友情をかけた嘘

「え!嘘だろ、ゆう子は糸高って言ってたぞ」菊池はあまりのショックにコーラのカップを握りつぶしていた。あふれ出た黒いコーラはトレイに広がった。「菊池君、袖が濡れてる」横山はハンカチを取り出すと菊池に手渡した。「知らないのは当然よ、12月に入って、特待生の話が決まったみたいよ。菊池君もW高校に行きたくなったの」ついに横山は菊池のハートに矢を放った。

 

 血の気が引いた菊池は「バカ言え」と叫んだが、あまりのショックに死にたくなった。「菊池、東京といっても飛行機を使えば3時間で会えるじゃないか、そんなにがっかりするな」

佐藤はなんと言っていいか分からず思いつきの励ましをした。菊池の頭の中は真っ白になっていた。「ゆう子は才能あるしな。良かったよな」菊池はこれ以上、この場にいたくなかった。スッと立ち上がると無言で立ち去った。両手をポケットに突っ込んだ菊池は、ぼんやりと亡霊のように裏道を歩いていた。

 

 東京と聞いたとき、ゆう子とは一生会えないような気がした。菊池はゆう子の応援が嬉しくてマウンドに立っていた。大きな試合ではいつもスタンドのどこかで応援してくれていた。東京に行ってしまえば、ゆう子の応援する姿が消えてしまう。このことを考えると野球の意欲まで消えうせてしまった。ゆう子の喜ぶ笑顔を楽しみに、必死になって投げてきた菊池にとっては、ゆう子のいない甲子園なんてどうでもいいように思えてきた。

 

部屋に閉じこもった菊池は夕食も取らず、寝込んでしまった。このまま、死ぬまで眼を醒ましたくなかった。眼を閉じると、ゆう子との別れの想いが次から次へと湧き出てきた。東京の高校に行ってしまえば、東京の大学に進学し、東京で就職することになる。きっと、二度と会えない。ゆう子のことだからすぐに彼氏ができるに違いない。東京のイケメンに勝てっこない。田舎者の俺なんか、すぐに忘れさられる。本当に東京に行っちまうのかよ~。

 

ドタン、ドタンと階段の鳴り響く音が菊池の耳元に近づいてきた。「兄ちゃん、メシ」弟の浩二が叫ぶとすぐに階下に降りて行った。勇樹は何も食べたくはなかったが、Y高校の進学の件を話す為に降りて行った。「寝とったんか?はよ、飯食わんか」父親の太は怒鳴りつけた。「寝とらん、考えごとば、しよったと、うぜ~な~」勇樹は椅子に腰かけるとお茶をすすっている父親に話しかけた。

 

「Y高校のことばってん、俺、やっていけるやろか?」Y高校を一度は断ったが、ゆう子との別れを考えると、勇樹は糸高に行く気がしなくなっていた。頑として断っていた勇樹がY高校の話を始めたとき、太の目は輝いた。「お!行く気になったとか?監督に断りの返事はしとらん。本当に行く気か!」太は本心を確認したかった。「名門でエースになれるか、自信ないけど、行こうと思う」勇樹はゆう子を忘れるには一番いい方法と考えた。

「よし、分かった。すぐに、監督にお願いするけん、甲子園目指して頑張れ」涙が出そうなほど太は嬉しかった。太もかつては甲子園を目指す野球少年だった。甲子園の夢はかなわなかったが、勇樹には甲子園のマウンドに立ってほしかった。そして、一軍のプロ野球選手になってほしかった。だが、太の心に何か冷たい風が吹いた。なぜ、今頃、Y高校に行く気になったのか?ふと、そのことが頭をかすめた。

 

どこか納得がいかない太は、親友の糸島高校野球部監督、中村に相談の電話を入れた。翌日、いつもの居酒屋赤ひげでいっぱい飲む約束をした。中村とは高校時代バッテリーを組んでいた。捕手の中村は頭がよく社会科の教員資格を取り、野球部の監督として活躍していた。太は実業団でノンプロとして活躍したが、プロ野球選手にはなれなかった。今は工作機械を製造するM製作所で班長として部下の指導に当たっている。

 

先に着いた太は、ボトルキープしている“焼酎いいちこ”のお湯わりをカウンターで飲み始めた。8時を回ったころ、無愛想な中村が暖簾をくぐってやってきた。太の左隣の椅子に腰掛けると6-4のお湯わりを作り中村に手渡した。「今日は俺のおごりだ。好きなだけ飲め」酔った太の愚痴を中村に聞いてほしかった。「勇樹のことだな、糸高じゃ不服ということか、俺を信用しろ、必ず大物にしてみせる。何も、甲子園に出るだけが野球じゃない、しっかり、基礎を作って、大学で活躍できれば、プロも夢じゃない。そう、がっかりするな」

中村は、一ヶ月前、Y高校を断った勇樹の話を聞かされ、太が絶望しているのを感じ取っていた。今日もまた、酔って荒れるんじゃないかと懸念して、太の機嫌をとることにした。「実はな、勇樹のやつ、Y高校に行くと言い出した。どうしたもんか」太は焼酎をすすると串先の鳥キモをひとつ咥えた。「え!マジか、おい、良かったじゃないか」中村は笑顔で太の左肩を叩いた。

 

「まあな、本人が決めたことだから、後悔はしないだろう」太は勇樹の決断を誇らしげに思ったが、本当に本心なのか疑問に思っていた。「元気がないじゃないか、どうしたんだ、Y高校だったら、甲子園は見えたも、同然じゃないか。大分ではダントツだからな。まあ、スカウトされたトップ選手相手にエースを勝ち取ることになるから、安心はできないけどよ。俺は、勇樹の才能を認めている。きっと、甲子園のマウンドに立っているさ」中村は左腕の勇樹を小さいときから見ており、体の柔らかさと全身のひねりを利かせたピッチングを高く評価していた。

 

「あのな、勇樹は本心で行く気になったのか、ちょっと気になったんだ。最初、あれほど拒んでいたのに、今になって急に行く気になったというのが気になったんだよ。もし、親を喜ばすために行く気になったのならば、俺は嬉しくない。本当に、名門校が肌に合わないと思うんならば、行かなくていい。田舎の糸高でのびのび基礎作りをやればいい。これは、遠回りのようだが、プロになることを考えれば正当な考えだ。俺は、無理にY高校を進めたくない、お前ならば分かるだろう」太は本音を吐いた。

春日信彦
作家:春日信彦
友情をかけた嘘
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