらねばならなかったのである。
夜八時すぎに、ロボットのような医師がまた来た。
「だめですね。どうしますか。帝王切開しますか」
「はい、そうして下さい」
そう言ったのはデイヴだった。郁子に異存は勿論ない。
ベッドに移され、分娩室を出るときロボットの目を少し人間らしくして、医
師が郁子に直接語りかけた。
「本当にお詫びいたします。今までふつうに分娩していらしたのに手術という
ことになり、申しわけありません」
「もう痛くないよ、イクコ」
デイヴがうしろから言った。
緑色のゴム製のような手術着の一団に囲まれた。
頭上に太陽のような明かりがいくつも並んでいる。だれの顔も認識できな
かったが、今から麻酔をかけるので数えてください、と聞こえた。二秒もしな
いとき、突然目が閉じてしまい明かりが消え真っ暗になった。
黒いカーテンがどんと落ちてきたように。そんな馬鹿な、速すぎる、と郁子
は思って慌てて目を見開いた。手術室の太陽が見えた。とたんに真っ黒な幕が
ドンと落ちた。
突然、息ができない、誰かの腕の気配を感じた。喉に何かがつっこまれ
引っ掻き回されている。郁子は必死で逃れようとする、苦しい。
そして意識が戻った。すでに廊下にいた。誰かにベッドごと運ばれていく。
あるところで止まり、デイヴがいた。姑のエリスがいつもの満面の笑顔で感
嘆詞を叫んでいた。腕に抱えていた白い包みの中に赤ん坊がいるのだ。郁子に
一瞬それを見せたが、またしっかり抱きかかえ世にも嬉しそうだった。
意外にも郁子は鋭い嫉妬を感じた。私のベイビーだと思った。デイヴはいつ
もと違って郁子の気持ちがわかったようだ。母親からとりあげ、郁子の胸へ新
生児を置いた。
混血児とは思えない、上の子達と同じだ。ふさふさした黒髪だけでなく、ま
るで郁子だけの遺伝子でできたようで驚いた。
まもなく、デイヴは家に帰ると言った。「お願い」
いつもになく郁子は心細かった。夜がどうなるか、ひとりで会話が充分でき
るのか心もとなかった。
「お願い、今夜ここにいて、お願い」
「イクコ、そういうわけにいかないんだよ。それは許されないんだ。完全看護
だからね」
郁子はうとうと眠った。下腹がたしかに切り裂かれているのが感じられる。
鈍痛しかなかったが、それはまだ麻酔が効いているからだろうとかすかに考
えた。
看護士がたえずやってきて血圧を測る。うとうとする。身もだえしながら次
によりはっきりと目覚めたとき、時刻はわからないが、まだ夜はえんえんと続
きそうだった。郁子はコールしてナースを呼び、呟いた。
「どうぞ、私をまた眠らせてください、お願いします」
ほんの少しの身動きしかできないまま、郁子は注射をされると眠った。
朝日が広い病室に差し込んでいた。一ダースも産婦が寝かされている。
若い看護士たちが金髪を煌かせながら、枕をはたき、ベッドを整えて回って
いた。だいぶ気分はよくなっていた。郁子のところに年かさの看護士が来て、
起き上がれと言う。ベッドに腰掛け、脚を下に垂らし、立ち上がれと言う。
信じられないまま、特に不都合もなさそうだったので、傷口がとても重たい
のを両手でささえながら、郁子は素直にその場で立ち上がった。とたんにどう
しようもなく苦痛にうちのめされた。
「あーっ、あーっ、あーっ、」
郁子は悲痛に三度叫んだ。それが目的だったのだ。たまっていた悪い空気を
肺から出させる。血の巡りを良くする。
それから毎朝、アルコールを背中にぶっかけられた。
毎度のことなのでわかっているのに、余りの冷たさに大声が出た。それも目
的だった。